<閑話8> 静寂の夏
ある初夏の朝。王宮の中庭に出発の準備が整った馬車が並んでいた。
毎年恒例の、王と王妃が避暑を兼ねた北部地方巡幸へ出発する日だ。同行する貴族もいるため、いつもは静かな中庭が珍しく賑やかだった。
出発の数日前、エミリアとサラは王妃に呼び出された。
「私たちは北部巡幸に出ます。あなたたちは王宮に残って──」
王妃は少し間を置いて、意味深な微笑みを浮かべた。
「ソフィアさんのこと、よろしくね」
その瞳は何か深い意味が込められているようだった。
馬車が門を出ていく。王妃だけでなく、多くの貴族たちも各自の避暑地へと向かっていく。賑やかだった王宮から人々が次々と去っていった。
──静かな夏が始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
数日後。貴族たちが避暑に出かけた後、王宮は嘘のように静まり返っていた。窓から差し込む夏の陽射しが、人のいない空間を白く照らし出している。まるで時間が止まったかのようだ。
デルナムも枢機卿もぴたりと姿を見せなくなった。重臣たちの定例会議も夏の間は休止となる。夏は多くの貴族が避暑のため王都を離れる季節なのだ。緊急の場合は王太子が対応し、場合によっては巡幸先に早馬を出すことになっていた。
侍女たちも、王と王妃の巡幸についていく者、この期間に合わせて里帰りする者と様々だった。
いつもなら貴族や侍女たちの話し声で賑やかな回廊も、今は足音だけが妙に大きく響く。長い廊下の向こうまで誰の姿も見えない。
回廊を歩いていたエミリアは立ち止まり、辺りを見渡した。
(ここまで静かだと、なんだか落ち着かないわね)
いつもと違う不自然な静けさは、エミリアにとってどこか不気味に感じられた。
ふと、故郷のことを思った。
(お父様たちも、たまには里帰りすればいいのに)
エミリアが以前そう言ったとき、ベルナードは厳しい顔で答えた。
「陛下がご不在の時こそ、王都を空けるわけにはいかん」
王に忠誠を誓う者として、避暑に興じるわけにはいかないのだろう。変に責任感が強いのが父らしい。でも──
(テルネーゼ地方は南部の温暖な土地だもの。避暑よりも越冬かな)
エミリアは小さく笑った。こんな些細なことを考えられるくらい、今の王宮は平和に思えた。
◇ ◇ ◇
ある日、サラがつぶやいた。
「何も起きませんね」
「ええ……拍子抜けするくらい」
リハーサル以降、杖は教会に保管される。儀式までは気を抜けない──エミリアはそう決意していたが、こうも平和だと警戒心より不安が勝ってくる。
エミリアは窓の外を見つめながら、胸の内の不安を口にした。
「ねえ、サラ」
「はい?」
「あの宝珠……結局、いつすり替えるつもりなのかしら?」
状況だけを考えたら、すり替えるつもりなのは明らかだ。しかし、それがいつなのか分からない。
「たしかに……全然そんな気配がありませんね」
サラが不安そうに眉をひそめる。
「デルナム侯も枢機卿も、この夏は王宮にまったく姿を見せない。定例会議も休みだし、みんなも避暑に出かけているわ」
「拍子抜けするくらい、何も動きがないですよね」
「それが逆に不気味なのよ」
エミリアは拳を握りしめた。
「わざわざ宝珠を手に入れたのに、この静けさ。夏が終われば神託祭はすぐよ。前日のリハーサル以降、杖は教会に保管されるのよね」
「はい……そうですね」
「だったら、その時が一番危ないわ。杖を保管している間に宝珠をすり替えるつもりなのかしら」
「でも、教会内部は人払いされますよ」
「教会のことだもの。信用できないわ」
とはいえ、現時点では本当に何もなかった。
ラウルからの手紙にも、目立った動きはないと書かれていた。アンナからの報告も同様だった。デルナム邸も夏の間は人の出入りが少ないという。そもそも、当のデルナムが避暑に出かけ、不在だった。
使用人たちも夏休みということで順に暇を出され、アンナも久しぶりに王都近郊の実家へ里帰りしたらしい。
当初、危険ではないかと心配していた潜入活動もそれなりに上手くやれているようで、それについては少しだけ安心した。
暇になったため、図書館へ通う頻度も増えた。だが、ジルベルトやサラと一緒に調べても、これといって新しい情報は出てこない。
あまりに目ぼしい情報がなかったので、魔法理論や詠唱法の本まで読みあさった。以前、屋敷の衛兵隊長に宣言したことはまだ忘れていない。努力したら、血脈のない自分でも魔法を使えるようになるのか──これも、いずれ本気で取り組みたいことだった。
それにしても、偽の宝珠をどう使うつもりなのか、それは今だに分からない。敵はすでに宝珠を手に入れている。それなのに動きが見えない。この静けさが、エミリアには余計に不気味に感じられた。
◇ ◇ ◇
ある日の夕方、エミリアとジルベルトは図書館から戻る廊下で珍しい人と会った。
「おや、殿下。それにエミリア殿ではないですか」
王立研究所のアルザス所長は白髭をさすりながら、にこやかな表情を浮かべた。その脇では研究員が大きな鞄を持っている。
「アルザス所長、お久しぶりです!」
鉄巨人の時には教会のこともあり、ゆっくり話すことができなかった。王国の『知の巨人』と呼ばれるこの人物には、まだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるのだ。思わぬ出会いに心が弾んだ。
「所長、王宮でお見かけするのは初めてですわね」
「ほほっ、そうですな。王宮へはもっぱら報告に来るぐらいですから」
「今日はどういったご要件で?」
ジルベルトが尋ねた。
「なに、ちょっとした報告ですよ」
「兄上に?」
「ええ、まあ」
──父上ではなく、兄上に?
所長は笑みを浮かべたままだった。だが、ジルベルトには、それが逆に不自然に感じられた。
所長はエミリアへ目を向けた。
「機会があったら、また研究所へ遊びにいらしてください」
「はい、ありがとうございます!」
「では、また」
夕暮れ時、朱に染まりだした廊下が、エミリアにはほんの少し優しく感じられた。
「所長、兄上に何の用だったのか……聞き方を間違えたな」
アルザスが去った後の廊下で、ジルベルトがつぶやいた。
「殿下もご存じない?」
「ええ。現在、研究所で特に何か王室への報告が必要なほどの案件はなかったはずなんですが。しかも所長自ら報告へ来るとは」
「そうなんですね……どちらにご用だったんでしょう?」
「分かりません……でも、何か引っかかるんです」
アルザス自ら報告に来るほどの研究。それも王ではなく、ライモンドかジュリアンへの報告。だが、ライモンドに尋ねても相手にしてもらえないだろうし、ジュリアンはそもそも敵側だ。聞いても無駄だろう。
ジルベルトが言うとおり、たしかに違和感の残る出来事だった。
◇ ◇ ◇
結局、何事もなく夏が終わろうとしていた。
貴族たちが王都に戻り始めると、王宮は再び活気を取り戻した。廊下に人々の話し声が戻ってくる。会議も再開された。
そして、今年のデビュタント。社交界デビューの季節がやってきた。エミリアは王妃付き侍女として、王妃の後ろに控えていた。視線の先には今年デビューする令嬢たちが並んでいる。
華やかなドレス。緊張した面持ち。期待と不安の入り混じった表情。一人ずつ名前を呼ばれ、王の前に進み出る。
(去年の私も、あんな顔をしていたのかな)
「ノースキル」と蔑まれ、家族からも冷遇され、それでも必死に背筋を伸ばしていた。今は王妃の後ろに立ち、王国で最も名誉ある侍女の一人として認められている。立場は大きく変わった。
──視線を感じた。
よく見ると、幾人かの令嬢たちが羨望の眼差しでこちらを見ている。
(満を持してデビューして、その年に王宮入りした二つ持ちの侯爵令嬢を一目見たい、ってところかしら)
自意識過剰と思いつつも、エミリアは自嘲した。
侯爵家という恵まれた家門、二つ持ちという神に愛された血脈、王妃付き侍女という選ばれし立場──たしかに傍目には、社交界の階段を順調に駆け上がる幸せな令嬢に見えるだろう。
だが、それは違う。
これは自分の努力ではない。『ノースキル』のはずだった自分になぜか力が発現した。その謎の力が今の地位をもたらした。
努力で何かを成し遂げたい──そう思っていたのに、結局何もできていないのだ。
あの月夜の晩の、兄の言葉が頭をよぎる。
『おまえ……一体、何なんだ……?』
(そう。私は何者なのか。それすら分からないまま、ここにいる)
謎は何一つ解けていない。それどころか疑問は増えるばかりだ。神託の杖、デルナムと枢機卿の策略、二人の王子の不可解な態度──すべてが謎のままだ。
令嬢たちの姿を見つめながら、エミリアはこの一年の重みを噛み締めた。
「エミリア様」
隣に立つサラから小声で話しかけられ、我に返った。
「私の妹も今十五歳で、来年デビューの予定なんです」
「え、そうなの?」
「はい。来年のデビュタントでは、ぜひ紹介させてくださいね」
「もちろんよ。楽しみだわ」
(そうだ、私にはサラがいる。ラウルやアンナ、それにジルベルト殿下も……今できることを頑張ろう)
サラの微笑みに、先ほどまでの苦い思いが溶けていった。
デビュタントの祝宴が終わり、王宮に平穏な夜が戻る。エミリアは自室の窓から星空を見上げた。
静かで平穏だった、この夏。それはまるで──
(嵐の前の静けさなのかもしれない)
なぜそう思うのか自分でも分からない。だが、胸騒ぎが止まらなかった。
──神託祭まで、あとわずか。




