第62話 祈りと業務
翌日、一行はセレナリアを後にした。ここから三日ほど海沿いを進むと、シェナの部族であるセムナ族の街、サマルに着く。そこから内陸へ方向を変え、数日進むと目指す王都があるのだ。
馬車の外では、脇を固める衛兵たちが、サマルの街にもテルムはあるんだろうかと軽口を叩いていた。
これまで比較的安全とされる交易路を進み、幸い猛獣や盗賊の類にも遭遇しなかった。法王国の追手の影もなく、一行は海から吹く心地よい風を受けながら久しぶりに警戒を緩めていた。
やがて午後になった。雲ひとつない空から注ぐ陽の光は秋とは思えないほど強く、馬車の中にまでじりじりと熱を運んでくる。
「さすがに……暑いな」
ラウルは流れる汗を袖で拭った。彼の腕は長袖に覆われ、あの傷痕も見えない。
エミリアはラウルの腕に視線を向けた。
(昨日のあれ、ホントに何だったのかな……)
脳内に流れた『オペレーター』という声。それは初めて聞く言葉だった。
あの声で聞こえたということは、やはり管理者の力と何か関係があるに違いない。だが、ラウル本人はそのことを知っているのか。もし知っているのであれば、なぜ自分に話してくれないのか──答えの出ない考えが重なり合い、胸の奥がざわつくのを感じた。
「エミリア、聞こえるか?」
不意にラウルに話しかけられ、エミリアはハッと視線をラウルの腕から逸らした。
耳をすますと、地の底で何かが軋むような、低く途切れない唸りが響いていた。次第にその音は大きくなり、馬車の車輪が微かに震え始める。
馬車が止まり、前方の馬車から使節団の一人が駆け寄ってきた。
「みなさん、砂嵐です! 窓を閉めて、ショールで鼻や口を覆ってください!」
外を見ると、草原の向こうの空が黄土色に染まっていた。それは土壁のように周囲の景色を覆い隠し、じわじわと近づいてくる。
「砂嵐……! 砂漠で起きるものじゃないの!?」
「たしかに。こんな所まで来るなんて」
「最近、砂嵐が砂漠を越えて襲ってくるのです。しかしながら……ここは草原です。逃げ場がありません。馬車が持ちこたえられるかどうか……祈るしかありません……失礼します」
「そんな……」
エミリアから悲嘆の声が漏れた。
男は緊迫した声色でそう告げると、慌てて自分の馬車へと戻っていった。
ラウルの表情はこわばり、アンナも低く唸る風音に恐怖で顔が引きつった。
音は空気を震わせながら、次第にその輪郭をあらわにしていく。
黄土色の空がゆっくりと迫ってきた。
やがて、馬車がガタガタと揺れはじめる。
「エミリア、アンナさん。仕方がない……備えよう」
ラウルは絞り出すような声で告げた。それでも彼の二人を見据える瞳は力強い。その表情に応じるように二人もしっかりとうなずいた。
ラウルの呼びかけで、三人はショールで口元を押さえ、じっとその時を待つ。
(お願い……無事に通り過ぎて……!)
目を強く閉じたその時──
「姫様! お戻りください、危険です!」
外から、シェナの侍女の悲鳴ともつかない叫び声が響いた。
(姫様!?)
いったい何が起きているのか──エミリアは思わず目を見開き、窓に顔を寄せた。
「おい、危ないぞ!」
制止するラウルを振り切り、窓を開けて身を乗り出した。砂交じりの風が彼女の頬に貼り付く。
視線の先には──シェナが馬車から降り、迫り来る砂嵐を真正面から見据えていた。
「姫様!!」
半ば叫び声で呼びかけると、シェナはふわりと振り向き、ほんのわずかに微笑んだ。彼女の、そのどこか場違いな表情に、息苦しさも忘れて見入ってしまう。
視線を戻したシェナは手を組み、まるで歌うように言葉を紡ぎ出した。
その言葉はこれまで聞いたことのないものだった。それでいて、どこかで聞いたことのある、記憶の奥底をそっと撫でるような、確かな〝意味〟が感じられた。
(これって……お願いしてる……?)
聞こえてくる言葉そのものの意味は分からない。それでも、彼女が何をしようとしているのかを〝正確に〟感じられた。
次の瞬間、シェナの組んだ手が光を帯びた。
あれは──!? 吹き荒れる砂に目を細めながらもシェナから目を離せなかった。だが、同時に砂の壁が目と鼻の先まで迫ってくる。
「エミリア!」
たまらず目を閉じたその瞬間、ラウルはエミリアを馬車の中に引きずり込み、窓を閉めた。
「何やってんだ!」
ラウルが血相を変えて怒鳴りつける。だがそれでもラウルの方を振り向くことなく、再び窓に顔を貼り付けた。
姫様は? ──シェナを探す。すると、視線の先でシェナは光に包まれ、周囲の砂がまるで彼女を避けるように舞っていた。
やがて、シェナの光に触れた砂が呼応するかのように、徐々にその凶暴さを潜めだした。
静けさが、波紋のように広がっていく。
あれほど荒れ狂っていた風が、波ひとつない水面のようにピタリと止み、辺り一帯の砂がその場にゆっくりと落ちていった。
視界が元の景色を取り戻したとき、脳裏にあの無機質ないつもの声が響いた。
《オペレーター業務確認……管理者第3次認証フェーズ開始》
(オペレーター!? 今、オペレーターって言ったよね!?)
思わず馬車から飛び出した。
シェナはふう、と一息吐くと、身体についた砂を払い落としていた。
「姫様! 大丈夫ですか!? 今のは……」
駆け寄るエミリアに気づくと、シェナはあどけない笑みを浮かべた。あれほどの力を見せた直後なのに、彼女は息ひとつ切らしていない。汗さえ浮かんでいなかった。
「お姉様……精霊に、何とか聞き入れていただけたようです」
まるで友人に頼み事でもしたかのように答えるシェナ。その光景をにわかに理解することができず、彼女を呆然とした表情で見つめるほかなかった。
「これが……精霊使いの力」
「はい、そうです。精霊使いと呼ばれていますが、私たちは精霊の声を聴き、お願いするだけなのです。けっして使役するようなものではありません」
「そうなんですね……」
そう応えるしかできなかった。ほっと安堵の表情を浮かべるシェナの顔──それは、つい先ほど恐るべき自然の脅威を鎮めた術者ではなく、まだ幼さの残る少女のものだった。
だが、シェナの顔がわずかに曇る。
「でも最近は、声が聞き取りづらいことが増えているのです。それに、お願いを聞いていただけないこともあります……理由は分かりませんが」
「……姫様、あの……」
エミリアはオペレーターのことを尋ねようとして思いとどまった。今しがた、危険を顧みず一仕事終えた者を捕まえて聞くことではない。自分なりに整理して、改めて尋ねようと決めた。
それにしても、あの詠唱が『業務』と呼ばれる理由は何なのだろう。シェナは「声を聴き、お願いする」と言っていたが、そのような対話や祈りの行為と『業務』という言葉の意味がどうしても結びつかない。
それに『オペレーター』だ。精霊使いは『オペレーター』なのか? そうなると、ラウルも精霊使いなのか? 魔導士なのに? ──胸の内に様々な疑念が渦巻く。
精霊使いと導師、オペレーターと管理者。この関係がただの偶然とは思えなかった。




