第60話 新たな狩人
法王国、聖都。その中心にそびえる大聖堂の奥深く、窓のない円卓の間には重苦しい静寂が満ちていた。焚き染められた高価な香の匂いが、澱んだ空気にさらに重みを加えている。
円卓を囲むのは法王国の最高機関である枢機卿会議である。彼らは漆黒の上質な法衣を身にまとい、その表情は聖職者らしい穏やかさと知性を湛えていた。
だが、ただ一人、枢機卿ロイデンだけが自身の席で小さく縮こまっていた。額には脂汗が滲み、膝の上で握りしめた拳は微かに震えている。
「──報告書は拝読いたしましたよ、ロイデン猊下」
円卓の上座、司会進行役を務める年配の枢機卿が、穏やかな声で口火を切った。
「イルスレイド王国での一件……誠に、残念な結果となりましたな」
「は、はい……面目次第もございません」
ロイデンは渇いた唇を震わせ、頭を下げた。
「外交官特権を盾に早々に帰国されたとのこと……賢明なご判断ではありますが、さすがに宗派替えを示唆されてまでの帰国は、いささか聖職者としての気概に欠ける、との声も上がっております」
同席する他の枢機卿たちが、さも痛ましいといった様子で小さくため息をつく。そこには罵倒も嘲笑もない。あるのは、無能な同僚に対する冷ややかな憐憫だけだった。それがロイデンには何よりも堪えた。
「弁解の余地もございません……すべては、私の不徳の致すところ」
「左様ですか。自覚がおありなら結構です」
司会役は手元の書類を整え、にこやかに続けた。
「本来であれば教会の権威を傷つけた罪は重く、相応の『贖罪』を求められるところですが……聖下は慈悲深いお方です。ロイデン猊下に挽回の機会をお与えになりました」
ロイデンが弾かれたように顔を上げた。
「ば、挽回……でございますか?」
「ええ。新たな任地へ赴き、そこで神の威光を示すのです」
「は、はい! 感謝いたします! して、どちらの教区へ?」
本国への返り咲きは無理でも、どこか地方の豊かな教区であれば──ロイデンの瞳に希望の光が宿る。だが、司会役の口から紡がれた地名は、その希望を無慈悲に打ち砕くものだった。
「マレンデールへ赴きなさい」
「……は?」
ロイデンは絶句した。マレンデール地方──そこはガルナック帝国とシャリューン王国の国境地帯にある、険しい山々に囲まれた地域だった。教会すらなく小さな集落が点在しているだけの未開の地で、どう考えても布教活動を行う価値すら感じられなかった。
「あ、あのような……地の果てへ、でございますか? それは左遷……いえ、事実上の追放では……」
「異なことを仰る」
司会役がたしなめるように眉をひそめた。
「かの地には『古の禁忌』が今も息づいていることは猊下もご存じのはず。教会の威信にかけて、決して他国──特に帝国になど渡してはなりません」
司会役は声を潜め、円卓の全員に聞こえるよう、しかし重々しく告げた。
「聖下からの勅命でございます」
ロイデンが息を呑む。
「聖下は『マレンデールを〝教化〟せよ。さもなくば、神の元へ』と仰せです」
シン──と卓上の空気が凍りついた。
神の元へ──それは事実上の殲滅を意味する。だが、円卓の誰も顔色一つ変えない。神の意志の前では人の命など塵芥のごとく軽いのだ。
「そ、それは殲滅……でございますか?」
「おぉ……枢機卿たる者、そのような言葉は慎むべきですよ」
司会役は大げさに諸手を広げた。
「まずは〝教化〟でございます。『禁忌』は人が軽々しく扱うものではございません。我らが神の使いが適切に管理すべきもの。それが叶わぬならば……その時こそ、神の元に送るだけのことでございます。……期待しておりますよ?」
ロイデンは震える手で胸元の聖印を握りしめた。拒否権などない。
「……御意に」
◇ ◇ ◇
会議が終わり、ロイデンは俯きがちによろめく足取りで廊下を歩いていた。マレンデール──未開の地。そこで『禁忌』を探し出し、従わせるか、殺すか。失敗すれば今度こそ自身の命はないだろう。
「お疲れ様でございます、猊下」
不意に、涼やかな声がかけられた。顔を上げると、一人の男が立っていた。飾り気のない灰色の法衣。感情の読めない瞳。異端審問官、ソルダムだった。
「ソルダム……貴様か」
「マレンデールへの旅路、どうか神の御加護があらんことを」
ソルダムは胸に手を当て、優雅に一礼した。その慇懃な態度が今のロイデンには死神の嘲笑に見えた。
「……貴様は、どうするつもりだ」
「私は、猊下がイルスレイドに残されました火種──『テルネーゼ家の娘』の処理を引き受けさせていただきました」
ソルダムは聖職者らしい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「掃除は私の専門ですので」
「……ふん。好きにするがいい」
ロイデンは吐き捨て、その場を去った。自分はもう、あの小娘に関わっている余裕などない。
残されたソルダムは、誰もいない廊下で一人静かにつぶやいた。
「小鳥は籠から逃げたようですが……愛らしい羽をむしり取るのは、造作もないことです」
窓のない、燭台の灯りが足元を照らすのみの薄暗い廊下で、ソルダムの背後の影が一瞬だけ黒い翼のように揺らめいた。
──新たな狩人が静かに動き出したのだ。




