第42話 潜入調査
朝日がデルナム侯爵邸の重厚な石造りの門を照らしている。アンナは門の前に立ち、深く息を吸った。手には子爵家の紹介状を握りしめていた。
(ここが……デルナム侯爵邸)
テルネーゼ侯爵邸とはどこか雰囲気が違う。もっと冷たく、厳格な印象を受ける建物だ。アンナの手がわずかに震えた。
(お嬢様のために……何としても情報を掴まなくちゃ)
緊張で口の中が渇く。でも、ここで引き返すわけにはいかない。
アンナは笑顔を作り、門を叩いた。
しばらくすると門番が顔を出した。
「どちら様で?」
「メイドの募集に応募に参りました。アンナと申します」
門番は一瞬、アンナを値踏みするように見ると、うなずいた。
「中へどうぞ。執事が案内します」
門が開く。アンナは一歩、足を踏み入れた。
(もう、後戻りできない……)
執事に案内され、アンナはメイド長の部屋へと向かった。廊下は静かで足音だけが響く。テルネーゼ侯爵邸よりもどこか人の気配が薄い気がした。
扉の前で執事がノックする。
「メイド長、応募者をお連れしました」
「どうぞ」中から落ち着いた女性の声が聞こえた。
部屋に入ると、机の前に五十代くらいの女性が座っていた。メイド長マルタ──厳しい表情だが、どこか温かみも感じられる。
「アンナと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アンナは丁寧にお辞儀をした。
「ええ。紹介状は?」
アンナは紹介状を差し出した。マルタはそれを受け取り、ゆっくりと目を通す。
「子爵家からの紹介とは……珍しいわね」
マルタは少し驚いたような表情を見せた。
「はい。知人の紹介で……」
「そう」マルタは紹介状を机に置き、アンナをまっすぐ見た。
「前の職場での経験は?」
「貴族のお屋敷でメイドをしておりました。掃除、洗濯、料理の手伝いなど、一通りのことはできます」
「前のお屋敷を辞めた理由は?」
アンナは心の中で一瞬躊躇した。でも、表情には出さない。
「母の看病のため、一時帰郷いたしました。母も回復しましたので、新たな職を探しております」
嘘だ。母は王都近郊の村で元気にしている。でも──
(ごめんなさい……)
マルタはしばらくアンナを見つめていた。その視線に、アンナは背筋に冷たいものを感じた。
(バレた……?)
だが、マルタは静かにうなずいた。
「分かりました。紹介状にも問題ありませんし、明日から働いてもらえますか?」
「はい! ありがとうございます!」
(うまくいった……!)
アンナは胸を撫で下ろす。
「それでは、部屋へ案内します」
マルタが立ち上がった。
部屋は一階の奥にあった。狭いが、清潔に保たれている。他のメイドたちとの相部屋だった。
「ここがメイドの部屋よ。荷物を置いて、少し休んでいいわ。夕方に改めて説明をするから」
「はい、ありがとうございます」
マルタが去った後、アンナは部屋の中を見回した。ベッドが四つ。窓からは中庭が見える。
(ここが……私の新しい職場)
アンナは小さな荷物をベッドの横に置いた。窓辺に立ち、外を眺める。
(お嬢様……私、潜り込むことができました)
だが、これはまだ始まりに過ぎない。
(これから……情報を掴まないと)
その時、扉がノックされた。扉が開き、二十代半ばくらいの明るい表情の女性が顔を出した。
「こんにちは! 新しい子? 私はリゼット。よろしくね!」
「あ、はい! アンナです。よろしくお願いします!」
アンナは笑顔で応じた。リゼットも笑顔を返す。
「ようこそ! 分からないことがあったら、何でも聞いてね」
「ありがとうございます」
「それじゃ、夕方また会いましょう」
リゼットは手を振って、部屋を出て行った。
普通の人たちなのね──よく考えたら普通の貴族の屋敷だ。テルネーゼ侯爵家とたいして変わらない。だが、気は抜けない。焦らず馴染んでいかないと。
その夜、使用人の食堂で夕食となった。アンナは簡単な自己紹介をし、リゼットや他のメイドたちと一緒に夕食をとった。アンナはテルネーゼ侯爵家のことを隠しつつ、他のメイドからの質問に応じた。メイドたちは皆優しく、アンナを歓迎してくれているようだった。
その後は、翌朝も早いため、早めの就寝となった。皆が寝静まった後、アンナはベッドに横になりながら天井を見つめた。今日一日、何も分からなかった。いや、当然だ。初日なのだから──いろんな思いが浮かんでは消える。
(……焦らない。少しずつでいい)
アンナは自分に言い聞かせ、目を閉じた。
アンナが潜入して数日が経った。
「アンナは飲み込みが早いわね」アンナの仕事ぶりに、マルタは満足している様子だった。面接の時に感じた厳しさは薄れ、柔らかな雰囲気を醸し出している。
「アンナみたいな子が来てくれて、本当に助かったわ」
「本当ですか、ありがとうございます!」
だが、かすかな罪悪感を覚える。
「実はね、メイドが一人、急に辞めちゃって困ってたのよ」
「そうなんですか……何かあったんですか?」
「ええ、でもその前に……そろそろアンナも東棟の世話をやってもらうつもりなんだけれど」
「東棟……ですか?」
マルタは、少し言いづらそうに口を開いた。
「ええ。旦那様はすごく信心深くてらっしゃって、神官の方を月に1〜2回お呼びして説法を受けられるの。その時は誰にも邪魔されたくないらしくて、説法の時に旦那様の書斎がある東棟へ入るのは禁止されてるわけ」
屋敷へわざわざ神官を呼びつける? ──アンナは不自然さを感じた。
「で、その辞めた子なんだけれど、うっかり旦那様のお部屋の方へ行ってしまったらしいの。しかも、それを従者に見咎められちゃって。それが、旦那様の耳に入って、ひどくお怒りになられて……結局クビになっちゃったのよ、その子」
「え……そんなに厳しいんですか?」
「普段はお優しい方なんだけどねぇ。そういうところは厳しくて」
マルタはため息をついた。
「そんなにホイホイ良い子が来るわけないから、それくらいでクビにすることはないのにって思うんだけどね。あ、これは内緒よ」
「はい……分かりました。気をつけます」
「ごめんなさいね、怖がらせるつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、大丈夫です。教えていただいて、ありがとうございます」
(神官を呼んで説法って、やっぱり不自然よね。それに、それが本当だとしても、なぜそこまで神経質になるのかしら? 何か怪しいわね……)
翌日、アンナが廊下を掃除していると──遠くから馬車の音が聞こえた。
アンナはさりげなく窓の外を見た。黒い法衣の人物が館に入ってくる。遠目なので顔ははっきり見えないが、あきらかに神官だ。
(黒い法衣って、たしか偉い神官じゃなかったかな? 中央教会の神官とは別の方なのかな?)
白衣の神官が数名従っているが、黒衣の神官に恭しい態度を見せていることから、この黒衣の神官が高位であることがうかがえた。
これはラウルに報告しないと──アンナは箒の柄を握りしめた。
数日後のある日、メイド長がメイドたちに尋ねた。
「誰か、市場へお使いに行ける人いる?」
今日はラウルとの約束の日だ──アンナはすかさず手を挙げた。
「私が行きます!」
「あら、アンナ。助かるわ。じゃあお願いね」
メイド長は嬉しそうに笑った。
市場は、いつもと変わらず賑わっていた。アンナは買い物リストを手に、肉や野菜を買い込んでいった。だが、魚屋へと向かおうとしたところで足を止めた。
(あそこの女将さんには会えないわ……)
顔見知りの魚屋。テルネーゼ侯爵家のメイドとして、何度も通った店だ。
(バレたら大変ね)
アンナは別の魚屋へと向かった。
(知ってる人に会わないように気をつけないと)
万が一バレたら──考えたくない結末が脳裏をよぎる。アンナは平静を装い、周囲を窺いながら裏路地へと歩を進めた。
市場の裏路地──人通りの少ない薄暗い場所。約束の場所にラウルが待っていた。
「アンナさん!」ラウルが駆け寄ってきた。
「無事でしたか? 危ない目にはあってないですか?」
ラウルは心配そうにアンナを見た。
「はい、大丈夫ですよ。みんな良い人で」
「エミリアが心配してます。何かあったらすぐに逃げてくださいね」
「分かってます」アンナはうなずいた。
「それで……何か分かったことは?」
「はい。まだ一週間ですが、いくつか分かったことがあります」
アンナは周囲を窺うように声を低めた。
「デルナム卿は神官をよく呼んでいます。月に1〜2回くらい」
「神官を屋敷にですか?」
「はい。先日は黒い法衣の神官が来ました」
ラウルの表情が険しくなった。
「その神官、顎髭を生やしてませんでしたか?」
「遠目に見ただけなので、はっきりとは……でも言われてみたらそうかも」
「おそらく……それは枢機卿ですね。その神官が来たときは、特に注意しておいてください」
「分かりました。それと神官が来る時、東棟──デルナム卿の部屋がある場所には、神官が来た時は近づくなと厳命されています。以前、うっかりその近くに行ったメイドがクビになったそうです」
ラウルは腕を組んだ。
「そこまで……やはり、知られたくないんでしょうね。でも、無理に探らない方がいいですね。バレたら危険すぎます」
「そうですね。でも……もっと情報を掴みたいんです。お嬢様のために」
アンナの目は真剣だ。
「気持ちは分かります。でも、命あってこそですよ」
ラウルは真剣な表情でアンナを見た。
「焦らないで。少しずつでいい」
「……はい」
「次の連絡はまた一週間後、この場所で。それまで無事でいて」
「分かりました。では」
アンナは、買い物袋を持ってデルナム邸へと戻った。
それからさらに数日後のこと。夕方、仕事を終えたメイドたちが控室でお茶を飲んでいた。アンナも、リゼットや他のメイドたちと一緒に座っていた。
「アンナ、もう慣れた?」リゼットが尋ねた。
「はい! みなさんのおかげで」
アンナは笑顔で答えた。
別のメイドが紅茶をすすりながら言った。
「そういえば、今年の神託祭、楽しみよね」
「四年に一度だものね、今から楽しみよね」
リゼットも相槌を打つ。
「私はシャリューン王国のバザールが楽しみかな。珍しい物がたくさん見られるし」
「そうね。初日の夜にある神託の儀も神秘的だけど、バザールもいいわよね」
メイドたちが次々に口を開く。なにしろ四年に一度の、王国で最も大きな祭だ。メイドたちが春のうちから楽しみにするのも無理はない。
「でも今年は、神託の儀は見られそうにないわよ」
年配のメイドが口を挟んだ。
「今回は、神託の儀の夜に内輪のパーティーを開くらしいのよ。執事が話してたわ」
「えっ!? どうして?」
「なんでも、神官様や他の貴族の方々を招いて、慰労を兼ねたお祝いをするんですって」
「わざわざ、この日に? もう、私、神託の儀を見たかったのにー」
若いメイドが口を尖らせる。
「私たちも給仕で忙しくなるわね」
「まあ、まだ数か月先の話だけどね」
メイドたちは笑いながら話を続けた。だが、アンナは笑顔で相槌を打ちながら、内心では疑問を抱いていた。
(神託祭の夜にパーティー……なぜ?)
でも、表情には出さない。アンナは何事もなかったかのようにお茶を飲んだ。
(お嬢様……もう少しだけ待っててくださいね)
アンナは心の中でつぶやいた。潜入調査はまだ始まったばかりなのだ。




