第48話 深夜の脱出
深夜。デルナム邸のメイドの部屋で、アンナは窓辺に立ち、外を眺めていた。他のメイドたちはすやすやと寝息を立てていたが、アンナは眠れなかった。いや、眠る気になれなかった。
明日は神託の儀。王都全体が祝賀ムードに包まれている。昼間、市場へ買い出しに行った時も、人々は明日の儀式を楽しみにしている様子だった。露店の準備、飾り付け、祭りの賑わい──どこを見ても華やかだった。
(お嬢様……明日、いよいよ神託の儀ですね)
潜入してから数か月。結局、屋敷でデルナムと枢機卿が会っていることと、神託の儀の夜のパーティーの件しか掴めなかった。打ち合わせ中の東棟へ潜入したら何か掴めたかもしれないが、それはラウルに固く止められていた。
結果として、アンナは単に新たな屋敷で働き、使用人たちと仲良くなっただけだった。大見得を切って、エミリアやラウル、マチルダに迷惑をかけ、屋敷のみんなに嘘までついて潜入したのに何もできなかった──胸の内に申し訳なさと後悔が渦巻く。
(どちらにせよ、引き際ね)
儀式が終わればここに留まり続ける理由もない。神託の儀の夜のパーティーを最後に、アンナは辞めるつもりでいた。
その時だった。馬車の音が聞こえた。
(え……? こんな夜中に?)
アンナは身を乗り出した。
音は東棟の方から聞こえた。松明の灯りに照らされ、その姿がはっきりと見える。黒ずくめの男たちが、何か麻袋のようなものを馬車から降ろしていた。
(何……?)
アンナの心臓がとくんと跳ねた。
アンナはそっと部屋を出た。音を立てないよう、裸足のままで廊下を進む。心臓の鼓動が耳に響く。使用人棟から東棟へ続く渡り廊下を抜け、庭へと出た。
夜気が肌に触れる。月明かりが庭を青白く照らしていた。アンナは茂みに身を隠し、馬車の方へと近づいた。男たちは従者だった。声が聞こえてくる。
「おい、気をつけろ。中身が起きたら厄介だ」
(中身?)
「大丈夫だ。薬で眠らせてある。儀式が終わるまで目覚めまい」
アンナは息を呑んだ。
(中身……って、まさか)
従者の一人が麻袋を持ち上げた瞬間、袋の口から何かがはみ出た。月明かりに照らされたそれは──栗色の長い髪だった。
アンナの全身に冷たいものが走った。
(人……!?)
手で口を押さえ、声を殺す。心臓が喉まで飛び出しそうだった。
デルナムの声が聞こえた。
「処理は儀式の後で考える。ひとまずは中へ運べ」
別の声──低く、威厳のある声がした。
「この際、こちらへ引き入れては? ルーエン卿はこちら側でしょう?」
デルナムが吐き捨てるように言った。
「まあ、それも儀式の後ですな」
従者たちが麻袋を東棟へ運び入れる。
アンナは茂みの中で息を殺していた。
(ルーエン卿……その方のご家族? 栗色の髪……女の人)
会話を整理する。
(こんな夜中に麻袋に入れて運ぶなんて……これはただごとじゃないわ!)
『儀式が終わるまで目覚めまい』
『処理は儀式の後で』
(「処理」……あの人、何か知ってしまったんだわ、きっと)
馬車は門を出て行った。デルナムと枢機卿は東棟へと戻っていった。
静寂が戻る──
アンナは茂みから慎重に這い出し、使用人棟へと急いだ。部屋に戻ると荷物をまとめ始めた。持ってきたわずかな私物を鞄に詰め込む。
(陰謀に関係あるのかも。今すぐお嬢様に知らせないと!)
リゼットが隣のベッドで寝息を立てている。アンナは心の中で謝った。
(ごめんなさい、リゼットさん。お世話になりました)
アンナは部屋を出た。裏門へと向かう。庭師が使う小さな門だ。普段は鍵がかかっているが、内側からなら開けられる。
誰にも見つからないよう影から影へと移動する。月が雲に隠れた瞬間を狙い、門へと駆け寄った。錠を外す。きぃ、と小さな音を立てて門が開いた。アンナは一瞬振り返った。
(さようなら)
アンナは夜の王都へと駆け出した。
◇ ◇ ◇
王都の路地を、アンナは息を切らして走っていた。明日からの神託祭に備え、あちこちに露店の骨組みが並んでいる。酒場からは陽気な歌声が聞こえてきた。人々は祭りを楽しみにしている。
だが、その裏で何が起きようとしているのか誰も知らない。
(早く……早くお嬢様に知らせないと)
アンナは走り続けた。だが、王宮は庶民が気軽に面会できる所ではない。まして、この時間だ。下手したら捕縛されかねない。
(そうだ、ラウルさん!)
テルネーゼ侯爵邸へ向かう。路地を曲がり、大通りを横切り、ひたすら走った。やがて、見覚えのある門が見えてきた。
アンナは門を叩いた。
「開けてください! 開けてください!」
しばらくして、門番のトーマスが顔を出した。
「誰だ、こんな時間に……って、アンナじゃないか!?」
トーマスは驚いた表情を浮かべた。
「どうした? こんな夜中に。おまえ、暇をもらってたんじゃなかったか?」
「トーマスさん! 緊急なんです。ラウルさんに取り次いでください!」
「落ち着け。何があった?」
「説明している時間はありません! 今すぐラウルさんを!」
アンナの髪は乱れ、息も切れ切れだ。顔色も悪い。彼女の様子に、トーマスはただごとではないと察した。
「分かった。すぐに執事を呼ぶ」
門が開き、アンナは中へと入った。執事が駆けつけ事情を聞こうとするが、アンナは「ラウルさんを!」と繰り返すばかりだった。執事は困惑しつつもうなずき、ラウルの私室へと走った。
しばらくして、ラウルが駆けつけてきた。
「アンナさん!? どうしたんですか、こんな時間に」
ラウルは驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべた。
「でも、無事で良かったです」
「ラウルさん、大変なことになりました!」
アンナは必死の形相だった。
「こちらへ」ラウルはアンナを書庫へと案内した。扉を閉め、二人きりになる。
「落ち着いて。何があったんですか?」
アンナは息を整えながら話し始めた。
「デルナム邸で……人が拉致されるのを見ました」
「何だって!?」
ラウルの表情が険しくなった。
「先ほど、従者たちが麻袋を運び入れました。その袋の口から……栗色の髪が見えました」
「栗色の髪……」
「女性だと思います。ルーエン卿と言ってましたので、おそらくその方に関係してます。あと、従者が『中身が起きたら厄介だ』と言っていました。それに『薬で眠らせてある。儀式が終わるまで目覚めまい』と」
ラウルは眉をひそめた。
「儀式が終わるまで……明日の神託の儀のことですね」
「そうだと思います。それと……デルナム卿が『処理は儀式の後で考える』と言っていました」
ラウルは腕を組んだ。
「ルーエン卿という方の関係者、栗色の髪で若い女性……王宮に出入りしている人物……侍女ですかね?」
「それは分かりませんが……」
「デルナム卿が拉致するということは、何か知られたくないことを知ってしまったんでしょう」
アンナがうなずいた。
「お嬢様が心配していた陰謀に関係あると思って。ただごとではないと……それで、明日を待たずに脱出してきました」
「よく判断してくれました。あなたの身に何かあったら……それにこれは、たしかにただごとじゃない」
ラウルは目を閉じ、深く息を吐いた。
──もう失敗はできない。儀式を明日に控え、ここでの判断ミスは取り返しがつかない。ただでさえ、自分は以前、アンナの潜入を止めることができなかったのだ。
今できる確実な方法は──しばし考えを巡らし、目を開いた。
「よし、すぐにクロード様に報告します」
「お嬢様にも知らせないと」
「ええ。でも、まずはクロード様に」
ラウルは立ち上がった。
「アンナさん、ここで待っていてください」
「私も一緒に行きます!」
「いえ、ここは俺が。あなたは休んでいてください」
「でも……」
「大丈夫です。すぐに戻ります」
ラウルは書庫を出て、クロードの私室へと向かった。
◇ ◇ ◇
クロードは明日に備えて休むところだった。しかし、今日の最終点検の際に警備隊長から受けた不可解な指示が気になり、なかなか寝つけずにいた。
ノックの音が響いた。ベッドから身を起こす。
「入れ」
扉が開き、ラウルが入ってきた。
「ラウルか。こんな夜中にどうした?」
クロードは訝しげに眉をひそめた。
「クロード様、重大な報告があります。アンナさんがデルナム邸から緊急で戻ってきました」
「アンナが? デルナム邸から?」
クロードは首を傾げた。
「どういうことだ?」
「実は……」
ラウルは潜入調査の経緯を説明した。エミリアが王宮で掴んだ情報、デルナムへの疑惑、証拠を掴むための潜入、マチルダの協力──すべて。
クロードは一瞬、呆然とした。
「おまえたち……また、そんな危険なことを……なぜ私に相談しなかった」
「申し訳ありません。でも、エミリアが王宮で掴んだ情報を確認するため、どうしても証拠が必要でした」
「それで、メイドを一人、敵の懐に送り込んだというのか」
まったく、なぜこいつらはいつもいつも、とんでもないことばかりしでかすのか──クロードの拳が震えた。
「でも、アンナさんは無事です。そして……」
ラウルは、アンナが深夜に目撃したことを説明した。麻袋に入れられたルーエン卿と関わりのある人物、栗色の髪、従者たちの会話、デルナムと枢機卿の言葉。
クロードは目を見開いた。
「ルーエン卿……副団長殿ではないか! 栗色の髪……もしや、ご息女であるイルダ嬢か?」
「副団長殿……ですか?」
「ああ、そうだ。ルーエン卿……副団長殿だ。副団長殿にはご息女がおられ、名をイルダという。……侍女なのだ」
クロードは立ち上がった。
「アンナを呼んでくれ。直接話を聞く」
部屋に呼ばれたアンナは、深夜に目撃したことを詳しく語った。東棟の裏口、黒服の従者たち、麻袋、栗色の髪、従者の会話、デルナムと枢機卿の姿──
「『儀式が終わるまで目覚めまい』と従者が言っていました。それに、デルナム卿は『処理は儀式の後で』と」
アンナの声が震えた。
「誰だか分かりませんでしたが、女性のようでした。助けてあげないと……」
クロードは黙って聞いていた。アンナの真摯な態度、具体的な証言──嘘を言っているようには見えなかった。そして、拉致された女性はやはりイルダに違いなかった。
クロードの脳裏に、気になっていた妙な指示が再びよぎる。
『神託の儀当日、教会およびデルナム邸への強制捜査を準備せよ。ただし、実行は儀式終了後とする』
その時は意味が分からなかった。なぜ儀式終了後なのか。なぜ教会やデルナム邸なのか。捜査とは?
──だが、今なら分かる。
(儀式終了後に捜査……ということは、儀式の間に何かが起こる? そして、その証拠が教会やデルナム邸にある? もしや、拉致もこの件に関係しているのか?)
──警備隊長に報告しなければ。いや、まずは当事者である妹か。
「分かった。だがこの時間、王宮は閉ざされている。明日の朝一番で王宮へ向かう」
クロードは二人を見た。
「二人とも待機しておけ。いいか、今度こそ大人しくするんだ。これ以上危険な真似をするのは止めろ」
「……承知しました」
二人が退室すると、クロードは一人、窓辺に立った。
(エミリアが何かに巻き込まれている。それに、無実の女性が拉致されている。騎士として、兄として、見過ごすわけにはいかない)
空は徐々に青みを帯びていた。クロードは東の空をじっと見つめた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。王宮の倉庫棟の一角。誰もいない薄暗い通路に三つの人影があった。
「所長、本日の件、よろしく頼む」
「そうですな。このタイミングしかないでしょう」
一人は、王立研究所のアルザス所長だった。
「騎士団へも話はついている」別の声がした。
「儀式は混乱するだろうが、やむを得まい」
「彼らは?」
「以前、私の方で止めた。それ以降はおとなしいが……」
「本当は、夏の巡幸に同行させた方がこちらとしても安心できたのですが。何をしでかすか分かりませんでしたので」
「たしかに。だがさすがに、そこまで口は出せんな」
「まあ、ここまでくると何もできないでしょう」
「そうですな」所長も応じる。
彼らは手短に話し、別れた。
アルザスは満足げな笑みを浮かべ、通路を歩いていく。
遠くから、夜明けを告げる鐘の音が聞こえてきた。
──神託祭初日。神託の儀の日を迎えたのだ。




