第49話 消えた侍女
神託の儀当日の朝──王宮全体が慌ただしい空気に包まれていた。
エミリアは早朝から起き、身支度を整えて侍女控室へ向かった。廊下を行き交う使用人たちも、いつもより早足だ。誰もが緊張した面持ちで、儀式の準備に追われていた。
控室に入ると、マリアンヌや他の侍女たちがすでに集まっており、エミリアの後にも侍女たちが続々と入ってきた。
「おはようございます、エミリア様」
サラが明るく声をかけてきた。だが、その表情にもわずかに緊張が滲んでいる。
「おはよう、サラ」
エミリアは努めて平静を装いながら答えた。
(今日が本番……本当に大丈夫なのかしら)
リハーサルでは成功した。だが、杖がすり替えられるかもしれないという不安が胸の奥で渦巻いていた。
「さあ、皆さん」
マリアンヌが侍女たちに声をかける。
「今日はいよいよ神託の儀です。王妃殿下、そしてソフィア妃殿下のお世話に万全を期しましょう。お付きの侍女も、そうでない侍女も上手く連携を取り、つつがなく進めましょうね」
侍女たちが一斉にうなずいた。
その時、侍女の一人が首を傾げた。
「そういえば、イルダさんを見かけなかった?」
周囲の侍女たちが顔を見合わせる。
「私も見ていないわ。まだお部屋にいらっしゃるのかしら」
エミリアの胸に違和感が走った。普段のイルダなら真っ先に来て何かと仕切りたがり、マリアンヌと険悪になる──その姿がない。
「体調でも崩されたのでは?」
「でも、今日は神託の儀よ。休むなんて……」
マリアンヌが眉をひそめた。
「誰か確認してきてもらえますか?」
その時、別の侍女が思い出したように言った。
「イルダ様? そういえば、昨日の夕方から見てないわね。あの時は……たしか、デルナム卿を探してらしたみたいだけれども」
エミリアはハッとした。
(デルナム卿を……!?)
胸の鼓動が早まる。まさか、ここでデルナム侯爵の名前が出るとは──
(まさか、イルダ……何かに巻き込まれたんじゃ……?)
不安が広がる。
しばらくして、使用人が控室に駆け込んできた。
「イルダ様のお部屋を確認しましたが、ベッドにはお休みになられた跡がなく、姿も見当たりません」
侍女たちは顔を見合わせ、控室にはざわめきが広がる。
「まさか、昨晩から部屋に戻っていないの?」
「おかしいわね……どこで一晩を……」
マリアンヌも困惑した表情を浮かべた。
「儀式の準備が忙しくて、昨日は誰も気づかなかったのね……」
エミリアは自分の顔が青ざめたように感じた。
(やっぱり……昨夜、戻れなかったということは──デルナム卿を探していて、そこで何かあった……!)
「とりあえず、もう少し探してみましょう」
マリアンヌが使用人に指示を出す。
「エミリア様、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
サラが心配そうに声をかけてきた。
「ええ、大丈夫……」エミリアは努めて平静を装った。だが、胸の内では不安がさらに膨らんでいく。
(どうしよう……このことを誰かに伝えないと)
その時、控室の扉が開いた。
「エミリア様、お兄様のクロード様が火急の面会を申し込んでおられます」
騎士が息を切らして駆けつけてきた。
エミリアの心臓が跳ねた。
(兄上が、こんな朝早くに? しかも火急って……もしかして……)
アンナのこともあり、心当たりがありすぎた。
「分かりました。すぐに参ります」
エミリアは立ち上がり、騎士に続いて廊下へ出た。
小謁見の間へ向かう廊下を歩きながら、胸の鼓動が早まる。よりによって今日──いや、今日だからこそ何か良くないことが起きた──その予感が確信に変わっていく。
小謁見の間の扉を開けると、クロードが窓辺に立っていた。いつになく真剣な表情だ。
「兄上」エミリアが声をかけると、クロードは振り返った。エミリアがスカートを摘み簡単な礼をとったが、クロードは手を挙げて制止した。
「エミリア、挨拶は後だ。おまえに伝えなければならないことがある」
その声は低く、緊迫していた。
「まあ、座れ」クロードが椅子を勧める。エミリアは言われるままに腰を下ろした。
「昨日の深夜、アンナが屋敷に戻ってきた」
「アンナが!?」エミリアは驚いて身を乗り出した。
「ああ。デルナム邸から逃げ出してきたんだ。まあ、その件についてはいろいろ言いたいこともあるが、今はまあよい」
クロードは腕を組んだ。
「アンナはデルナム邸で麻袋に入れられた人物を目撃した。袋から栗色の髪が見えたそうだ」
「栗毛の髪……」
エミリアの顔から血の気が引いていく。
「従者たちが『ルーエン卿』と言っていたらしい。それに『儀式が終わるまで目覚めまい』『処理は儀式の後で考える』という会話も聞いたと」
「ルーエン卿……副団長殿の?」
「ああ、そうだ」
クロードは深く息を吐いた。
「栗色の髪の女性、ルーエン卿の関係者──間違いない。拉致されたのはイルダ嬢だ」
「やっぱり……」エミリアは拳を握りしめた。
「イルダさんが昨日、デルナム卿を探していたという話を聞いたの。きっと、デルナム卿に会おうとして……」
「……なぜ?」
「イルダさんの家──ルーエン伯爵家は第二王子派。デルナム卿はその中心人物。彼に何か相談でもしようとしたんだと思うわ」
エミリアは立ち上がった。
「その時、何かに巻き込まれた。もしかしたらデルナム卿たちの陰謀を知ってしまったのかも」
「なるほどな。同じ派閥とはいえ、陰謀の件は別、ということかもしれんな」
「えっ? 兄上も何かご存知なの?」
「いや、昨夜初めて知った。……ラウルとアンナに聞いてな」
その声には複雑な感情が混じっていた。
「まったく……彷徨う鎧の時もそうだったが、いつもいつも無茶ばかりして……いい加減にしないか」
クロードは怒っているような、呆れているような、複雑な表情を浮かべた。
彼は深呼吸すると、エミリアを真っ直ぐ見た。
「だが、おまえたちが危険を冒して掴んだ情報だ。無駄にはしない」
怒鳴られると思っていたところへのまさかの言葉に、エミリアは思わず息を呑んだ。兄が初めて自分を認めてくれた──そんな気がして胸が熱くなった。
「兄上……」
「イルダ嬢は必ず救出する。だが……」
クロードは窓の外を見た。
「儀式が始まる前にデルナム邸を強襲すれば、儀式が延期になる可能性がある。それに、警備隊長の許可を得るにも時間が……」
クロードの脳裏に、あの指示が蘇った。
『神託の儀当日、教会およびデルナム邸への強制捜査を準備せよ。ただし、実行は儀式終了後とする』
(まさか、上はすでに何かを掴んでいるのか?)
「儀式を優先すべきか、それとも……」
クロードは決断を迷っていた。
あの方しかいない──エミリアは立ち上がった。
「兄上、少し待っていて!」
「エミリア? おい、どこへ行く!」
クロードの声を背に、エミリアは小謁見の間を飛び出した。
王宮の廊下を全力で走る。侍女が廊下を走るなど本来あり得ない。すれ違う人々が驚いた顔でエミリアを見た。だが、そんなことは気にしていられなかった。
(殿下はどこに……?)
息が切れる。だが、足を止めるわけにはいかない。廊下の角を曲がったところで、ジルベルトの従者を見つけた。
「ジルベルト殿下はどちらに!?」
エミリアが叫ぶと、従者は驚いた表情を浮かべた。
「エミリア様? 殿下は執務室におられますが……」
「火急の用件です! 案内してください!」
エミリアの真剣な表情に、従者は一瞬躊躇したがすぐにうなずき、エミリアを案内した。
「殿下、エミリア様が火急の用件でお越しです」
「入れ」中から声が聞こえた。
エミリアが部屋に飛び込むと、事務仕事をしていたジルベルトは驚いた様子で顔を上げた。
「エミリアさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「殿下……お力を……お貸しください」
ジルベルトは立ち上がり、エミリアのそばに歩み寄る。
「落ち着いて。何があったんですか?」
エミリアは必死に息を整え、事情を説明し始めた。ジルベルトは一瞬驚愕の表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「分かりました。すぐに行きましょう」
彼は手に持っていた書類を机に置き、剣帯を締め直した。決意に満ちた瞳がエミリアを捉える。
「ありがとうございます、殿下」
「礼はいりません。行きましょう!」
二人は執務室を出て、小謁見の間へ急いだ。
小謁見の間に戻ると、クロードが窓辺に立ったまま待っていた。エミリアとジルベルトが入ってくると、クロードは驚いた表情で振り返った。
「殿下……!」
ジルベルトの姿を見たクロードは、慌てて一礼した。
「詳しく聞かせてください」
ジルベルトは落ち着いた声でクロードに尋ねた。クロードも冷静に、そして整然と状況を報告する。
「状況は分かりました。デルナム卿が王宮や儀式会場に姿を現せば、屋敷の警備は手薄になるかもしれません。そのタイミングで強襲すれば、抵抗も少なく、イルダ嬢を救出できるのでは?」
クロードは眉をひそめた。
「しかしながら、警備隊長の許可が……それに相手が相手です。騎士団長の許可も必要かと」
「私が話を通します。一緒に来てください」
ジルベルトは即座に答えた。
クロードは一瞬躊躇したが、すぐにうなずいた。
ジルベルトがエミリアを振り返った。
「エミリアさん、よく私を呼んでくれました。あとは我々にまかせて。あなたは儀式に集中してください」
エミリアは不安と信頼が交錯する中で、静かにうなずいた。
「お願いします。イルダさんを……」
クロードがエミリアの肩に手を置いた。
「分かった。おまえは儀式に集中しろ」
「必ず助ける」その声にはこれまでになかった温かさがあった。
エミリアは涙をこらえてうなずいた。
二人は騎士団詰所へ向かった。
◇ ◇ ◇
騎士団詰所。クロードが執務室の扉をノックすると、中から「入れ」という声が聞こえた。扉を開けると、騎士団長は机で報告書を確認していた。彼は顔を上げ、ジルベルトとクロードを見て立ち上がった。
「殿下、これはまた朝早くから。何かありましたか?」
「団長、緊急の案件です」
ジルベルトは簡潔に事情を説明した。団長は神妙な面持ちで聞いていた。説明が終わると、彼は思案の後、深く息を吐いた。
「なるほど……副団長のご息女、ですか……分かりました」
団長はクロードの方へ顔を向け、指示を出した。
「デルナム邸への強襲を許可する。当初の予定は変更だ。警備隊長を呼べ」
団長の予想外の反応に、クロードは困惑した。いくら団長とはいえ、事前に決められた指示をこうもあっさり変更してよいのだろうか。
(なぜこんなに話が早いんだ……?)
「ありがとうございます」ジルベルトが礼を述べた。
「それで、副団長にもこのことを……」
「いや」団長は手を上げてジルベルトの言を制した。
「副団長への報告は不要です」
ジルベルトとクロードは顔を見合わせた。
「しかし、団長。ご息女のことですから……」
クロードが言いかけると、団長は首を横に振った。
「副団長は現在、第二分隊とともに王都周辺の警備視察に出ている。儀式当日の重要な任務だ」
団長の表情には何か含みがあった。
「ご息女が拉致されたと知れば、さすがの副団長でも冷静ではいられまい。それでは任務に支障をきたす」
「ですが……」クロードが口を開きかける。
「救出が成功してからでよい」
団長はクロードの言を制し、断固とした口調で言い切った。
「成功すれば、ご息女の無事な姿を見せられる。失敗すれば……その時こそ、副団長の力が必要になるだろう」
その言葉には妙な重みがあったが、クロードは釈然としなかった。
(副団長殿への報告を避ける理由が……何か腑に落ちない。まるで、副団長殿を儀式会場から遠ざけているような……)
だが、今はそれを追及している場合ではない。イルダの救出が最優先だ。
「ありがとうございます」ジルベルトが礼をとる。
「では、我が隊が救出に向かいます」クロードが敬礼した。
「頼んだぞ」騎士団長はクロードを見据えた。
「デルナム卿が儀式会場に現れ次第、突入だ。必ずイルダ嬢を救い出せ」
「必ず」クロードが答えた。
廊下を歩きながら、クロードはジルベルトに小声で囁いた。
「殿下……団長殿の様子、何か不自然ではありませんでしたか?」
「ああ」ジルベルトも低い声で応じた。
「まるで、最初から分かっていたかのような……」
二人は顔を見合わせたが、答えは出なかった。
(いったい、何が起きているんだ?)
二人の胸に疑問が渦巻いた。
◇ ◇ ◇
エミリアは小謁見の間から侍女控室へ戻った。
「エミリアさん、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
マリアンヌが心配そうに声をかけてきた。
「少し、緊張していて……」
エミリアは努めて平静を装った。このタイミングで混乱させるわけにはいかない──イルダのことは伏せた。
「無理しないでくださいね」
サラが優しく微笑んだ。
(イルダさん……兄上たちが必ず助けるから。私は、私の役目を果たす。ソフィア妃殿下を必ず守る)
「では、そろそろ会場へ移動となります。お付きの侍女は準備をお願いします」
マリアンヌが告げた。
エミリアは息を呑み、うなずいた。喉が乾くのを感じた。
◇ ◇ ◇
テルネーゼ侯爵邸の書庫では、ラウルとアンナがじっと待っていた。二人とも言葉を発することなく、書庫には沈黙が流れる。
おもむろにラウルが立ち上がった。
「アンナさん。俺、やっぱり会場へ向かいます」
「えぇっ!? いいんですか? クロード様は『待機しておけ』とおっしゃられてましたよね?」
「ええ。でも『待機しておけ』とは言われましたが、『〝ここで〟待機しておけ』とは言われてません」
「……まるでお嬢様みたいな口ぶりですね」
アンナが呆れ顔で笑みを浮かべた。
「分かりました。私もご一緒します」
「いや、それは駄目だ。あなたはデルナム邸を抜け出してきたでしょう? 向こうも探しているかもしれません。見つかったら面倒ですし、危険だ」
アンナは腕を組み、考え込んだ。やがて短く息を吐いた。
「……そうですね。分かりました。ここで大人しくしておきます」
「ありがとう、アンナさん。あなたまで来ちゃうと……今度こそ俺はエミリアに殴られる」
ラウルがニヤリと笑った。
アンナも微笑む。
「ラウルさん……ほんとにあなたって……やっぱりあなたは立派な魔導士です。ダメな弟なんかじゃありません」
「弟?」
アンナが、ハッとして口を押さえる。
「い、いえ。ごめんなさい……口が滑りました」
「……変なの」ラウルが首を傾げた。
ラウルは外套を羽織ると、書庫を後にした。
◇ ◇ ◇
騎士団詰所では突入作戦の最終確認が行われていた。クロードは警備隊長へも報告したが、彼は第一分隊と会場の警備があり、当初の予定どおり会場に残ることになった。「こちらはこちらで私がいないとな」警備隊長の言葉にも含みがあるように思え、クロードの胸には困惑が渦巻いた。
ジルベルトも事態の重大さを考えライモンドへ話をすると、こちらも二つ返事で騎士団に同行する許可が下りた。
「それにしても不可解だ。王族が儀式を欠席するなんてけしからん、と言われると思ったのだが」とクロードへ話したジルベルトの口調にも、困惑の色が滲んでいた。
「デルナム卿が儀式会場に現れ次第、屋敷へ突入する」
クロードが部下たちに指示を出す。拉致された侍女の救出のために貴族の屋敷を強襲する──その非常事態に、騎士たちの表情はこわばり、緊張を隠せない。
そこへ部下が飛び込んできた。
「分隊長! デルナム卿が会場に現れました!」
クロードはうなずき、剣をとった。
目を閉じ、深呼吸する。
──クロードは静かに目を開いた。
「いくぞ!」
「はい!」騎士たちが力強く応じる。
クロード率いる第三分隊とジルベルトは詰所を飛び出した。
──やがて、儀式開始を告げる鐘の音が響いた。




