第30話 神託の杖
年が明けて一か月、王宮の朝はまだ冷え込みが厳しい。エミリアは王妃の私室でいつものように朝の準備を整えていた。窓の外では、冬の陽光が中庭の霜を銀色に輝かせている。
「エミリアさん、ちょっとよろしいですか」
王妃付き侍女のリーダー、マリアンヌが小声で呼びかけてきた。振り返ると、彼女はいつになく困った表情を浮かべている。
「ソフィア妃殿下付きのニーナさんが風邪でお休みになってしまって。今日一日、エミリアさんが代理でソフィア妃殿下の方へ行っていただけますか?」
エミリアの心臓が跳ねた。王太子妃ソフィア──秋の神託祭で巫女役を務めることになった、王宮で今、最も注目を集める人物の一人だ。彼女とは王宮入りした際に挨拶を交わしたきりになっていた。
「私でよろしいのですか?」
「他の侍女は皆手が空いていないの。それに……」
マリアンヌは声をひそめた。
「王妃殿下も、あなたなら安心だとおっしゃって」
王妃がエミリアを見送る際、優しく微笑んだ。
「ソフィアさんをよろしくね」
その言葉の意味を測りかねながら、エミリアはソフィアの私室へと向かった。
扉をノックすると、中から穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ」
部屋に入ると、窓辺に立つソフィアの姿があった。美しい金髪と透き通るような白い肌が朝日を受けて眩しいくらいだ。彼女は振り返ると少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「あら、今日はエミリアさんが?」
「はい、ニーナさんがお風邪とのことで、本日は私が……」
「まあ、嬉しいわ。実はもう一度、ゆっくりお話ししてみたいと思っていたの」
ソフィアの飾らない態度にエミリアの緊張が少しほぐれた。お茶の準備をしながら二人は他愛のない会話を交わす。しかし、ふとした瞬間、ソフィアの表情に影が差した。
「エミリアさん、私、正直に言うと……怖いの」
カップを置く手が、かすかに震えている。
「秋の神託祭まであと半年以上あるけれど、今から不安で仕方ないの。私の血脈は弱いから……本当に儀式がうまくいくか」
ソフィアは窓の外を見つめた。
「王妃殿下は私を推薦してくださった。でも、貴族たちの視線が日に日に厳しくなっているのを感じるわ。『血脈の弱い者に巫女が務まるのか』って」
エミリアは静かにソフィアの手に自分の手を重ねた。
「殿下、まだ時間はたくさんあります。準備を重ねていけば、きっと大丈夫です」
「でも……」
「血脈だけが全てじゃないと思います。殿下の優しさと誠実さは、きっと神様にも伝わります」
ソフィアは驚いたようにエミリアを見つめ、それから満面の笑みを見せた。
「ありがとう、エミリアさん。あなたみたいな人が侍女でいてくれて、本当に心強いわ」
しばらく穏やかな時間が流れた後、ソフィアが突然立ち上がった。
「そうだ、気分転換に神託の杖を見に行かない?」
「神託の杖を?」
「ええ、普段は見られないけれど、巫女として認められた今なら許可も得やすいはずよ。秋に向けて儀式で使う杖がどんなものか、早めに見ておきたいの。というか、興味ない?」
エミリアは少し迷ったが、ソフィアの期待に満ちた表情を見てうなずいた。
王宮の奥深く、普段は立ち入ることのできない区画へと二人は向かった。廊下を進むにつれ装飾は荘厳なものになり、警備の騎士の数も増えていく。
「妃殿下、どちらへ?」
警備の騎士が恭しく尋ねる。
「神託の杖を拝見したいのです。巫女として、秋に向けて心の準備をしておきたくて」
騎士は一瞬躊躇したが、ソフィアの立場を考慮してか、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました。ご案内いたします」
保管庫は想像以上に厳重な造りだった。重厚な扉には複雑な紋章が刻まれ、魔法の封印が淡く光を放っていた。
騎士が特殊な鍵を使って扉を開けると、中には数々の聖遺物が安置されていた。いずれも王家に代々伝わる宝物で、法王国から特別に管理を認められたものばかりだ。
その奥、最も厳重に守られた場所に一つの箱があった。
「こちらが神託の杖でございます」
騎士が恭しく箱を開ける。中から現れたのは、見る者を圧倒するような美しい杖だった。
白銀に輝く杖身は、まるで月光を固めたような輝きを放っている。先端には透明な宝珠がはめ込まれ、その表面には判読できない古代文字らしき刻印が刻まれている。
杖を見つめた瞬間──
《ステータス確認……特定ユニット》
脳内にあの声が響いた。同時に、杖の表面に淡い白銀の文様が浮かび上がる。しかし、それは自分にしか見えていないようだった。
(これは……ただの聖遺物じゃない!?)
心臓が早鐘を打つ。ただ見ただけなのに、あの声が聞こえた……この杖は自分の能力と深い繋がりがある──そう確信した。
「本当に美しい杖ですね」
努めて平静を装った。
「そうね。でも、こうして実物を見られて良かったわ。少し、覚悟ができた気がする」
ソフィアは満足そうにうなずいた。
保管庫を後にして廊下を歩いていると、前方からあの栗毛の侍女──イルダが、数人の侍女とこちらへ向かっていた。彼女たちはソフィアに気づくと脇に寄り、礼をとった。
だがすれ違いざま、イルダはエミリアにだけ聞こえるようにつぶやいた。
「もう王太子妃殿下と仲良くなって、取り入ろうとしているのかしら?」
振り返ると、イルダはこちらを睨んでいた。その視線はあいかわらず挑戦的だ。
「イルダさん、それは……」
ほんと、この人って所構わずね──内心、ため息をついた。
「エミリアさんは私の大切な友人でもあるのよ」
ソフィアが凛とした声で割って入った。だが、表情は険しい。
「口を慎みなさい」
ソフィアがたしなめるとイルダは一瞬怯んだが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ふん、まあいいわ。秋までには色々なことが起きるかもしれないわね」
意味深な言葉を残して、イルダは立ち去っていった。
「気にしないで」
ソフィアがエミリアの肩に手を置いた。
「ほんと、あの子ったら、何でいつもあんな感じなんでしょう」
皆、イルダには手を焼いているのか、ソフィアは半ば諦めているようにため息をついた。
「それより、今日はありがとう。秋まで長いけれど、あなたと話せて少し勇気が出たわ」
夕方、マリアンヌに「明日もお願いしますね」と言われ、自室に戻った。疲れた──思わずベッドへ大の字に飛び込む。
──あの声は、『神託の杖』を『特定ユニット』だと呼んだ。一体それは何を意味するのか。なぜ反応したのか。秋の神託祭までに、この謎を解明する必要があるかもしれない。
(春の里帰りの時に、ラウルに相談してみよう)
起き上がり、着替えるためにカーテンを閉めようとした時、窓の外にふと人影が目に入った。
中庭に面する回廊の一角、冬の月明かりの下で二人の人物が話している。一人は貴族風の男、もう一人は、あの枢機卿──ロイデンだった。
(あの人、王宮にも出入りしていたの?)
枢機卿という職は、法王国──法王の側近だ。各国の教会の視察や指導だけでなく、外交官として各国の王室や要人とのやり取りも行う。
だが、こんな時間にあんな場所で、しかも二人きりで話していることに、わずかな違和感を覚えた。
二人の会話は聞こえないが、その様子は明らかに秘密めいている。
なぜか不安が胸に広がった。神託祭は教会も深く携わる。枢機卿をはじめ教会関係者が王宮を出入りすることに何の不思議もない。
それでも、胸の奥で言いようのない何かがうごめく。王太子派と第二王子派の血脈をめぐる確執。その中心にあるソフィアの神託の儀。教会──法王国の存在。
答えの出ない問いを抱えたまま、長い夜は更けていった。




