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【第3部更新中】「ノースキル」の烙印を押された侯爵令嬢、実は世界の管理者(アドミニストレーター)でした  作者: 柊ユキヤ
王宮編

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第35話 泥をかぶる

 王妃主催のお茶会での一件から数日が過ぎた。エミリアを取り巻く空気は、あの日を境にがらりと変わった。


 王太子派の侍女や貴婦人たちはエミリアを見かけると称賛の眼差しを向け、時には「よくぞ言ってくださいました」と小声で囁いてくることさえあった。

 一方で、第二王子派の者たちはあからさまに彼女を避け、遠くから侮蔑と敵意の入り混じった視線を投げつけてくる。


 王妃付きの侍女としてただ静かに務めを果たすつもりだったのに。気づけば、自分は派閥争いの渦中に立たされていた。エミリアは否応なく、派閥争いの象徴の一人のように扱われ始めていた。


 ソフィアを守れたことに後悔はない。王妃も「気にすることはない」と言ってくださった。でも──


(私のしたことは、侍女としての本分を逸脱していたんじゃないかしら……)


 そんな自問自答を繰り返しながらも、エミリアは日々の業務を淡々とこなしていた。


 その日、エミリアは王妃から預かった書状を届けるため、王宮の東棟にある書記官室へと向かっていた。午後の日差しがステンドグラスを通して床に幾何学的な模様を描く、人通りの少ない回廊。自分の足音だけが静かに響く空間は、思考にふけるにはうってつけだった。


(これから、どうなっていくのかしら……)


 そんなことを考えていた時、前方から数人の侍従を伴った人影が近づいてくるのが見えた。金色の髪が陽光を反射して輝いている。第二王子、ジュリアンだった。


 エミリアの心臓が跳ねた。咄嗟に歩みを止め、壁際に寄って深く頭を下げる。できるだけ目立たないように、存在感を消して息を潜めた。

 彼とは極力関わりたくなかった。お茶会の一件で、彼の派閥の中核であるルーエン伯爵夫人に恥をかかせてしまったのだ。どんな嫌味を言われるか分かったものではない。


 しかし、ジュリアンはエミリアの前で、こともなげに足を止めた。


「……下がっていろ」


 短く、しかし有無を言わせぬ響きで侍従たちに命じる。その声色はいつもの軽薄なそれとは明らかに違っていた。侍従たちは一礼して足早に先へと進んでいく。

 回廊にはエミリアとジュリアンの二人だけが取り残された。


 静寂。ステンドグラスを通して差し込む光だけが床に色彩の影を落としている。胸の鼓動が妙にはっきりと感じられた。


 ジュリアンはエミリアのすぐそばまで歩み寄ると、その身を屈めた。そして──


「侯爵令嬢」


 その声は低く、周囲に聞かれることを警戒しているのが明らかだった。


「あまり目立つなと言ったはずだ」


 エミリアが驚いて顔を上げると、鉛色の冷たい瞳が、間近で鋭くこちらを見据えている。いつもの軽薄な笑みはなかった。代わりにあるのは、真剣な、どこか切迫した何かだった。


 ジュリアンの視線が一瞬、回廊の両端へと向けられる。誰も来ていないことを確認すると、彼はさらに声を潜めた。


「……泥をかぶる役目は、何人もいらない」


 その声にはいつもの軽薄さのかけらもなかった。まるで深い泥沼に沈んでいく者の諦観のような、どこか自嘲的な響きさえ含まれていた。


 エミリアの背筋を冷たいものが走った。「泥をかぶる」──その言葉の不吉な響きが、胸の奥に重く沈んでいく。


(この人は……何を言っているの?)


 ジュリアンの瞳の奥をエミリアは初めてまともに見た気がした。その灰色の瞳には苦悩と決意が絡み合った何かを宿しているように見えた。──これは、軽薄な第二王子という仮面の下に隠されている、本当の顔ではないのか。


「殿下……」


 エミリアが何かを問い返そうとした瞬間、ジュリアンはすでに身を起こしていた。


「では、職務に邁進されよ」


 それは、これ以上の詮索を拒絶する響きだった。次の瞬間、彼は背を向け悠然と歩き出した。あっという間にその姿は回廊の角へと消えていく。


 一人残されたエミリアはその場に立ち尽くすしかなかった。身体が動かない。ジュリアンの言葉が頭の中で何度も反響している。


(泥をかぶる役目……?)


 言葉の意味が分からない。誰のことを言っているのか。一体、何を警告しようとしているのか。

 先日の練兵場での鋭い視線、「あまり目立つな」という忠告。そして今日の警告──彼の軽薄な態度の裏に隠された本心がまるで読めなかった。


 ただ一つ確かなのは、その言葉がエミリアの胸に鉛のような重い不安を残していったことだけだった。


 侍女の控室に戻ったエミリアは、サラに事の次第を打ち明けることにした。


「……ということがあって」

「ジュリアン殿下が、また忠告を……?」


 話を聞いた彼女は眉をひそめて腕を組んだ。


「『泥をかぶる役目は何人もいらない』……」


 サラは小声でその言葉を繰り返し、難しい顔をした。


「まるで、殿下ご自身のことをおっしゃっているようにも聞こえますが……」

「そうなの。まるで、殿下ご自身が何か良くない役目を引き受けているみたいで……」

「ジュリアン殿下の真意は誰にも分かりませんわね」


 サラは溜息をついた。


「かつては王太子殿下ともご兄弟の仲は良好で、それは聡明でいらっしゃったと聞きます。それが、ここ数年ですっかり今のようなお振る舞いに……何か、深いお考えがおありなのかもしれませんが」


 サラにも分からないのであれば自分に分かるはずもなかった。エミリアは頭の中に渦巻く疑問を振り払うように首を振った。


 その時だった。控室の扉が勢いよく開き、甲高い声が響いた。


「あなたねッ!」


 そこに立っていたのは、案の定イルダだった。数人の侍女を引き連れた彼女は嫉妬と怒りに顔を紅潮させ、まっすぐにエミリアを睨みつけている。


「今、見ていたわよ! ジュリアン殿下と、あの回廊で二人きりで何を話していたの!?」


 イルダの瑠璃色の瞳が嫉妬に燃えている。


「人気のない所で、あんなに親しげに耳打ちされるなんて、どういう関係なのよ! まさか、本当に殿下の妃を狙っているんじゃないでしょうね!?」


 彼女の激しい剣幕に、控室にいた他の侍女たちが面白がるような、あるいは怯えたような視線を向けてくる。


(ジュリアン殿下はあんなに周囲を警戒していたのに……どこから見ていたの?)


 だが、エミリアは冷静に答えようとした。


「何も。ただ、偶然お会いしただけよ」

「嘘おっしゃい!」


 イルダの声がヒステリックに裏返る。


「それに、お茶会のこともお母様から聞いたわよ!」


 イルダは一歩、エミリアに詰め寄った。その瞳には涙すら浮かんでいる。


「お母様……みなさんの前であんな恥をかかされて……! ルーエン伯爵家の誇りが、あなたのせいで傷ついたのよ!」


 その声には、怒りだけでなく切実な悲しみが混じっていた。エミリアは初めてイルダの別の顔を見た気がした。


「イルダさん、それは……」

「侍女の立場もわきまえず、よくもお母様に恥をかかせてくれたわね!」


 イルダの声が震える。


「血脈が全てじゃないですって? 『二つ持ち』だからって、いい気になって……! あなたは伝統あるこの国の貴族の誇りを踏みにじったのよ!」


「違うわ!」エミリアも声を荒らげた。


「私はソフィア妃殿下が不当に貶められるのが許せなかっただけ。血脈を否定したつもりなんてないわ!」


 しかし、嫉妬と怒りに我を忘れたイルダにその言葉は届かない。

 もっとも、あの場で侍女らしからぬ振る舞いをしたことは自分でもよく分かっていた。たしかに軽率だったのかもしれない。でも──


(それでも、私は後悔していない)


「言い訳なんて聞きたくない!」


 イルダの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。


「あなたはジュリアン殿下に取り入って、王太子派にも良い顔をして……本当に計算高い女ね! 私は……私はただ……」


 言葉が途切れる。イルダは唇を噛み締め、顔を背けた。


「イルダ様、おやめください!」


 見かねたサラが二人の間に割って入った。しかし、イルダの取り巻きの侍女たちがサラの行く手を阻む。


 これ以上、ここで騒ぎを大きくするのは得策ではない。エミリアは唇を噛み締めると、イルダの横をすり抜け、控室を後にした。

 背後から「逃げるの!? 卑怯者!」という罵声が聞こえたが、目を伏せ、振り返らなかった。


 夜。エミリアは自室のベッドに腰掛け、ひとり静かに考えを巡らせていた。

 ジュリアンの謎めいた忠告。イルダの激しい嫉妬と怒り、そして涙。自分の行動が事態をどんどん複雑にしてしまっている気がする。


(元はといえば、私のこの力が原因よね……)


 この力がなければ『二つ持ち』などという噂も立たず、イルダに目をつけられることも、ジュリアンに興味を持たれることもなかっただろう。そもそも王宮に仕えることもなかったかもしれない。

 そして何より、この力を自分で制御できないことが一番の問題だった。このままでは、またいつか無意識に力が発動し、さらに厄介な事態を引き起こしかねない。


(やっぱり……ラウルに相談するしかないわね)


 春の里帰りを待っていては遅すぎる。以前、警告の声を聞いた後に手紙を書こうと決意したことを思い出した。今度こそもっと具体的にこの状況を伝えなければ。そして──


(ジルベルト殿下にも、そろそろ相談しないと)


 ジュリアンの警告。枢機卿の怪しい動き。デルナム侯爵との密会。バラバラに見えていたピースが少しずつ繋がり始めている気がする。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと窓の外へ視線を向けた。



   ◇ ◇ ◇



 エミリアはこの数日、空いた時間で密かにデルナムの動きを追っていた。デルナムと枢機卿のことが、どうにも頭から離れない。


 デルナムは会議や会合が終わった後、特に隠す素振りも見せず、よく反王太子派の貴族と話していた。もっとも、王太子派の貴族たちも似たようなものなので、この行動が何かを企んでいるものとは限らない。


 ある夜のこと。エミリアは、デルナムが回廊の方へ向かうのを見かけた。今日の会議が終わってずいぶん時間が経つ。こんな時間まで何を? ──物陰に身を隠しながら、後をつけた。


 中庭に面する回廊。篝火に照らされたその一角に、人影が見えた。エミリアの心臓が跳ねる。


(あれは……!)


 かなり離れた場所だったが、篝火がうっすらと二人の顔を照らしている。相手は、黒い法衣をまとった枢機卿ロイデンだった。エミリアは身を潜め、目を凝らす。


 二人は何かを親しげに語らっているようだった。枢機卿が身振り手振りで何かを説明している。デルナムが大きく頷く。

 やがて、デルナムが手を差し出した。枢機卿が固くその手を握り返す──その瞬間、まるで取引が成立したかのように、二人とも満足げな笑みを浮かべた。


 篝火に照らされた、その不敵な笑み。エミリアの胸に冷たい予感が走った。


(何なの……? 一体、何を企んでいるの?)


 以前見た時は、ただ不審に思っただけだった。だが、ピースが繋がり始めている今、それは大きな意味を持つ。


 二人の人影が回廊の闇へと消えていく。エミリアは物陰に立ち尽くしたまま、その方向を見つめ続けた。


(そろそろなんて言ってられない。ジルベルト殿下に相談しないと……でも、証拠がない)


 だが、胸の奥であの声が蘇る。『警告──不正アクセス検出』──神託の杖に対する、何らかの不正の可能性。


 神託祭で何かが起こる──証拠はなくとも、確信はあった。


 エミリアは胸の内に、何か陰謀の歯車が回り出す感覚を覚えた。

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