第40話 春の里帰り
春の陽光が、馬車の窓から差し込んでくる。
エミリアは揺れる車内で、膝の上に置いた手を握りしめていた。王宮から侯爵邸への道のりは、ほんのわずかで、窓から見える景色も見慣れたものだ。だが、エミリアは前の一点を見つめていた。
(ラウルに会える……やっと相談できる)
ラウルからの手紙。『はっきりとした答えはないが、アドバイスできる。できるだけ早く、直接会って話を聞きたい』──その文面が頭から離れない。
ラウルは何かに気づいた。そして、それを手紙に書くのは危険だと判断した。ということは、相当に深刻な事態だということだ。
(神託祭まで、まだ数か月ある。でも……もう、あまり時間がないような気がするわ)
枢機卿の「聖別」。デルナムとの密会。図書館から消えた資料。そして、ラウルが掴んだ何か──全てが繋がろうとしている。
やがて、馬車が減速した。窓の外に見慣れた屋敷の門が見えてくる。
馬車から降りると、使用人たちが出迎えてくれた。メイド長が嬉しそうに微笑む。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま。みんな元気だった?」
エミリアは笑顔で応じながら、さりげなく周囲を見回した。いつもならここに──
(アンナがいない……?)
明るい笑顔で「お嬢様!」と駆け寄ってくるはずのアンナの姿がどこにもなかった。
「あれ、アンナは?」
メイド長は少し困ったような表情を見せた。
「はい、アンナでしたら……お母様のご病気で、しばらくお暇をいただいております」
「お母様が?」エミリアの胸に微かな違和感が走った。
(アンナのお母様が……ご病気……?)
メイド長が嘘を言っているようにも見えない。
「そう……それは心配ね。お大事にとお伝えしておいて」
「はい、かしこまりました」
エミリアは自室へ向かった。荷物を置き、窓を開ける。春の風が心地よく頬を撫でた。
(アンナ……本当にお母様の看病なのかしら? それとも……)
胸の奥にざわめくような不安が広がっていく。エミリアは身だしなみを整えると、急いで書庫へ向かった。
書庫の扉を開けると、窓辺に立つラウルの姿があった。
「ラウル!」
久々の再会。エミリアは嬉しそうに駆け寄ろうとして──ラウルの表情を見て、足を止めた。いつもの穏やかな笑みはそこになかった。どこか沈痛な表情をしている。
「……どうしたの? 手紙で『すぐに会いたい』って……何か分かったの?」
エミリアが尋ねると、ラウルは一度深く息を吸った。
「その前に……話さなきゃいけないことがあるんだ」
ラウルは机の前の椅子を引いた。
「座って。……聞いてほしい」
その真剣な様子に、エミリアは言われた通りに椅子に座った。ラウルも向かいの椅子に腰を下ろす。
ラウルは何度か口を開きかけて、その度に躊躇した。そして、ようやく──
「実は……アンナさんのことなんだけど」
エミリアの胸がとくん、と跳ねた。
「アンナ? やっぱり、お母様の看病じゃないの?」
「……ああ」ラウルは唇を噛んだ。
「あれ、嘘なんだ」
「え……?」
「アンナさんは今……デルナム侯爵邸に、メイドとして潜入している」
時が止まった。
エミリアは、ラウルの言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「……何ですって?」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「デルナム侯爵邸に……潜入?」
「ああ……」ラウルは目を伏せた。
「順を追って説明する。エミリアからの手紙を受け取った後、俺はまず親父に聞いた。信仰深い侯爵家について。そこでアンジェロ侯爵家、パルトローネ侯爵家、デルナム侯爵家の名前が出た」
エミリアは黙って聞いている。だが、その表情は、刻一刻と険しくなっていく。
「それから、アンナさんが市場で情報を集めた。エミリアの手紙に『市場などで、信仰深いお屋敷に仕える方々と親しくなれ』と書いてあったから」
「……続けて」
「アンナさんは、何人かのメイドと知り合った。そして、デルナム侯爵家がメイドを募集していることを知った」
エミリアの手が、膝の上で強く握りしめられた。
「その時、アンナさんが潜入するって」
「それで? あんたは何て答えたの?」
ラウルは顔を上げ、エミリアの目を見た。
「俺は反対した。『情報収集』と『潜入』は全く違う。エミリアも『慎重に、静かに、じっくりと』と書いていた。『潜入しろ』とは書いていないって」
「当たり前でしょう!」エミリアの声が書庫に響いた。
「だったら、なぜ止めなかったの!?」
立ち上がり、机へ乱暴に手をついた。その目には、怒りと不安が入り混じっている。
「俺は……」ラウルは言葉に詰まった。
「俺は、近々エミリアが里帰りするから、その時に相談しようと言ったんだ。でも、アンナさんは『募集がいつまであるか分からない。今動かないと手遅れになる』って……」
「それで!?」エミリアの声が震えている。
「それで、あんたは許可したの!?」
「アンナさんは『お嬢様に言ったら絶対に反対される。だから今動く』と言ったんだ。俺は……折れてしまった」
ラウルは深く頭を下げた。
「本当に申し訳ない」
エミリアは拳を握りしめた。怒りで身体が震える。
「私は『慎重に、静かに、じっくりと』って書いたのよ!」
声が裏返る。
「『潜入しろ』なんて一言も言ってない! 情報収集を頼んだだけなのに、どうしてそんな勝手な真似を!?」
「分かってる……」
「分かってないわよ! もし──もしアンナに何かあったら……!」
エミリアの目に、涙が滲んだ。
「どうするつもりだったの!?」
ラウルは何も言い返せなかった。ただ、じっと頭を下げたままだ。
書庫に、重い沈黙が降りた。
エミリアは椅子に座り直し、両手で顔を覆った。深呼吸を繰り返す。怒りと不安で胸が張り裂けそうだった。
「……アンナは、今、無事なの?」
ようやく絞り出した声は震えていた。
「ああ」ラウルが顔を上げた。
「週に一度、市場の裏路地で会って、報告を受けるようにしてる。今のところは無事だ」
「今のところ、ね……」
エミリアは顔を上げた。その目は赤く充血している。
「それで? 紹介状はどうしたの? まさか、テルネーゼ家の名前を使ったんじゃないでしょうね」
「それは、さすがに使えないと思った。エミリアの立場が危うくなるかもしれないから」
「じゃあ、どうやって?」
ラウルは、さらに言いづらそうに口を開いた。
「……マチルダ様に、相談した」
エミリアの表情が再び凍りついた。
「……何ですって?」
「マチルダ様に紹介状を書いてもらった。子爵家の名義で」
「マチルダまで巻き込んだの!?」
エミリアは再び立ち上がった。
「あんた、何考えてるの!? 彼女は何の関係もないのに!?」
「それは分かってる! でも、他に方法が──」
「方法がないなら、やめるべきだったのよ!」
エミリアの声が書庫中に響き渡る。
「マチルダは、私の大切な友人なのよ!? その人を、こんなことに巻き込んで!?」
ラウルは完全にうなだれた。
「本当に……申し訳ない」
エミリアは深く息を吐き、椅子の背もたれを掴んだ。
「……行くわよ」
「え? どこへ?」
「何言ってるの」
エミリアはラウルを睨んだ。
「マチルダのところに謝りに行かなくちゃ」
「今から?」
「当たり前でしょう。あんたがしでかしたことの尻拭いよ」
エミリアは書庫を出ようとして、振り返った。
「それと、ラウル」
「……はい」
「アンナに何かあったら、絶対に許さないから」
その言葉には冷たい怒りが込められていた。ラウルはただ、うなずくことしかできなかった。
子爵邸の門をくぐる時、エミリアの胸は複雑な想いでいっぱいだった。怒り、不安、そして申し訳なさ──それらが渦巻いて、まとまらない。
「エミリア様、ラウルさん。お待ちしておりました」
使用人に案内され、応接室へと通される。そこには、マチルダと子爵が座って待っていた。
「エミリア様」
マチルダが立ち上がり、微笑んだ。その笑顔はいつもと変わらず、温かく優しい。エミリアとラウルは話せる範囲で事情を説明し、二人の前で深々と頭を下げた。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
エミリアの声は震えていた。
「私たちの勝手なお願いで、マチルダさんまで危険なことに巻き込んでしまって……」
「顔を上げてください」
子爵が穏やかな声で言った。
「事情は娘から聞いています」
「でも……」
「エミリア様」
マチルダが近づいてきた。
「お顔をお上げになって」
エミリアがゆっくりと顔を上げると、マチルダの優しい瞳と目が合った。
「私は、自分の意志で協力しました」
「マチルダさん……」
「エミリア様のお役に立ちたかったんです。それに、ラウルさんもアンナさんも、あなたのために動いたのでしょう?」
マチルダは微笑んだ。
「大切な方のために行動すること自体は、間違っていないと思いますよ」と子爵もうなずいた。
「アンナさんとラウルさんも、あなたのために動いた。あまり二人を責めないであげてください」
エミリアの目に、涙が滲んだ。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
マチルダは優しくエミリアの手を握った。
「それより、アンナさんは無事なんですか?」
「はい。週に一度、市場で密会して報告を受けるようにしています。今のところは無事です」
「良かった」マチルダは安堵の表情を見せた。
「もし何かあったら、すぐに言ってくださいね。私でよければ、いつでもお力になります」
エミリアは、申し訳なさとも感謝ともつかない、複雑な笑みを浮かべた。
「本当に……マチルダは優しいわね」
「いいえ。友人として、当然のことをしているだけですわ」
子爵邸を辞去する時、エミリアは何度も振り返って頭を下げた。マチルダは最後まで優しく手を振っていた。
子爵邸から書庫への帰り道。二人は並んで歩いていた。夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めている。
「……ごめんね」エミリアが小さくつぶいた。
「言い過ぎたわ」
「いや」ラウルは首を振った。
「俺が悪い。エミリアの言う通りだ」
しばらく、二人は黙って歩いた。
「でも、行ってしまったものは、仕方がないわ」
「……エミリア」
エミリアはラウルを見た。彼女の目には強い決意が宿っていた。
「週に一度の連絡、必ず守らせて。それと、少しでも危険を感じたらすぐに撤退するよう伝えて」
「分かった」ラウルは真剣な表情でうないた。
エミリアは空を見上げた。夕焼けの中に一番星が輝き始めている。
(アンナ……無事でいてね)
心の中で強く祈った。




