<閑話7> 不肖の弟
エミリアが王宮へ戻った翌週、ある日の午後。
市場はあいかわらず活気に満ちていた。野菜売りの威勢のいい声、肉屋の包丁の音、パン屋から漂う香ばしい匂い──アンナは買い物かごを手に、人混みの中を歩いていた。
最近は、アンナがすっかり買い出し担当になった。大量の食材が必要なときなどは出入りの商人が屋敷へ運んでくれるが、自分たちの普段の賄い程度は買いに行くしかない。週に1〜2回のこととはいえ、誰だって重いかごをぶら下げて市場をうろつきたくないのだ。
今日の買い物はすでに半分以上済んでいる。あとは魚と香辛料を買えば終わりだ。
(……でも、その前に)
アンナは何気ない様子で周囲を見回した。誰かに見られている気配はない。さりげなく方向を変え、市場の端にある裏路地へと足を向けた。
狭い路地。積み上げられた木箱の陰。約束の場所に見慣れた人影があった。
「ラウルさん」
小声で呼びかけると、壁にもたれてかかっていたラウルが身を起こし、こちらを見た。
「アンナさん」
ラウルの安堵する表情に、アンナは小さな笑みで応じる。二人は周囲を警戒しながら、壁際に身を寄せた。
「アンナさん、誰かに見つかったりしてませんか?」
「ええ、大丈夫です。テルネーゼ家の人たちが使う店は避けてますし、この人混みです。意外に会わないものですよ」
「それなら良かった」
ラウルがほっと息を吐いた。
「そういえばラウルさん。前から聞こうと思ってたんですが、私が潜入したときって、お嬢様に怒られなかったんですか?」
ラウルは腕を組み、苦い笑みを浮かべた。
「……それはもう、散々でした」
「ですよね……ごめんなさい」
「いや、俺が悪いんです。アンナさんは悪くない」
短い沈黙。路地の向こうから、市場の喧騒が聞こえてくる。
「それで……あれから何か分かったことは?」
ラウルの問いに、アンナは周囲を窺いながら声を潜めた。
「神託の儀の夜、デルナム邸で内輪のパーティーを開く予定らしいです」
「神託の儀の夜に……?」
「おかしいですよね。メイドたちも『なんで神託の儀の日に』って不思議がってました」
「……なるほど」
ラウルは手を顎に寄せ、思案の色を浮かべる。
「分かりました。それをエミリアに伝えます。他には?」
「今のところは……それくらいですね」
アンナは申し訳なさそうに首を振った。
「焦らなくていいです。慎重に」
ラウルは優しく言った。
「それじゃ、来週も同じ時間に」
二人はタイミングをずらし、人の流れに紛れ込むように通りへ戻った。アンナは何事もなかったかのように野菜売りの前を通り過ぎ、かごに残りの品を詰めていく。その時──
(誰か見てる……?)
ふと、そんな気配を感じた。だが、振り返っても、いつもと変わらぬ市場の風景が広がっているだけだ。気のせいかしら──アンナは首を振り、デルナム邸への帰路についた。
翌日の夕方。アンナは夕食後の休憩時間を、控室で他のメイドたちと過ごしていた。リゼットが紅茶を淹れ、皆で他愛もない話をしている。穏やかな時間だった。
その時、扉が開いた。
メイド長のマルタがひょいと顔を出した。
「アンナ、ちょっといいかしら」
アンナの心臓が、とくん、と跳ねた。
(えっ、何か失敗したかな?)
「は、はい」立ち上がり、マルタについていく。他のメイドたちが心配そうな視線を向けてきた。
メイド長の私室。いつもよりも少し厳しい表情のマルタが椅子に座った。
「座りなさい」
「はい……」
アンナは促されるまま向かいの椅子に腰を下ろした。嫌な予感が背筋を這い上がってくる。マルタはしばらくアンナを見つめていた。その視線が、じわじわと重くのしかかる。
マルタが切り出した。
「アンナ、正直に答えてちょうだい」
心臓が早鐘を打つ。
「は、はい」
「買い物のついでに、男の人と会ってるでしょう?」
頭が真っ白になった。
(見られてた……!)
必死に平静を装う。だが、声が裏返った。
「それは……その……」
マルタは大きくため息をついた。
「隠さなくていいのよ。怒ってるわけじゃないの」
その表情が、少しだけ柔らかくなる。
「ただ、心配なのよ。あんた、人が良さそうだから」
アンナは何も言えなかった。
マルタは腕を組み、アンナへさらに尋ねる。
「恋人? それとも家族?」
とっさに、アンナは言葉を紡いだ。
「弟……なんです」
(ごめんなさい、ラウルさん……!)
心の中で謝罪する。
「弟?」マルタが眉を上げた。
「はい……実家の弟が……その、お金を無心してきて」
「お金を?」マルタがさらに眉をひそめる。
アンナは続けた。
「はい……魔導士になりたいって言い出して……」
「魔導士?」マルタの目が丸くなった。
「働く暇なんてないから生活費が必要だって、それで……」
アンナの声がだんだん小さくなっていく。心の中で、ラウルへの謝罪が止まらない。
(嘘の弟にしてしまった……しかも、お金を無心する困った弟に……!)
マルタは呆れた表情を浮かべると、額に手を当て大きく息を吐いた。
「はあ〜……ちょっと待って」
彼女は身を乗り出した。
「あんたの弟さん、血脈持ってるの?」
「いえ……それが、持ってないんです……」
自分も血脈がないのに、弟が血脈持ちなのは不自然かも──一瞬そう考えたアンナは申し訳なさそうに答えた。
アンナの苦し紛れの言い訳で、マルタの呆れ顔がさらに深まった。
「はぁ? 血脈もないのに魔導士? 夢見すぎでしょう、弟さん」
マルタは肩をすくめた。
「あんた、人が良いから弟に舐められてるのよ」
(ラウルさん……本当にごめんなさい……)
アンナは心の中で何度も謝りながら、黙ってうなずいた。
「いい? 血脈がなきゃ、どんなに頑張ったって魔導士にはなれないの。弟さんには、もっと現実的な道を選ばせてあげなさいよ」
(ラウルさん、血脈があって本物の魔導士なのに)
アンナはただうなずくしかなかった。
「まあ、家族だから断れないのも分かるけどね」
彼女は再びため息をつく。
「でもね、アンナ。弟さんのためにならないわよ、そんなの。きっぱり断ってあげるのも優しさなのよ」
「……はい」アンナはもはや、か細い声で返事をするのが精一杯だった。
「これからは気をつけてね」
マルタは立ち上がった。
「あんまり頻繁に会ってると噂になるわよ」
「はい……」
「旦那様はそういうことには厳しい方だからね。使用人の素行には敏感なの」
だが、マルタは苦笑した。
「まあ、あんたは真面目に働いてるし、今回は見なかったことにするけど。っていうか、会うならもっと上手くやんなさいよ」
「ありがとうございます……」
「はいはい。さ、もう休みなさい」
マルタに促され、アンナは退室した。
誰もいないメイドの部屋に戻ると、アンナはベッドに座り込んだ。両手で顔を覆う。
(ラウルさん、本当に本当にごめんなさい……!)
心の中で叫んだ。
(嘘の弟にしてしまった……しかも、「血脈もないのに魔導士になりたがるダメな弟」って。お金を無心する弟って……!)
顔を上げ、天井を見つめる。
(ラウルさん、ちゃんと血脈もあって立派な魔導士なのに。メイド長に「夢見すぎ」って言われちゃった……)
アンナは立ち上がり、窓辺へと歩いた。夜の王都が窓の外に広がっている。遠くに王宮の灯りが見えた。
(これ、ラウルさんが知ったら、どんな顔するかしら)
想像すると、申し訳なさと同時に、ちょっとおかしくもなってくる。
(……怒るわよね、絶対)
いや、でも──
(ラウルさんは優しいから、きっと笑って許してくれる……かも。それに、お嬢様が知ったら……)
思わず笑みが溢れる。
(まあ、間違いなく笑うわね……それから軽く怒られるかも)
窓の外を見つめながら少し真面目な表情になる。メイド長の言葉が頭の中で繰り返された。
──血脈がなきゃ、どんなに頑張ったって魔導士になれない。
(やっぱり、それがこの社会の〝常識〟なのよね)
アンナは拳を握りしめた。
(でも……)
ラウルは魔法の血脈を持っている。それでも、努力の方が大切だと言っている。エミリアも、血脈だけが全てではないと言っている。
(私が嘘をついた〝弟〟みたいに、血脈がなくても夢を持つことは、本当に〝夢見すぎ〟なことなのかしら?)
窓の外、王宮の方角を見つめる。
(お嬢様……)
エミリアもこの理不尽な社会と戦っている。その勇気をアンナは心から尊敬していた。
(私も、お嬢様のためにできることをする)
メイド長に気づかれた。でも、まだ大丈夫。むしろ上手くやれと言われた。
(もう少しだけ……もう少しだけ頑張れば、きっと何か掴める)
アンナはベッドに戻り、毛布を引き寄せた。
(それにしても……ラウルさん。〝困った弟〟にしちゃって本当にごめんなさい。次に会ったら、ちゃんと謝らなきゃ)
でも、きっと──
(ラウルさん、優しいから……笑ってくれるわよね。いや、苦笑いかな)
再び小さく笑うと、アンナは目を閉じた。




