第59話 精霊の国へ
神託祭も終わりに近づいていた。
王宮の中庭には柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの秋の花々が咲き誇っていた。本日が休日だったエミリアは、同じく休日だったサラと一緒に中庭のベンチに座っていた。
「バザール、行きたいですね。エミリア様、行きませんか?」
サラが弾むような声で提案してくる。
「……そうね。シャリューン王国の隊商が出している店、珍しいものがたくさんあるそうよ」
エミリアは微笑んで答えた。だが、その胸の内には複雑な想いが渦巻いていた。
(法王国からの書簡……私が名指しで審問対象に……)
ライモンドとジュリアンから告げられた事実が脳裏を離れない。法王国は神託の杖に疑義があるとして調査団を派遣し、エミリア自身も審問するという。事実無根であるが、枢機卿が事実を捻じ曲げて報告したのか、それとも法王国の意思なのか──
(シャリューン王国か……)
ジルベルトの提案で、返礼使者に同行することになった。シェナ姫が言った『管理者』という言葉。精霊たちが自分をそう呼んでいたという。その謎を解く鍵が、シャリューン王国にあるかもしれない。
「エミリア様?」
サラの声にはっと我に返る。
「あ、ごめんなさい。ぼんやりしてたわ」
「大丈夫ですか? 疲れてらっしゃるのでは」
「いいえ、大丈夫よ」
エミリアは首を振った。その時、視界の端に、中庭の奥の人影が映った。ベンチにひとり座るイルダだった。
いつも取り巻きを引き連れていた彼女の周りには、今は誰もいない。侍女たちは彼女を避けるように通り過ぎていく。
「イルダさん……」
エミリアの胸の奥がチクリと痛んだ。イルダはデルナムに拉致された被害者だというのに、向けられるのは同情ではなく好奇の目だった。それに、父のルーエン伯爵は第二王子派だったため、彼女は腫れ物に触るような扱いを受けていたのだ。
「ちょっと行ってくるわ」
エミリアはベンチを立つと、イルダのもとへと歩み寄った。
イルダは膝の上で固く手を組み、じっと足元を見つめている。エミリアの気配に気づいてちらりと視線を上げたが、すぐにまた下を向いてしまった。
「……何よ」
投げやりでそっけない響き。だが、その声の芯はどこか脆く、震えているように聞こえた。
「イルダさん、よかったら一緒にバザールに行かない?」
イルダが顔を上げる。その瑠璃色の瞳に浮かんでいたのは、驚きと戸惑いだった。
「……なぜ、私を誘うの?」
「別にいいじゃない。少しでも気分転換になればと思って」
エミリアの言葉に、イルダはしばし沈黙した。やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「……まあ、一緒に行ってやってもいいわよ」
憎まれ口とは裏腹に、その口元には、ほんのわずかだが笑みが滲んだように見えた。
◇ ◇ ◇
エミリア、サラ、イルダの三人は王宮を出て、中央広場へと足を向けた。
街は祭りの熱気と賑わいに包まれていた。色とりどりの旗が秋風にはためき、行商人の呼び声が重なり合う。大道芸人の周りでは、子どもたちの歓声が弾けていた。
最初こそ硬い表情で無愛想だったイルダも、喧騒の中を歩くうちに次第に表情を和らげていった。珍しい楽器の音色に耳を傾け、店先に並ぶ色鮮やかな布地には目を輝かせている。
「イルダ様、あの飾りつけ、素敵ですね!」
サラの明るい声に、イルダも「……そうね」と小さく笑みを返した。
中央広場に到着すると、シャリューン王国の隊商が開くバザールが広がっていた。異国情緒に溢れる露店が並び、鼻をくすぐる香辛料の香りや、精巧な銀細工、珍しい織物が視界を埋め尽くす。
「わあ……」サラが感嘆の声を上げ、エミリアも思わず足を止めて見入ってしまう。
ふと見ると、イルダが銀細工の店の前で立ち止まっていた。彼女の手には一つの腕輪がある。繊細な彫金が施された、美しい銀の腕輪だった。
「素敵ね、それ」
後ろから声をかけると、イルダは慌てたように腕輪を台に戻した。
「……でも、私には似合わないわ」
その声には、自嘲の色が混じっていた。
「そんなことないわよ。とても似合うと思う」
エミリアの言葉に、イルダは少し驚いたような表情を浮かべた。
「じゃあ……買おうかしら……」
エミリアの言葉に背中を押されたのか、イルダの迷いが晴れる。
「いいわね! 私も買うわ!」
「えっ、あなたとお揃いなんて嫌よ」
「いいじゃないですか! みんなで買いましょうよ」
サラが割って入り、エミリアも「ねっ!」と微笑みかけると、イルダは二人を軽く睨んでみせた。だがそれ以上拒絶することはなく、結局三人で銀の腕輪を買うことになった。
その後も三人はバザールを見て回った。大道芸人の曲芸に、三人揃って笑い声を上げる。イルダがこれほど心から笑っている姿を見るのは、初めてかもしれない。
「喉が渇きませんか?」
サラの提案で、広場の端にある露店のベンチで休憩を取ることになった。南国の果物を搾った甘い飲み物で喉を潤し、他愛のない話に花を咲かせる。
「すみません、お手洗いに行ってきますね」
サラが席を立つと、喧騒の中にエミリアとイルダの二人だけが残された。
ふと訪れた沈黙を破ったのは、イルダの方だった。
「……ねえ、エミリアさん」
静かな口調。そして、その呼び名にエミリアは微かに目を見開く。いつもなら喧嘩腰に「あなた」か、あるいは「二つ持ち」と呼んでくる彼女が、〝普通に〟名前を呼んだのだ。
「何?」
「あなた、シャリューン王国へ行くんですってね」
予期せぬ指摘に、エミリアは動きを止めた。
「え……どうして知ってるの?」
「侍女の間で噂よ。法王国から名指しで審問対象になったんでしょう?」
イルダは真剣な眼差しでエミリアを見つめていた。王宮はすぐに噂が広まる。隠しても仕方がない。
「……そうなの」
「気をつけてね。法王国は恐ろしいから」
イルダの声が微かに震えた。
「私も……捕まった時、怖かった。剣には自信があったのに……何の役にも立たなかった。あなたにも同じ思いをしてほしくないわ」
その言葉に、エミリアの胸が熱くなる。イルダの不器用な優しさに触れ、目頭が潤むのを感じた。
「ありがとう、イルダさん」
「……別に」
イルダはぷいと顔を背けた。
「ただ、あなたがいなくなったら、王宮がつまらなくなるだけよ」
素っ気ない言葉とは裏腹に、その背中はどこか照れくさそうに微笑んでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
王宮への帰り道。夕暮れの光が街を黄金色に染め、足元には長い影が伸びている。サラが少し先を歩いている間、イルダが並ぶようにして歩調を合わせてきた。
「ねえ、エミリアさん」
「何?」
「あなたには負けないから」
イルダは真剣な横顔で言い放った。
「え?」
「いつか追いつくわ。第二王子妃の座をかけて勝負よ!」
あの、初めて出会った時のような唐突な宣戦布告に、エミリアは思わず苦笑する。
「イルダさん、私は別に……」
否定しようとしたエミリアを遮るように、イルダは悪戯っぽく微笑み、耳元へ顔を寄せた。
「でも、あなたはどちらかというと第三王子派なのかしら?」
小声で囁かれた意味を理解した瞬間、エミリアの顔が一気に沸騰した。
「な、何を言って……!」
「あら、図星だったのね。分かりやすいわ」
エミリアが狼狽する様子を見て、イルダは楽しげに笑う。
「それより、私があなたのお義姉様になるかもしれなくってよ」
「……は!?」
エミリアは足を止め、まじまじとイルダを見つめた。
「やだな。気が早いわ」
手をもじもじさせるエミリアの様子に、イルダは呆れたように軽くため息をつく。
「……あなたって……こういうところ、ニブいのね」
「……? はあああ!? どういうことよ!」
わずかに怒りが混じったような、素っ頓狂な声を上げるエミリアに、イルダはクスクスと笑いながら続けた。
「まあ、頑張んなさいよ。〝二つ持ち〟さん」
その響きにエミリアは目を丸くした。かつては蔑称だったその呼び名に、初めて親しみが込められている気がしたのだ。だが、ニブいと言われたまま黙ってはいられない。
「ちょっと、どういうこと? ねえ、イルダさん」
イルダは振り返ることなく、軽やかな足取りで進んでいく。
「……ねえ……イルダ!」
思わず呼び捨てにしても、彼女は悪戯っぽく背越しに手を振るだけだ。
「気をつけてね、〝エミリア〟」
そう言い残し、イルダは先に王宮へと駆けていった。
エミリアはその場に呆然と立ち尽くす。
(〝お義姉様〟って、どういうこと!?)
たしかに、ジュリアンとジルベルトは兄弟だ。考えただけでも赤面ものではあるが、もしイルダがジュリアンと、エミリアがジルベルトと結ばれたら、たしかにそうなる。だが彼女の言葉には、もっと別の含みがあったようにも思えた。わざわざ〝お義姉様〟なんて、彼女は何を言いたかったのだろうか?
「エミリア様?」
サラが背後での騒ぎと、自分の脇を走り去るイルダに気づき、何事かと不思議そうな表情で戻ってきた。だが、エミリアの様子を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「どうか無事で。お土産話、楽しみにしてますね」
「え、ええ……ありがとう、サラ」
サラの優しい微笑みにうなずきながらも、エミリアはまだ混乱の余韻を引きずったまま、王宮への道を辿った。
◇ ◇ ◇
王宮に戻ると、エミリアはライモンドとジュリアンに呼び出された。
「エミリア嬢。出発の前に一度、ご家族に説明しておいた方がいい」
ライモンドが真剣な表情で切り出した。
「急に王宮から姿を消したら、侯爵家も心配するだろう。それに、社交界でも変な噂が立つ。……あの件もすでに広まりつつあるしな」
ジュリアンか続ける。
「はい、分かりました」
「しかし、王宮ってやつは噂が広まるのが早い。情報管理はいったいどうなっているんだ」
ジュリアンは忌々しげにため息をついた。ライモンドはそれに軽くうなずき、再びエミリアを見る。
「今夜、侯爵邸に戻り、明日の夕方までに王宮へ。使節団の出発は明後日の朝だ」
「承知いたしました」
王子たちの心遣いに内心で感謝しながら、エミリアは深く頭を下げ、退出した。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、エミリアはテルネーゼ侯爵邸へと戻った。
久しぶりの実家。春以来となる。見慣れた門をくぐると、急な帰宅に驚きつつも、使用人たちは温かく出迎えてくれた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
メイド長の嬉しそうな微笑みに「ただいま」と明るく返した。屋敷の中に入ると、そこにはラウルとアンナの姿があった。
「エミリア!」
「お嬢様!」
ラウルが駆け寄り、アンナも満面の笑みを浮かべる。
「アンナ!」
自らの危険も顧みず、敵地へ潜入してくれたメイド。普段と変わらないその笑顔を見た瞬間、安堵と喜びが同時に押し寄せ、エミリアは思わず彼女に抱きついていた。
「もう、心配したわよ!」
「申し訳ありません、お嬢様……」
「でも……無事で良かった」
互いの目に涙が滲む。しばしの抱擁の後、エミリアは涙を拭って姿勢を正した。
「二人とも話があるの。書庫へ来てちょうだい」
ラウルとアンナが顔を見合わせ、緊張した面持ちでうなずいた。
書庫の窓からは夕日が差し込み、本棚を茜色に染め上げていた。三人はいつものように机の周りに席を取る。
「実は、シャリューン王国へ行くことになったの」
エミリアが切り出すと、ラウルとアンナは揃って目を見開いた。
「え!?」
「お嬢様が!?」
エミリアはこれまでの経緯を説明した。神託の儀の件、陰謀の結末、それと──法王国に狙われることになった事実。
「じゃあ、俺も一緒に行く!」
ラウルが即座に声をあげた。その表情には強い決意がある。だが、その視線はどこか落ち着きなく彷徨っていた。
エミリアが王子と二人きりで旅に出る──ラウルはその状況を想像して無自覚に焦っていた。幼馴染として、いつもエミリアのそばにいたのは自分だという自負と、得体の知れない不安がないまぜになっていた。
「ラウル……」
「エミリアを一人で行かせるわけにはいかない。魔導士がいると何かと便利だろ? それに……と、とにかく、俺がついて行ったほうが絶対いい!」
ラウルは取って付けたような理由で、変に譲らない。
「私も参ります! だって……だって、お嬢様の身の回りのお世話は誰がやるんですか!」
アンナも負けじと立ち上がった。
この一年、王宮の侍女として身の回りのことは何でも自分でこなしてきた身に〝お世話〟とは──エミリアは頭を抱えた。
「えぇぇ……でも、二人とも……」
二人の思わぬ反応に、エミリアは困惑した表情を浮かべた。彼らの表情からは固い意思が見て取れ、エミリアが何を言っても聞きそうにない。
急に追加してもらうなんて可能だろうか──だが、同時に一抹の不安もよぎった。
(この二人……目を離すと、またとんでもないことをしでかすわ)
デルナム邸への潜入、マチルダを巻き込んだこと。自分も似たようなものだとは思うが、やっぱり二人から目を離すわけにはいかない。
「……二人とも、勝手なことはしないって約束できる?」
「もちろんだ」
「はい!」
ラウルとアンナは即答した。
エミリアは二人をじっと見つめ、やがて深くため息をついた。
「……あきれたわ」
エミリアは小さく笑った。
「分かったわよ。ジルベルト殿下には話しておくから。でも……ありがとう」
ラウルの表情がわずかに明るくなった。アンナも嬉しそうに微笑んだ。
その夜、侯爵邸の食堂には重苦しい空気が漂っていた。
格式ある食卓には、いつものようにベルナード、ディアーヌ、エミリアが席に着いている。クロードは今日も騎士団の任務で不在だった。
「エミリア……シャリューン王国へ行くのね」
沈黙を破ったのは、ディアーヌの優しい声だった。
「はい、お母様」
ベルナードは黙々と食事を続けている。だが、その手はわずかに震えているように見えた。
ディアーヌが困ったようにベルナードを見る。
「あなた、何か言ってあげて」
ベルナードの手が止まる。長い沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「……エミリア」
「はい、お父様」
「おまえは……本当に行く覚悟があるのだな」
「はい」
エミリアはまっすぐに父を見つめ返した。
「噂は聞いている。まったく、馬鹿馬鹿しい話だ。それでも……法王国は巨大だ。一度目をつけられたら、容易には逃れられん」
「分かっています」
「それでも……行くのだな」
ベルナードはエミリアの目を見つめた。そこには、もう子どもではない一人の女性の決意があった。
「……そうか」
ベルナードは深く息を吐き出した。
「ならば、無理はするな。危険を感じたら、すぐに戻ってこい」
エミリアの胸が熱くなった。父がこれほどストレートに、本気で自分を案じる言葉を口にするのは初めてかもしれない。
「……はい、お父様」
答える声が震えた。
ベルナードは突然無言のまま立ち上がると、早足で食堂を後にしてしまった。
「ふふっ、不器用な人……」
ディアーヌはその背中を見送りながらつぶやき、エミリアに向かって「あれでもあなたを心配しているのよ」と優しく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
出発の日の朝。頭上には雲ひとつない秋晴れの空が広がっていた。
王宮の正門前には、使節団の帰国に併せた馬車が並んでいる。シャリューン王国の使節団も準備を終え、出発を待っていた。
「準備はいいですか?」
ジルベルトが声をかけてきた。
「はい、殿下」エミリアが答えると、シェナが馬車から降りてきた。
「お姉様、準備はよろしいですか?」
「はい、姫様」
「では、出発しましょう」
ジルベルトが合図を送ると、見送りに来ていたライモンドとジュリアンが進み出た。
「侯爵令嬢。道中、気をつけるのだぞ」
「法王国はしつこいからな。何かあったら必ず知らせるんだ」
「兄上たち、ご心配なく」
兄たちの言葉にジルベルトが応じる。
少し離れた場所には、ソフィアとサラの姿があった。
「エミリアさん……必ず無事に戻ってきてね」
ソフィアが涙ぐみながら手を振っている。
「妃殿下、ありがとうございます。必ず戻ります」
エミリアが応じると、サラも目を赤くしながら大きく手を振った。
「エミリア様、お気をつけて」
「サラ、お土産話、楽しみにしててね」
エミリアは馬車に乗り込もうとして、一度だけ足を止めた。
王宮の尖塔が、抜けるような青空に向かって高く伸びている。エミリアはその空を見上げた。
(みんな……必ず無事に戻ります。そして、私の力の謎も解き明かします)
胸に決意を込め、エミリアは馬車に乗り込んだ。
車輪が軋み、馬車が動き出す。城壁が遠ざかり、王都の街並みが小さくなっていく。窓から入る秋の風が木々を揺らし、落ち葉を舞い上げていた。
エミリア・シル・テルネーゼは、新たな旅路へと踏み出した。
待ち受けるのは、謎に満ちた南の国──シャリューン王国。
これにて第2部「王宮編」完結です。
お読みいただきありがとうございました!
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皆様の応援が、今後の執筆の何よりの励みになります!
【予告】
さて、次回より第3部「精霊使い編」開始です!
※第3部からは【火・木・土・日】の週4回更新となります。
精霊を信仰する未知の国、シャリューン王国。
エミリアはそこで何を見るのか?
・精霊使いの真実とは?
・管理者と導師の関係は?
・ついに動き出した法王国の影。
・ラウルとアンナは、さすがに大人しくするのか?
ついに王国を飛び出したエミリアの冒険を、引き続きお楽しみください!
今後もよろしくお願いします。




