第58話 旅立ちの理由
神託祭も三日目となった。
中央広場では引き続き、シャリューン王国の隊商によるバザールが催されており、露店には色とりどりの布地や香辛料、珍しい細工物が並んでいる。民衆たちの笑い声と商人の呼び声が混ざり合い、祭りの空気が王都全体を包んでいた。
エミリアは王宮の庭園で、約束通りシェナを待っていた。秋の午後の陽光が木々を照らし、落ち葉が石畳の上を舞う。遠くから聞こえるバザールの喧騒が、まるで別世界のように感じられた。
ベンチに座り、エミリアは昨夜の出来事を思い返していた。
(シェナ姫が言っていた『管理者』という言葉……私の謎を解く鍵なのかしら……)
胸の奥に期待と不安が入り混じった感情が渦巻いた。
「お姉様」
静かな声がした。振り返ると、シェナが立っていた。付き人の姿もなく、落ち着いた色合いの外套を羽織っている。その琥珀色の瞳は、昨夜と同じように真剣な光を宿していた。
「シェナ姫様」
エミリアは立ち上がり、礼をした。
「いえ、お姉様。そのような堅苦しいことはなさらないでください」
シェナが優しく微笑み、エミリアの隣に座った。しばらくの沈黙。風が木々を揺らし、落ち葉が二人の足元に舞い降りた。
シェナが口を開いた。
「昨夜お話ししたとおり、私は精霊使いです」
その声は静かで、しかし確信に満ちていた。
「精霊たちの声が聞こえるんです。彼らは私に語りかけてくれます。そして、私の呼びかけにも応じてくれ、助けてくれることもあります」
エミリアの脳裏にオルフェンの言葉が蘇る。
シェナは淡々とした口調で続けた。
「神託の儀で、精霊たちがとても騒いでいました」
「騒いで……?」
「ええ。お姉様が光を放たれた時、精霊たちは『管理者だ』『管理者が現れた』と口々に言っていました」
エミリアの胸が高鳴った。
「姫様は……その『管理者』という言葉の意味を、ご存じなのですか?」
シェナは小さく首を振った。
「私も詳しくは分かりません」
その言葉に、エミリアは落胆を隠せなかった。
「でも、我が国には古い伝承があります」
「伝承……?」
「ええ。精霊使いを統べる存在──『導師』の言い伝えです」
エミリアは息を呑んだ。
「導師……」
「導師は精霊たちの主であり、世界の調律者だと伝えられています」
シェナの琥珀色の瞳が、まっすぐにエミリアを見つめた。
「『管理者』と『導師』……何か関係があるのではないでしょうか」
自分の力は、やはり精霊に関係するものなんだろうか。管理者、導師、精霊使い──エミリアの頭の中で、さまざまな思いが交錯した。
「お姉様、実は我が国では近年、精霊の暴走が多発しているのです」
「暴走……?」
「ええ。作物が枯れ、川が氾濫し、山火事が起きる。精霊たちが荒ぶり、私たち精霊使いでも対処しきれません」
シェナの口調は変わらず静かで淡々としたものだったが、その表情には深い憂いが浮かんでいた。
「今までこのようなことはなかったのです。もしかしたら……お姉様の力が、必要なのかもしれません」
エミリアの胸に何かが響いた。
シェナは真剣な眼差しでエミリアを見つめる。
「ですから──できれば、お姉様に我が国へ来ていただきたいのです」
エミリアは言葉を失った。
(シャリューン王国へ……)
自分の力の謎を解く鍵がそこにあるかもしれない。精霊たちが自分のことを『管理者』と呼ぶ理由も分かるかもしれない。
だが──
「姫様……私は、侍女として王宮に仕えております」
エミリアはうつむいた。
「簡単に国を離れるわけには……いきません」
シェナの琥珀色の瞳が一瞬揺らめく。だが、彼女は静かにうなずいた。
「そう……ですよね」
その声には寂しさが滲んでいた。
「残念ですが、無理は言えません。こちらこそ、急にこんなことをお願いして申し訳ありませんでした」
シェナは立ち上がり、礼をした。
「姫様! 顔をお上げください!」
エミリアはあわてて制止する。
「でも、もしいつか機会があれば……お姉様を我が国へお迎えしたいです」
そう言い残し、シェナは静かに去っていった。
エミリアは一人、ベンチに座り続けた。
(シャリューン王国……導師の伝承……管理者……)
すべてが謎のまま。そして、今の自分には何もできない。遠くから聞こえるバザールの喧騒が、やけに遠く感じられた。
◇ ◇ ◇
その夜。エミリアは侍女の控室で、一人窓の外を眺めていた。サラたちは夕食に出かけており、部屋には誰もいない。
(シェナ姫の言葉……忘れられないわ)
精霊の暴走。導師の伝承。そして、自分を『管理者』と呼ぶ精霊たち。
(ほんとに……私の力は、いったい何なの……?)
コンコンと扉をノックする音がした。
「エミリアさん、いらっしゃいますか?」
ジルベルトの声だった。エミリアは慌てて立ち上がり、扉を開けた。
「殿下……こんな夜更けに、どうなさいました?」
ジルベルトは周囲を窺い、小声で言った。
「少しお話があります。人目につかない場所へ」
二人は人気のない廊下へと移動した。松明の灯りだけが揺れる薄暗い空間。ジルベルトの表情は、どこか疲れているように見えた。
「エミリアさん、神託の儀の一件、その後の処分が決まりました」
ジルベルトが静かに切り出した。
「デルナムは父上の宣言どおり、爵位剥奪、投獄です。彼や教会と通じて私服を肥やしていた貴族も、一掃されることになりました」
「そうですか……」
エミリアは複雑な思いでうなずいた。
「皆、爵位剥奪や降格、捕縛……第二王子派は大きく勢力を削がれました」
だが、ジルベルトの声にはどこか悔しさが滲んでいた。
「私は……何も知らされていませんでした」
「え……?」
「兄上たちが計画を進める中、私は蚊帳の外でした」
その言葉には深い無力感が込められていた。
「騎士団を動かせたのも、結局は兄上たちの計画のうち。──私は駒でしかなかった」
エミリアは胸が締め付けられるような気がした。
「殿下……」
「私も国のために動きたかったのです」
ジルベルトが拳を握り締めた。
「でも、いつまでも末っ子扱いで……」
しばらくの沈黙の後、ジルベルトは深々と頭を下げた。
「エミリアさん、私はあなたに謝らなければなりません」
「殿下、顔を上げてください!」
「いえ、聞いてください」
ジルベルトは顔を上げ、真剣な眼差しでエミリアを見つめた。
「書店での出会いは、たしかに偶然でした。でも、母上──王妃殿下にあなたのことを話したのは……私なのです」
エミリアは息を呑んだ。
「後継者問題に巻き込まれないようにと考えたつもりでした。王宮の中、母上の元に置けば、あなたを守ることができると思ったのです」
「殿下が……」
「でも、結果的にあなたを……危険な目に遭わせてしまった」
ジルベルトの声が震えた。
「本当に……申し訳ありませんでした」
再び頭を下げるジルベルトからは、悔しさが滲み出ていた。たしかに危険な思いをした。不安な日々もあった。だからといって、エミリアは彼を責める気になどなれなかった。
エミリアは静かに首を振った。
「殿下は何も悪くありません」
「エミリアさん……」
「むしろ、殿下のおかげで、ソフィア妃殿下を守ることができました」
エミリアは優しく微笑んだ。
「デルナムたちの陰謀も暴けました。殿下がいなければ、私は何もできなかったでしょう」
ジルベルトの表情がわずかに和らいだ。
「ありがとうございます……」
「殿下は、十分に国のために動かれました」
「……いえ、私はもっと力をつけなければ……」
その決意を込めた言葉は、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
◇ ◇ ◇
それから数日後、バザールも終盤に差し掛かろうとしていた。王都の賑わいは相変わらず続いており、エミリアも侍女の務めに追われる日々だった。
午後、エミリアが控室で休憩していると、サラが駆け込んできた。
「エミリア様、大変です!」
「どうしたの、サラ?」
「王太子殿下とジュリアン殿下がお呼びです! 緊急の用件とのことです!」
エミリアの胸に嫌な予感が走った。
(二人とも……何かあったのかしら)
応接室へ向かうと、ライモンドとジュリアンが厳しい表情で待っていた。そこにはジルベルトも同席していた。
「お呼びでしょうか」
エミリアが礼をすると、ライモンドが重々しく口を開いた。
「エミリア嬢、法王国から書簡が届いた」
その言葉にエミリアの背筋が凍った。
「神託の杖に重大な疑義があり、調査団を派遣したいとのことだ」
「調査団……」エミリアの声が震えた。
ジュリアンが続けた。
「それだけではない」
その表情は普段の軽薄さとは程遠い、鋭い眼光を宿していた。
「書簡には、あなたのことが名指しで記されていた」
エミリアの心臓が跳ねる。
「『侯爵令嬢エミリア・シル・テルネーゼについても審問したい』と」
その瞬間、エミリアの全身から血の気が引いた。
(私を……名指しで? ……審問!?)
枢機卿ロイデンの最後の言葉が蘇った。
『またお会いしましょう』
あの不気味な笑み。底知れない執念。
「おそらく、枢機卿が法王国に報告したのだろう。それにしても早馬で書簡を送りつけてくるとは」
ライモンドの静かな口調には、わずかな苛立ちが含まれていた。
「枢機卿の国外退去や教会税の件には一切触れていない。自分たちの都合の悪いことには、いつもこれだ」
ジュリアンが吐き捨てるようにつぶやく。
ライモンドの表情が一段、険しくなった。
「彼らにとって、あなたは要注意人物になった。審問と明言しているということは……きっと『異端審問官』が出てくる」
「異端審問官……!」エミリアは震える声で繰り返した。
異端審問官──それは、法王国の教義に反する者を捕らえ、審問し、処罰、場合によっては──処刑さえ行う者だ。血脈信奉が強いイルスレイド王国ではあまり馴染みがないが、それでもその恐ろしさは伝わっている。
ジュリアンが腕を組み、表情を曇らせる。
「難癖をつけてくるかもしれん。それに法王国は、この一見冷静な文面の裏で、何をするか分からない」
ライモンドもうなずく。
「しばらく王都を離れた方がいい。いなければ、こちらはとぼけることもできる」
「でも……どこへ……」
行く当てもない。テルネーゼ領に戻っても法王国の手は届く。むしろ、王都を離れた方が危険かもしれない。
「ならば……シャリューン王国はどうですか?」
ジルベルトが提案した。
「シャリューン王国……?」
皆がジルベルトの方を向いた。
「ええ。もうすぐ使節団が帰国します。使節団の帰郷時、返礼使者を同行させる慣例がありますよね。元々、私が使者として向かう予定でした」
「殿下が……」
「エミリアさん、私のお付きの一人として加わるというのはどうですか?」
ジルベルトの真剣な眼差しがエミリアを捉えた。
「シャリューン王国は精霊信仰の国で、法王国の影響は皆無だ。あなたを守るには最適です」
「なるほど、たしかに王都にいるより安全かもしれん」ライモンドが同意し、ジュリアンも「エミリア嬢、それがいい」とうなずいた。
エミリアの頭の中でシェナの言葉が蘇った。
『お姉様に、我が国へ来ていただきたい』
『管理者と導師、関係があると思う』
すべてが一つの方向を指している。
自分の力の謎を解く鍵。法王国の脅威からの逃避。そして、シェナの願い。
エミリアは深く息を吸った。
「……分かりました」
三人の王子がエミリアを見つめた。
「シャリューン王国へ参ります」
ライモンドとジュリアンが安堵の表情を浮かべ、ジルベルトは静かに微笑んだ。
「必ず、あなたを守ります」
ジルベルトの言葉が、応接室に静かに響いた。
エミリアは窓の外を見た。秋の夕日が王都を照らし、バザールの賑わいが遠くに聞こえる。
(シャリューン王国……)
恐怖よりも期待の方が大きかった。
(管理者……導師……きっと、あの国に手がかりがあるわ……)
そして──
(私にしかできないことがあるかもしれない)
秋の風が頬を撫でた。
新たな旅立ちが、すぐそこまで来ていた。




