第38話 決死の手紙
エミリアは王妃の私室で、いつものように朝食の支度をしていた。銀の食器を並べる手は慣れたもので、もう何も考えなくとも動く。
でも、頭の中は別のことでいっぱいだった。
(もう一週間も経ってしまったわ……)
この一週間、王宮は貴族の訪問で慌ただしかった。暖かくなると普段地方に住んでいる貴族たちが王都へやってくる。謁見の準備、夫人たちとのお茶会、晩餐会──王妃の予定が次から次へと入り、エミリアとサラは給仕や準備に追われ続けた。
図書館に行く暇もなかった。ジルベルトやサラと約束したのに。ラウルからの手紙を思い出す。
『はっきりとした答えはないが、アドバイスできる。できるだけ早く、直接会って話を聞きたい』──なにか確信めいたものがあるのだろう。
枢機卿が神託の杖に『聖別』を行って、もう一か月以上経つ。あの時、エミリアの脳内に響いた警告の声。『警告──不正アクセス検出』──杖に何か細工をされたかもしれないのに確かめることもできない。
春の里帰りまであと二週間。でも、そこまで待っていたら遅すぎる。そんな予感がした。
「エミリアさん、少しよろしいですか」
声に振り返ると、王妃付き侍女のリーダーであるマリアンヌが立っていた。
「今日、西棟の文書室に書簡を届けていただきたいのです。それと、王妃殿下あての書簡の整理もお願いします。それが終わったら、王太子殿下の方が手薄なので、お部屋にもお茶をお持ちして、あと──」
山のような仕事が舞い込んだ。侍女たちの、春の里帰りの影響が出始めている。王宮の侍女の数が普段より少ないのだ。
「……承知しました」
エミリアの心が沈む。今日こそ図書館に行くつもりだったのに。でも、侍女の務めを放棄するわけにはいかない。
「では、お願いしますね」
マリアンヌが去った後、エミリアはため息をついた。
廊下に出るとサラとすれ違った。「サラ」小声で呼び止めた。
「今日は図書館に行ける?」
「はい、午後なら時間が取れそうです」
「ジルベルト殿下にお伝えしておいて。私は……マリアンヌさんに頼まれた仕事があって」
サラはエミリアの残念そうな表情を見て、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。私が調べてきます」
「ごめんなさい。お願い」
サラの背中を見送りながら、エミリアは唇を噛んだ。
午後。仕事を終えたサラは、王宮図書館へと向かった。静謐な空気が漂う館内。足音さえ立てないよう、そっと歩く。
(エミリア様のお役に立たなければ)
通い慣れた図書館が、今日はいつもと違う空気を漂わせていた。サラは喉の奥が渇くのを感じながら、歩を進めた。
閲覧室に入ると、窓辺に黒髪の青年が立っていた。
「サラさん」ジルベルトが振り返る。
「殿下。お待たせしてしまって申し訳ございません」
「いえ、私も今来たところです。エミリアさんは?」
「申し訳ございません。本日は別の所用で……」
ジルベルトの表情がわずかに変わったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうですか。では、二人で進めましょう」
さらに奥に進む。歩きながら、ジルベルトがため息をついた。
「一週間も空いてしまいましたね。実は私も、いろいろと公務に追われていて」
「殿下もですか……」
「ええ。末の王子とはいえ、王室行事は免れませんからね」
特別書庫の扉を開ける。古い羊皮紙の匂いが鼻をつく。
前回、『聖遺物の記録』という古書を見つけた書架へ向かう。続きを読もうと、ジルベルトは書架を見上げた。そして──
「……?」ジルベルトは首をかしげた。
書架に不自然な空白があった。先日はたしかに並んでいた。今は、そこがぽっかりと空いている。
「どうかなさいましたか?」
サラが歩み寄る。
「ここ……たしかにあったはずなんですが」
ジルベルトは書架に手を伸ばした。奥の方に、かすかに埃が積もっている。でも、本が置かれていた部分だけ埃がない。
「先日の本ですか?」
「ええ、そうです。聖遺物についてもう少し調べたかったので」
「どなたか持ち出されたのでしょうか?」
「いや、ここにあるものは持ち出し禁止のはずです。そもそも、許可がないと入れません」
二人は顔を見合わせた。
「司書に聞いてみましょう」
閲覧室に戻り、司書を呼んだ。初老の男性が恭しく頭を下げる。
「あの、特別書庫の聖遺物関連の書架ですが……」
サラが尋ねると、司書は「ああ、あそこでしたら……」と言いよどんだ。
「実は、数日前に教会の方々が来られまして」
「教会?」
ジルベルトが身を乗り出す。
「はい。『調査のため』と、資料を何冊か持ち出されました」
サラの心臓が跳ねた。
「いつのことですか?」
「たしか……三日前の午後だったかと」
三日前。ちょうど、自分たちが忙殺されていた頃だ。
「どのような方々でしたか?」
ジルベルトの声は平静だったが、その瞳の奥に鋭い光が宿る。
「神官の方が数名です」
神官──サラは息を呑んだ。
「持ち出した資料の記録は?」
「こちらに」
司書が台帳を開く。そこには『聖遺物関連資料一式』とだけ書かれていた。具体的な書名はない。
「正式な手続きでしたので……」
「分かりました。ありがとうございます」
司書は申し訳なさそうに頭を下げ、ジルベルトの礼を受けると作業へ戻っていった。
二人きりになった閲覧室。
「これは……」サラはジルベルトを見つめた。
「証拠隠滅、ですね」
ジルベルトの声が静かに響く。
「聖別が行われたのは一か月ちょっと前」
「はい」
「一週間前、三人でここで話し合った」
「その直後、教会が資料を持ち出した……」
サラの背筋を冷たいものが走る。
「でも、私たちが調べていることを、どうやって……?」
「王宮には目と耳が多い。気づかれていた可能性があります」
沈黙が二人を包んだ。
サラは拳を握りしめる。
(エミリア様にすぐ伝えなければ)
「殿下、このことをエミリア様に……」
「ええ。すぐに伝えましょう」
夕方。文書室と王太子の部屋を回り、ようやく戻ってきたエミリアは、廊下でサラに呼び止められた。
「エミリア様、お疲れ様です。少しよろしいですか」
サラは深刻な表情を見せていた。
「どうしたの?」
「お話があります。こちらへ」
二人は倉庫へ向かう回廊の一角へ移動した。普段誰もいない静かな場所。そこにジルベルトが待っていた。
サラが報告を始めた。書架の空白。神官による資料の持ち出し。三日前という絶妙なタイミング──エミリアの顔色が変わっていく。
「資料が……持ち出された?」
「はい」
ジルベルトが続けた。
「正式な手続きを踏んでいます。つまり、表向きは問題ない」
「でも、このタイミングは……」
「偶然ではないでしょう」
エミリアの胸の奥に、黒いものが染み出す。
「つまり、我々の動きは把握されていると考えてよいかと」
「でも、回りくどくありませんか?」
エミリアの疑問に、ジルベルトは首を振った。
「いえ、さすがに王妃付きの侍女であるあなた方に、直接手を出すことはしないでしょう。しかし、『見ているぞ』と、あからさまな方法を取っているように思えます」
「そんな……」
王宮でこれ以上動くのは不可能なのか。今の状況でラウルと無理に会おうとすると、相手もより強固な対応を考えてくるだろう。だが、もう待てない。
ラウルに、デルナムと枢機卿の関係をそれとなく伝えることはできないか。エミリアは手紙の内容を考えだした。
夜、エミリアはラウルへの手紙を書いていた。もし読まれても大丈夫なように、慎重に言葉を選びながら筆を走らせる。
『ラウルへ
先日はありがとう。もうすぐ春の里帰りです。その時にでもお話しましょう。
さて、王宮では信仰深い高位の方々が、神官の方々と親しくされているのをよく見かけます。特にある侯爵家の方は、教会の方々と熱心にお話しされているようです。私も「二つ持ち」という神に愛された力を持つ身。信仰について、もっと学ばねばと思いました。
ラウルも魔導士でしょう? お父様の繋がりで、そのような信仰深い方々について、何かお話を聞く機会があるかもしれませんね。
アンナにも信仰の大切さを伝えてください。市場などで、信仰深いお屋敷に仕える方々と親しくなれば、いろいろと学べることがあるかもしれません。
しかしながら、信仰の道は慎重に歩むべきもの。けっして無理されぬよう、静かに、じっくりと進んでください。──エミリア』
暗号めいた内容になってしまうもどかしさはあった。だが、念には念を入れる必要がある。気心の知れたらラウルだったら、きっと理解できる。
お願い、ラウル──エミリアは胸に手を当てた。




