第39話 千載一遇
ラウルの自室では、窓から差し込む柔らかな光が、机の上に広げられた便箋を照らしている。彼はエミリアからの手紙を何度も読み返していた。
(これは……暗号だ)
ラウルは唇を噛んだ。エミリアは直接的には書けない何かを伝えようとしている。「信仰深い侯爵家」を調べろ、ということか。「アンナに市場で情報収集させろ」という指示。そして「慎重に、静かに」──危険な相手だということだ。
(エミリア、本当に大丈夫なのか……)
ラウルは立ち上がり、父の書斎へと向かった。
オルフェンの書斎では、いつものように魔法陣の研究が進められていた。複雑な文様が描かれた羊皮紙が机の上に広げられている。
「親父、少し聞きたいことがあるんだけど」
ラウルの声に、オルフェンはペンを置いた。
「どうした?」
「信仰の厚い侯爵家って、誰か知ってる?」
息子の、突然の不思議な質問に首をかしげながら、オルフェンは少し考える素振りを見せた。
「そうだな、お抱え魔導士同士の付き合いもあるから、色々聞くが……アンジェロ侯爵家とパルトローネ侯爵家は有名だな。あとは……デルナム侯爵家かな。……それにしても、どうしたんだ? いきなりそんなことを聞いてきて」
「いや、ちょっと気になったんで」
「そうか。まあ、あんまり変なことに首を突っ込むなよ」
「ああ、ありがとう」
(アンジェロ、パルトローネ、デルナム……この名前、覚えておこう)
ラウルはメモを取りながらうなずいた。
その日の午後、ラウルは庭園の人目につかない場所でアンナを呼び出した。
「どうしたんですか、ラウルさん?」
ラウルはエミリアの手紙を見せながら説明した。アンナは真剣な表情で聞き入る。
「これは……たぶん暗号ですよね?」
「ええ。『信仰深いお屋敷に仕える方々と親しくなれ』って。つまり、メイドたちから話を聞き出せ、ということですね」
「分かりました。お嬢様のために、頑張ります!」
アンナは明るく笑った。だが、その目の奥には緊張が宿っていた。
「でも『慎重に』とも書いてある。危険な相手かもしれない。無理はしないでください」
「はい、気をつけます」
翌日、アンナは市場にいた。いつものように買い物をしながら周囲を観察する。魚屋の女将は顔見知りだから嘘はつけない。別の方法で情報を集めなければならない。
パン屋の前に列ができている。アンナはその列に並んだ。前に並んでいる三十代くらいの女性が、パンを買いながらパン屋の主人と雑談していた。
「うちの旦那様、また教会に寄付されるんですって」
「パルトローネ侯爵様は本当に信心深い方ですねえ」
信心深い──アンナの心臓が跳ねた。パンを買い終えた女性が店を出ると、アンナは小走りで追いかけた。
「あの、すみません!」
「はい?」女性が振り返る。
「パルトローネ侯爵家にお勤めなんですね。実は私、信仰の厚いお屋敷での働き方に興味がありまして……ちょっと、お話を伺えませんか?」
嘘ではない──お嬢様の指示だから。
女性は柔和な笑みを浮かべた。
「まあ、感心ね。メイドなの?」
「はい、アンナと申します」
「私はエリザ。いいわよ。よかったら少しお話ししましょうか」
二人は市場の一角のベンチに腰掛けた。
「うちの旦那様は本当に信心深くてね。毎週日曜日には必ず教会へ行くの。使用人も交代で連れていってもらえるのよ」
「素晴らしいですね。他にもそういうお屋敷ってあるんですか?」
「アンジェロ侯爵家も有名よ。寄付もたくさんされてるらしいし」
エリザは少し考える素振りを見せた。
「あと……そうね、デルナム侯爵家も教会の方々がよく出入りされてるって」
アンナはさりげなく反応した。
「デルナム侯爵……どんな方なんですか?」
「よく知らないけど……あまり表には出てこられない方みたい。奥ゆかしいのね。でも、教会との繋がりは深いって聞くわ」
「そうなんですね。参考になりました。ありがとうございました」
二日後、アンナは別のメイドとも知り合った。マリーという若い女性だ。
「デルナム侯爵家? ああ、あそこ今メイド募集してるわよ」
アンナの心臓が大きく跳ねた。
「本当ですか!?」
「ええ、斡旋所で見たもの。実は私も、今のお屋敷から別のお屋敷へ移ろうと思ってて。……今のお屋敷、お給金が少ないのよ」
マリーは苦笑いした。
「でもね……メイド仲間の間でも、あまり話を聞かないのよ、あの家」
アンナは丁寧に礼を言って別れた。
(デルナム侯爵家……メイドを募集している……お嬢様が警戒してる侯爵家かもしれない。もし潜入できたら……内部から情報が得られるわ)
その夕方、アンナは庭園でラウルに報告した。
「ラウルさん、デルナム侯爵家がメイドを募集してるんですって!」
ラウルの顔色が変わった。
「デルナム侯爵家が……」
オルフェンから聞いた三つの候補のうちの一つ。しかも、最も謎めいた家だ。
「これは絶好のチャンスです! 私が潜入します!」
「待って! エミリアはそこまでは言ってない!」
ラウルは声を荒らげた。
「『情報収集』と『潜入』は全く違う!」
「でも、お嬢様が『市場で信仰深いお屋敷に仕える方々と親しくなれ』って書いてきたのは……もしかして、こういう状況も想定してたんじゃないですか?」
たしかに……そうとも解釈できるが──ラウルは黙り込んだ。
(いや、それは俺たちの勝手な解釈だ。エミリアは『慎重に』と書いていた)
「近々、エミリアが里帰りしますよね。その時に相談しましょう」
「でも、募集がいつまであるか分かりません! それに……お嬢様に言ったら、絶対に反対されます」
アンナの瞳は強い意志を秘めていた。
「今、動かないと手遅れになります」
ラウルは長い沈黙の後、深いため息をついた。
「……分かった」
(これは……正しい判断なんだろうか)
「でも、条件があります。必ず安全策を講じる。週に一度、必ず連絡を取る。少しでも危険を感じたら、すぐに逃げ出して」
「はい! ありがとうございます、ラウルさん!」
翌日、アンナはメイド斡旋所を訪れた。
「デルナム侯爵家のメイド募集について伺いたいんですが」
受付の女性は帳簿を確認した。
「ああ、まだ募集中ですよ。ただし、推薦状か紹介状が必要です」
「というと?」
「前の雇い主からの推薦状、もしくは信頼できる貴族からの紹介状ですね」
(テルネーゼ侯爵家の名前は使えないわ。お嬢様の立場が危うくなるかもしれない。でも、このチャンスを逃すわけにはいかない)
アンナから紹介状が必要だと聞かされたラウルは、その夜、自室で便箋に向かっていた。ペンを手に取るが、なかなか書き出せない。
(失礼だとは分かっている……マチルダ様を巻き込むことになる。もし、エミリアが知ったら……)
それでも、ラウルはマチルダへ紹介状を依頼する手紙を書いた。
封筒に封をしながら、ラウルは唇を噛んだ。
(こんな図々しいお願い……そして、エミリアが知ったら、きっと怒るだろうな。でも、もう後には引けない)
手紙を翌日の朝送ると、午後にはマチルダから返信が届いた。すぐにいらしてとのことで、ラウルは早速子爵邸を訪れた。応接室ではマチルダが穏やかに微笑んでいた。
「ようこそ、ラウルさん」
「突然の無礼なお願い、申し訳ございませんでした」
ラウルは深々と頭を下げた。
「いいえ。先日のお礼もありますし」
マチルダはテーブルの上に封筒を置いた。
「父が書いてくれました」
ラウルは封筒を手に取り、もう一度深々と頭を下げた。重みを感じる──これでもう本当に後戻りできない。
「本当にありがとうございます」
マチルダは少し真剣な表情になった。
「ラウルさん……何か、危険なことに関わっているのでは?」
ラウルは言葉に詰まった。
「……申し訳ありません……言えないことなんです」
「エミリア様ではなく、私にお願いするということは、そういうことなんでしょうね……分かりました。私も詮索はいたしません。でも……約束してください。無茶はしないと」
「……約束します」
(できるだろうか……この約束を守れるだろうか)
「それから、もし何かあったら、すぐに私に知らせてください。エミリア様は王宮でしょう? すぐには動けないでしょうから、私でよければ微力ながらお力になります」
(マチルダ様……なんて優しい人なんだ。こんな人まで巻き込んでしまった。エミリアに何と説明すればいいんだ……)
ラウルはまた頭を下げた。
その夜、アンナはメイド長の部屋をノックした。
「どうしたの、アンナ?」
「実は……母の看病が必要になりまして。しばらくお暇をいただけないでしょうか」
メイド長は驚いた表情を見せた。
「まあ、それは大変ね……お母様、ご病気なの?」
「はい……急に具合が悪くなって」
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
心の中で何度も謝る。
「どれくらいかかりそう?」
「とりあえず、一ヶ月ほど……」
「アンナがいないのは残念だけど……でも、今ならお嬢様もいらっしゃらないし、残った者で仕事も回るから、ゆっくり看てあげなさい。お母様にもよろしく伝えてね」
メイド長の優しい笑顔がアンナの胸に突き刺さった。
「ありがとうございます……」
部屋を出ると、涙が溢れそうになった。
(メイド長……こんなに優しくしてくださって。私は、嘘をついて……お嬢様が知ったら……)
出発の前日、ラウルとアンナは庭園で最後の打ち合わせをした。
「週に一度、市場の裏路地で会おう」
「分かりました」
「無理はしないで。危険を感じたらすぐに逃げてください。エミリアも『慎重に』って書いてた。本当は──」
ラウルは言いかけて、口をつぐんだ。
(本当はエミリアに相談してからの方が……本当にこれでいいんだろうか。エミリアは『慎重に、静かに』と書いていた。『潜入しろ』とは書いていない。俺たちは勝手に解釈して、勝手に動いてしまった)
「アンナさん……」
「ラウルさん?」
「……いや、何でもないです」
ラウルは子爵家からの紹介状を手渡した。
「絶対に……無茶しないでください」
翌朝、アンナは小さな荷物を持って侯爵邸の門を出た。振り返ると、ラウルが心配そうに見送っていた。
アンナは手を振った。
(行ってきます、お嬢様。お嬢様のために、頑張ります。だから……許してください)
ラウルはアンナの背中を見つめ、拳を握りしめた。
(エミリアが里帰りしたら、アンナさんのことを報告しなければ。きっと……いや、間違いなく怒るだろうな。『なぜ事前に相談しなかったの! 私は潜入しろなんて言ってない!』って。それでも……俺たちは動いてしまった)
春の風が、アンナの髪を優しくなびかせる。彼女の手に握られた紹介状が風に揺れていた。
(これが……正しかったのかどうか。でも今さら後悔しても、もう遅い)
潜入捜査が始まった。




