<閑話6> 失われた中立
春の午後、王宮の定例会議に出席するため、ベルナードは重厚な扉を押し開けた。会議室には既に何人かの重臣が着席している。いつもと変わらぬ光景。だが──何かが違う。
「ベルナード卿、これはこれは」
王太子派の筆頭格であるヴェルネ侯爵が、やけに親しげに声をかけてきた。
「ご息女のご活躍、素晴らしいですな。王妃殿下もいたくお喜びとか」
以前はこれほど馴れ馴れしくはなかった。むしろ、適度な距離を保った礼儀正しい挨拶だった。
「……お心遣い、痛み入ります」
ベルナードは短く応じ、自分の席に着いた。周囲の視線が妙に好意的だ。王太子派の貴族たちが、まるで同志を見るような目でベルナードを見ている。
(何か……空気が変わった)
会議が始まった。本日の主要議題は北部辺境の交易路整備について。意見を求められたベルナードは、普段どおり中立的な立場から実務的な意見を述べた。
「なるほど、ベルナード卿のご意見はいつも的確ですな」
ヴェルネが満足げにうなずく。
その時だった。
「──その件は」第二王子派のフォルバン伯爵が、鋭い声で割って入った。
「一方のご意見を優先されるということですか?」
伯爵の視線が意味ありげにベルナードを捉える。
「我らの意見は聞き入れられないと?」
会議室の空気が凍りついた。他の貴族たちの視線が一斉にベルナードに集中する。
(……私をそう見ているのか)
これまで、ベルナードはどちらの派閥にも属さず中立的立場を保ってきた。だからこそ、双方から一定の敬意を払われていた。それが今、第二王子派は明らかにベルナードを〝敵〟として見ている。
「フォルバン卿、それはいささか言葉が過ぎますな」
議長役の宰相が伯爵をたしなめた。第二王子派の貴族たちは憮然としている。
宰相は穏やかに、しかし毅然とした態度で議事を進めた。だがベルナードの胸の奥には重い石が沈んだような感覚が残った。
会議が終わり、ベルナードは足早に廊下へ出た。だが、そこでも異変は続いていた。
すれ違う第二王子派の貴族たちが明らかに態度を変えている。以前は丁寧に挨拶していた子爵が、視線を逸らして通り過ぎる。これまでそれなりに会話を交わしていた伯爵が冷たい一礼だけで立ち去る。誰も話しかけてこない。
(これは……まるで敵を見るような目だな)
廊下の先でも第二王子派の貴族たちが話していた。ベルナードの姿を認めると彼らは会話を止め、冷ややかな視線を向けてきた。一人が何か小声で言うと他の貴族たちも一斉にこちらを見る。そして、わざとらしく別の方向へ歩き去った。
(なぜ、こうなった……)
中立という立場はもう通用しないのか。娘のあの一言が、これほどまでに──ベルナードは肩を落とした。
夕刻、ベルナードは自室で革張りの椅子に深く身を沈めた。机の上には先日部下から提出された報告書が置かれている。それは例のお茶会の一件だった。
報告書によると、エミリアが王妃主催のお茶会で、あろうことか侍女の立場で客人に楯突いたらしい。さらには王妃がそれをかばい、結果的に相手に恥をかかせてしまった。しかも、その相手はルーエン伯爵夫人──第二王子派の中心人物だった、とある。
貴族社会において、公衆の面前で恥をかかせる行為は禁忌だ。ルーエン伯爵は騎士団の副団長でもあり、元騎士のベルナードとは知らぬ仲ではないが、さすがに謝って済む話ではない。伯爵は騎士団の職務があるため定例会議には出席しない。だが、王宮で鉢合わせしたとき、何と言えばよいのか──ベルナードは頭を抱えた。
(そもそも、侍女が客人の会話に口を挟むなど言語道断だ。普通なら即座に処分されてもおかしくない。だが──王妃殿下がエミリアを支持された)
結果としてエミリアは守られた。同時に、テルネーゼ侯爵家は完全に王太子派の一員とみなされた。中立という立場は失われたのだ。
家族の反応を思い出す。ディアーヌは「エミリアは勇気のある子ですね」と微笑んだ。クロードは「妹を見直しました」と珍しく感心した様子だった。
(なんと呑気なことを──王宮での立ち居振る舞いが政治生命に直結することを誰も理解していない。ディアーヌも知らぬはずはないだろう。クロードに至っては跡継ぎなのだぞ。騎士の思考にすっかり染まっているではないか!)
ベルナードは血脈至上主義者である。だがそれは、貴族としての一般的な信念であり、伝統への敬意だ。けっして政治的な派閥争いに加担したかったわけではない。
自分は王に忠誠を誓っている──だからこそ『王派』だ、と自負していた。王太子派と第二王子派の争いにはできる限り距離を置いてきた。それが、エミリアの一言で全て崩れた。
伝聞によると、文脈としては別に間違ったことを言ったわけではない。むしろ、正しいことを言った。ソフィア妃は不当に批判されていた。エミリアは、その不当な批判に立ち向かった。それは理解できる。
(あの子は……私より強い)
「血脈だけが全てではない」──それは、ベルナードの考えに真っ向から対立する言葉だった。だが、ベルナードは怒る気になれなかった。心のどこかで、それは正しいのかもしれないという思いがあった。
口元がわずかに緩むが、すぐに表情を引き締めた。
(いや、認めるわけにはいかない)
──扉がノックされた。
「あなた、お疲れのようね」
珍しくディアーヌが入ってきて、そっと紅茶を置いた。夫の様子を察したのだろう。
「……ああ」
「エミリアのことで、お悩みですか?」
ディアーヌの優しい声が、胸に沁みた。
「私は……中立でいたかった。どちらの派閥にも属さず、ただ王に仕えたかった。それが──娘一人の発言で台無しだ」
ディアーヌは、ソファーにそっと腰掛けた。
「エミリアは間違ったことはしていないわ。むしろ、正しいことをした。あなたもそう思っておられるのでしょう?」
ベルナードは言葉に詰まった。妻の言葉が自分の心の奥底を突いている。
「派閥に巻き込まれるのは不本意かもしれません。でも、娘が勇気を持って行動したことは誇りに思ってもいいのではないかしら?」
ディアーヌは間を置いて、続けた。
「あなたは、エミリアが『ノースキル』だと思って冷たくしてきた。私だってそう。でも、あの子は誰よりも強く、正しい道を選んだのよ」
ベルナードは静かにうなずいた。
(そうだな……あの子は、間違っていない)
ただ──
(私には、まだ認められない)
ディアーヌは退室するとき、ベルナードの肩に優しく手を置いた。その温もりに少しだけ救われる。
ディアーヌが去った後、ベルナードは窓辺に立った。春の夕暮れ。中庭に咲き始めた花が、柔らかく朱に染まっている。
(エミリア……おまえは、私に新しい道を示したのかもしれんな)
机に向かい、便箋を取り出す。だが、ペンを持つ手が止まった。いざとなると何も書けない。
(もうすぐ、エミリアが里帰りしてくる)
春の里帰りまで、あと半月ほど。久しぶりに娘と顔を合わせることになる。
(その時は……何も言うまい)
父として言うべきことは山ほどある。王宮での立ち振る舞いのこと、派閥のこと──だがベルナードは、今の自分にその資格があるのか、と自嘲した。
(あの子は、私よりも強く正しい道を選んだ)
それを認めたくない自分がいる。同時に、誇らしく思う自分もいる。矛盾した感情を抱えたまま、ベルナードは窓の外を見つめた。




