第44話 血脈の呪縛
近ごろはすっかり春めいて、王宮の庭園に降り注ぐ陽光も眩しい。花壇には色とりどりの花が咲きほこり、木々の枝には若葉が芽吹いていた。
イルダは、その庭園の一角で金色の髪を持つ人物を見つけた。ジュリアン王子だ。彼は一人ベンチに腰掛けて、何か書類に目を通していた。
(チャンスだわ)
イルダは髪を整え、笑顔を作って近づいた。
「殿下」甘えた声で近づくと、ジュリアンは顔を上げた。彼はいつもの軽薄な笑みを浮かべていた。
「おや、イルダ嬢じゃないか」
「明日から春の里帰りをさせていただきます。しばらくお会いできないと思うと……寂しくなりますわ」
イルダは甘ったるい口調で話したが、ジュリアンの反応はそっけないものだった。
「そうか。良い里帰りを」
その視線はイルダの方を向いてはいたが、まるで遠くの風景を眺めているかのように素通りしていた。
「殿下……」
「たまの里帰りだ、家族との時間を楽しまれよ」
ジュリアンは意味深な笑みを浮かべると、書類を手に立ち上がった。
「では、失礼する」そう言い残して、彼は去っていった。
イルダはその場に立ち尽くした。
(殿下……どうして私を見てくれないのですか)
遠ざかるジュリアンの背中を見つめながら、拳を握りしめる。
(私の方がエミリアよりも純粋な血脈なのに……二つ持ちだからって、何なのよ)
イルダはうつむきながら廊下を歩いていた。先ほどのやり取りを思い返す。ジュリアンはなぜ自分を見てくれないのだろう。血脈で言えば、自分の方がエミリアより上のはずなのに──胸の奥で嫉妬と焦りが渦巻いた。
「あら、イルダ様」
不意に声をかけられ、顔を上げた。サラだった。王妃付きの侍女で、血脈の薄い田舎貴族の娘だ。その顔にイルダは苛立ちを募らせた。
「あなたみたいな血脈の弱い者が、なぜここにいるのよ」
イルダは思わず、とげのある言葉を投げつけた。
だが、サラは表情を変えることなく「侍女の務めですから」と穏やかに、しかしはっきりとした口調で答えた。
その落ち着いた態度が、かえってイルダの苛立ちを増した。
イルダが口を開きかけたその時、廊下の向こうからエミリアの姿が見えた。
「ふん」イルダは鼻を鳴らして、サラの脇を通り過ぎた。
(エミリアよりも私の方がジュリアン殿下にふさわしいんだから!)
心の中で何度も繰り返す。
(血脈の強さでいえば私の方が上なのに。絶対にそう)
だが、その確信はどこか空虚だった。
自室に戻ると、使用人たちが荷造りを手伝っていた。
「イルダ様、こちらのドレスはお持ちになりますか?」
「ええ、それも入れておいて」
(お母様に会える)
久々の里帰りへの期待が胸に広がる。だが、同時に複雑な感情も湧いてきた。母が恥をかかされた、あのお茶会の一件──
(きっと、お母様は今でもお怒りのはずよ)
イルダは唇を噛んだ。
翌日、イルダはルーエン伯爵邸に到着した。見慣れた屋敷の門をくぐると母が出迎えてくれた。父は騎士団の任務で不在だという。
「おかえりなさい、イルダ」
「ただいま戻りました、お母様」
母の笑顔は穏やかだった。だが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
まずは応接間に通され、そこへ紅茶が運ばれてきた。母は注がれた紅茶の香りに目を細め、カップを手に取りながら尋ねた。
「王宮での暮らしはどう? 順調かしら?」
(順調なわけないのだけれど……)
イルダは少し言いづらそうな素振りを見せた。
「それなりに……」
「何かあったの?」母の目が、鋭くなった。
「……実は」
イルダはこれまでのことを話し始めた。ジュリアン殿下のそっけない態度。エミリアの存在。王宮での派閥争いと、そのエミリアが王太子派と見られていること。
母は黙って聞いていた。だが、その表情は次第に険しくなっていく。
「そう……分かったわ」
母はカップを置くと、静かに告げた。
「午後、ちょうどお茶会を開く予定なの。そこで詳しく聞かせてちょうだい」
その声は固く冷たかった。
午後、ルーエン伯爵邸の客間は華やかな雰囲気に包まれていた。招かれたのは母と親しい夫人たちだった。
「イルダ様、王宮での暮らしはいかがですか?」
一人の夫人が尋ねる。
「ええ、侍女としての務めを果たしておりますわ」
イルダは優雅に微笑んだ。
「ジュリアン殿下とはお会いできて?」
別の夫人が意味ありげに聞く。だが、イルダはわずかに表情を曇らせた。
「はい……お会いできてますが……」
その様子を見て、母が口を挟んだ。
「イルダ。そういえば、王宮で『面白いご令嬢』がいると聞いたわよ」
その声には明らかな皮肉が込められていた。同席している夫人たちが、はっとした表情を見せる。彼女たちも王妃の茶会での件は忘れていなかったのだ。
「ああ……あの時の」
「侯爵家の……」
「ええ、エミリアですわ」イルダは表情を歪めた。
母の目が冷たく光った。
「そうね、あの娘のせいで、私たちは王妃殿下の前で恥をかかされたのよ」
夫人の一人が、憤りを隠さずにうなずいた。
「ええ、まだ覚えていますわ。あの礼儀知らずな侍女ですわね」
「そう。『血脈が全てではない』ですって」母の声が低く沈む。
他の貴婦人たちも続いた。
「客の会話に口を挟むなんて、言語道断よ」
「しかも王妃殿下があの娘を支持されて……」
イルダもそれに続ける。
「お母様、私もあの方には腹が立ちますわ。『二つ持ち』だからって調子に乗っていますのよ」
母は紅茶のカップを置いた。その動作は静かだったが、隠しきれない怒りが伝わってきた。
「私はあの日の屈辱を一日たりとも忘れていないわ」
夫人たちも次々にうなずく。
「血脈こそが貴族の全てですわ」
「血脈がない者は、神に選ばれていないのですもの」
「そもそも、血脈が関係ないなんて庶民の台詞ですわ」
「ソフィア妃殿下も、血脈がお薄いのに巫女役とは……」
「もし儀式が失敗したら、それが証明されますわね」
母はイルダをまっすぐに見つめた。
「イルダ、あなたこそジュリアン殿下にふさわしいのよ」
「お母様……」イルダは驚いて目を見開いた。
「私は本気よ。あの娘なんかに、あなたを負けさせるわけにはいかないわ」
そして、母は低い声でつぶやいた。
「あの日の屈辱を、必ず晴らしてやるわ」
母の怒りにあふれた決意の表情を見て、イルダの胸にも母と同じ決意が芽生え始めていた。
使用人がお茶のおかわりを持ってきた。それまでの仄暗い雰囲気が一区切りされる。
母の隣の夫人が話題を変えた。
「そういえば、先日デルナム卿が中央教会から出てくるところをお見かけしましたわ」
「まあ、本当に信心深いお方ですこと」
他の夫人たちもうなずく。
「本当にデルナム卿は、伝統ある血脈制度を大事にしていらっしゃいますね」母も満足そうにうなずいた。
「そうですわね。血脈の重要性を理解していらっしゃるわ」
「法王国との関係も深いと聞きますわね」
「神託の儀にも、何かと関わっていらっしゃるとか」
母は、イルダに視線を向けた。
「イルダ、お父様は第二王子派ではあるけれど、政治的なことにはあまり関心がない方なの」
「それは存じておりますわ」イルダは静かに答えた。
父は騎士として、自身の武の血脈への誇りを持ち、血脈という伝統を大事にしている。だが、それは家門の権勢を振るうことではない。第二王子派に属しているのも血脈重視の思想に賛成しているからであり、派閥争いには積極的ではない。
「もし王宮で困ったことがあったら、デルナム卿を頼りなさい」
母は真剣な声色でイルダに語った。
「あのお方は本当に頼りになります。私たち第二王子派の中心的なお方よ。必要なときは遠慮せずに相談するのよ」
イルダは深くうなずいた。
(お母様がそう言うなら、デルナム卿は信頼できるお方なのね。ぜひ相談しよう。お母様の恥をそそぐためにも私が頑張らないと)
こうなったら、どんな手でも使わないと──イルダは心の奥で決意を固めた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王宮ではソフィアが私室で一人、窓の外を眺めていた。窓から見える庭園は美しく、平和な光景だった。だが、ソフィアの心は穏やかではなかった。
(血脈を重視していない国の生まれだと、この国の価値観はやっぱり息苦しいわね)
北方諸国では血脈よりも個人の能力や人柄が重視される。だが、この国は違う。血脈こそが全て。それがこの国の貴族たちの価値観だった。巫女を務めることが確定して以来、特にそう感じるようになった。
(でも、エミリアさんがいてくれる)
エミリアの顔が思い浮かぶ。あの日、お茶会で自分を守ってくれた少女。
(ありがとう、エミリアさん。あなたがいてくれて心強いわ)
ソフィアは小さく微笑み、ソファーに身を委ねた。
(そして……夫も)
その時、扉がノックされた。
「どうぞ」
扉が開き、王太子ライモンドが入ってきた。
「ソフィア……どうした? 考え事か?」
「ええ……神託祭のことよ」
ライモンドは、ソフィアの隣に座った。
「大丈夫だ。そなたなら必ず成功する」
「でも、計画のためとはいえ、あの方もお辛いのでは……」
「たしかに心苦しくはあるが、それは避けられない。あれも承知の上だ」
「……そうですね」ソフィアは静かにうなずいた。
長い沈黙が続いた。
「今しばらく耐えてくれ。必ず、そなたを守る」
「私は覚悟しているわ」
ライモンドがソフィアの手を取り、ソフィアもライモンドの手を握り返した。彼女の瞳には強い決意が宿っていた。
「血脈が薄いと批判されても、儀式を成功させてみせるわ」
ライモンドはうなずき、ソフィアを優しく抱きしめた。
(殿下と共にこの国を変えていく……血脈だけで人を判断する、この理不尽な社会を。そのためなら、私は何でも耐えられる)
抱擁の中で、ソフィアは静かに目を閉じた。




