第53話 奇跡の光
広場では何百何千もの群衆が固唾をのんで舞台を見守っていた。何百もの篝火が広場全体を幻想的に灯す。そして中央に据えられた舞台──そこでは、まさに神官がソフィアに杖を手渡そうとしていた。
「間に合う!」
エミリアが叫び、人混みへ飛び込んだ。
「エミリア、俺が道を作る!」
ラウルが手を掲げ、小さく詠唱する。淡い光の壁が人々を左右に優しく押し分けた。
「行け!」
ラウルの号令にうなずき、エミリアは驚く観客たちの間を駆け抜ける。
背後からデルナムの怒号が聞こえた。
「待て! 止めろ!」
だが、もう振り返る余裕はない。エミリアは舞台だけを見つめ、息を切らしながら走り続けた。
舞台では、白い巫女装束をまとったソフィアが祭壇の前に立っていた。その姿は夕闇に浮かび上がり、神々しいまでに美しい。傍らの神官──あの気弱そうな初老の神官が、杖をソフィアに差し出そうとしている。
ソフィアは両手を前に出し、杖を受け取ろうとしていた。
貴賓席では、ベルナードとディアーヌが舞台に向かって駆け込む娘の姿に気がついた。
「あれは……エミリア!?」
「な、何をやっているんだ……!?」
二人の顔は青ざめ、ディアーヌに至っては今にも卒倒しそうなほどだ。
王妃も予想外の出来事に目を見開き、口に手を当てた。
「待って!」
エミリアが舞台の階段を駆け上がり、叫んだ。
「その杖は偽物よ!」
広場全体がどよめいた。
「偽物?」
「あの娘は何を言っているんだ?」
「いったい何が起きた!?」
観客のざわめきが波のように広がる。
「エ……エミリア様……!?」
神官は驚いて杖を持ったまま固まった。と同時に、エミリアに対して何か思い出したのか、表情がこわばり、後ずさった。
ソフィアも困惑し、エミリアを見つめる。
「エミリアさん……?」
エミリアは神官を押しのけて前に出た。息を整える間もなく、抱えていた杖をソフィアに差し出す。
「妃殿下、こちらが本物の神託の杖です!」
二本の杖。見た目はほぼ同じ。ソフィアは困惑したまま、二本を交互に見比べる。
観客席は騒然となった。貴賓席の貴族たちも動揺し、ざわめきが大きくなる。
「どういうことだ!?」
「本物と偽物があるのか!?」
「侍女が何を言い出すんだ!」
その時、貴賓席の一角で枢機卿ロイデンが目を見開いた。彼の視線はエミリアが掲げる杖に釘付けになっていた。顔色が変わり、わずかに身体が震える。
(まさか……本物を持ち出されたのか!? あの保管庫から!?)
枢機卿は周囲に悟られぬよう、平静を装いながら静かに席を立った。にこやかな表情を作り、一歩、二歩と貴賓席の後方へ下がり始めた。
「猊下」
突然、警備隊長が枢機卿の前に立ち塞がった。その声は穏やかだが、有無を言わせぬ強さがあった。
「どちらへ行かれるのですか?」
枢機卿はわずかに動揺したが、すぐににこやかな笑みを浮かべた。
「……少々、用がありまして」
「これより、妃殿下が神託の詠唱をなさいます」
警備隊長は一歩も動かない。その背後には、いつの間にか騎士たちが控えていた。
「どうぞ、お座りください」
枢機卿は周囲を見回した。気づけば騎士たちが自分の周囲を取り囲んでいる。逃げ道はない。枢機卿は青ざめながらも、表面上はにこやかな表情を作り、席に戻った。膝の上で拳が小さく震えている。
舞台上では、ソフィアがエミリアの目をじっと見つめていた。エミリアの瞳には真剣さと、そして祈るような光があった。
ソフィアは二本の杖を交互に見た。どちらが本物なのか、見た目では判断がつかない。
「待て! その杖に触れるな!」
デルナムの声が舞台下から響いた。
人混みをかき分けてきたデルナムと部下たちが、階段を駆け上がろうとしている。観客たちは混乱し、ざわめきがさらに大きくなった。
「妃殿下! その侍女に騙されてはなりません!」
デルナムの叫ぶような声。
ソフィアは一瞬躊躇した。だが、エミリアの目を見つめ直す。そこにはただ、必死にソフィアを守ろうとする真摯な光があった。
ソフィアは小さく息を吐き、微笑んだ。
「……エミリアさん、あなたを信じるわ」
そう言って、エミリアから杖を受け取った。神官が「妃殿下、それは……」と止めようとするが、ソフィアは首を振った。
「待て!」デルナムが舞台に上がろうとすると、行く手を遮る影が現れた──騎士団長だった。
「デルナム卿、儀式の進行を妨げるようなお振舞いは、控えていただきたい」
「なにぃ」デルナムが歯ぎしりする。
「では、あの侍女は何なのだ!」エミリアを指さす。
「さあ、私には分かりかねます。儀式の進行に必要なのでしょう」
騎士団長が視線を送ると、デルナムと部下の背後を騎士たちが取り囲んだ。
「待て! それは偽物だ!」
デルナムはそれでも叫んだ。
しかしソフィアは動じなかった。杖を両手でしっかりと握り、祭壇の前に立つ。
エミリアは心の中で強く念じた。
(お願い。妃殿下に力を貸して!)
その瞬間──エミリアの視界が白銀に染まり、脳内に無機質な声が響いた。
《オペレーションモード……特定ユニット、リミット解除》
エミリアの身体から、淡い金色の光が漏れ始めた。それは観客からは見えないほど微かだが、たしかに身体の奥底から溢れ出している。その光は一筋の線となり、ソフィアが持つ杖の宝珠へ吸い込まれた。
ソフィアが詠唱を始めた。
「聖なる神よ、我らに御加護を……」
厳かな声が広場に響き渡る。デルナムは立ち尽くし、部下たちも動きを止めた。観客たちも固唾を呑んで見守る。
最初は何も起こらなかった。
一瞬の静寂。
デルナムの顔にわずかな安堵が浮かぶ。
(もしかして……失敗するのか……?)
だが──
その瞬間、宝珠がまばゆい光を放ち始めた。リハーサルの時の淡い光ではない。圧倒的な、力強い光だ。その光は天に向かって一直線に伸びた。まるで天と地を繋ぐ柱のように、金色の光の筋が夜空を貫く。
これまでの神託の儀とは、明らかに異なる光景だった。
デルナムの顔から血の気が引いた。
「……馬鹿な」
光の柱は上空まで伸びると雲のように広がり、広場を覆いつくした。やがて、雪のような光の粉が降り注ぎ始めた。
舞台を、貴賓席を、広場全体を、幻想的な金色の光が包み込む。光の粉は人々の肌に触れると、温かく優しい感覚を与えた。
観客たちは呆然と空を見上げていた。舞い降りてくる光の粒子に、思わず手を伸ばす者もいる。
やがて、一人、また一人と歓喜の声を上げ始めた。
「こんな奇跡は……見たことがない!」
「以前の神託の儀とは全然違う!」
「神様が……本当に降りてきたんだ!」
歓声が広場全体を包む。
ソフィア自身も驚愕し、手にした杖を見つめた。宝珠は依然として光を放ち続けていた。その光は彼女の白い装束を照らし、まるで女神のような神々しさを与えていた。
貴賓席の面々は、感極まる表情を浮かべていた。王妃は涙を浮かべて微笑んでいる。ライモンドとジュリアンが視線を交わした。わずかにうなずき、そっと席を立った。
やがて光が収まり始めた。宝珠の輝きが徐々に弱まり、光の粉も消えていく。広場には、再び篝火の灯が揺らめく。だが、観客の歓声はなおも止まらなかった。
「成功だ!」
「奇跡を見た!」
「ソフィア妃殿下万歳!」
広場全体が祝祭の熱気に包まれた。
デルナムは舞台袖で立ち尽くしていた。顔は青ざめ、目は虚ろだった。だが、やがて我に返り、必死に叫んだ。
「待て! これは詐欺だ!」
舞台の近くにいる観客たちが、何事かと声の方を見た。だが、広場の喧騒は収まらない。
「杖に何か細工をしたな!」
デルナムはエミリアを指さした。
「この侍女風情が! 神聖な儀式を妨害するとは何たることだ!」
近くの観客たちが顔を見合わせ、動揺の声を上げる。
「細工……?」
「まさか、本当に?」
デルナムは衛兵に向かって叫んだ。
「衛兵! この者を捕縛しろ! 神聖な儀式への冒涜だ!」
エミリアは後ずさりした。だが、ソフィアが前に出てエミリアを庇った。
「待ってください。エミリアは儀式を助けてくれたのです」
だがデルナムはソフィアの声が耳に入らない。なおも必死に声を上げた。
「妃殿下は騙されているのです! この侍女の企みに!」
貴賓席からは舞台がよく見える。そこに座る貴族たちも舞台での異常に気づき、ざわめき始めた。
その時──
「何かしようとしたのは、あなたではなくて?」
デルナムがハッとして振り返った。
声の方向を見ると、そこにはクロードとジルベルト率いる騎士団。そして、彼らに守られるようにイルダの姿があった。
イルダは疲れ切った様子だった。髪は乱れ、ドレスも汚れている。だが彼女は、それでも自分を奮い立たせるようにしっかりと立っていた。
貴賓席の貴族たちが驚きの声を上げる。
「あれは──副団長のご息女では!?」
「イルダ嬢!?」
貴賓席のルーエン伯爵夫人の驚きの声が響いた。あまりの事に、声が裏返っている。
「イルダっ!!」
その声が周囲に波及し、人々が次々と気づき始める。
「騎士団? なぜ?」
「いったい何が?」
「デルナム卿と何か関係が……?」
しかし、広場の後方や周辺では、観客は依然として祭りの余韻に浸っていた。歓声や笑い声が響き、儀式の成功を祝う声が絶えない。気の早い者は街へ繰り出し、酒盛りを始めている。
舞台周辺だけに走る異様な緊張感。
お祭り騒ぎの中の静寂。
デルナムの顔から完全に血の気が引いた。唇が震え、言葉が出ない。
「イルダさん……!」
エミリアが、驚きと喜びが入り混じった声を上げた。
ジルベルトが一歩前に出た。その表情は冷たく、そして毅然としていた。
──儀式はまだ終わらない。




