第12話 氷の微笑み
研究所訪問からしばらく経った、ある朝。部屋に、アンナが嬉しそうな顔で飛び込んできた。
「お嬢様、アルディス伯爵家からお手紙が届いております!」
差し出された封筒は上質な紙に美しい筆跡で宛名が書かれ、蝋封されていた。封を切って中身を読むと、それは夜会への招待状だった。
「クラウディアの婚約者の方だったわね」
アルディス伯爵家の次男カーレルは、クラウディアが夢中になっている相手だ。デビューを終えたばかりの自分にとって、こうした正式な夜会への積極的な参加は社交界の一員として欠かせない礼儀でもある。
もっとも、今回の夜会は若い子女を中心とした気楽な集まりらしく、招待状にも気軽に来訪してほしい旨が記されていた。
「それで、エスコートはどうなさいますか?」
痛い所を突いてくる。これまで、父の意向で他の家の子女とあまり付き合いがなかった。友人といえば、クラウディアをはじめほんの数人だ。男性なんてもってのほかだ。なので、エスコートのあてがまったくない。
とはいえ、誰でも良いというわけではない。
「お父様は体面のために誰かをつけようとするでしょうけど、知らない方なんて絶対嫌よ」
ラウルは勉強仲間として頼りになるが、貴族ではないためエスコートはできない。
ふと脳裏に、あの知的で穏やかな青年の顔が浮かんだ。
(そうだ、あの人なら……)
その日の午後、『賢者の書房』を訪れた。店の奥にある閲覧スペースには、期待通り古い書物に没頭するジルの姿があった。
(いつもいらっしゃるわね。日課なのかしら? まあ、嬉しいけど)
「こんにちは」
声をかけると、ジルは顔を上げて微笑んだ。
「やあ、エミリアさん。今日はどのような本を?」
今日の目的は本でなく、あなたなんです──なんて口が裂けても言えない。そもそも、本人が直接エスコートの依頼をするなど、はしたないと思われないだろうか。
だが、他に頼れる人がいないのだ。
「実は……あの、もしご迷惑でなければ、お願いしたいことが」
「どのようなことでしょう?」
「実は明後日、アルディス伯爵家の夜会にお招きいただいているのですが、エスコートを……もしお時間がございましたら」
その瞬間、ジルの表情がわずかに揺らいだように見えた。それは驚きなのか、それとも喜びなのか。もしかして、呆れたのか。あいかわらず、表情の下までは読み取れない。
だが、やがてジルは優しく目を細めた。
「光栄です。ぜひ私にエスコートさせてください」
「本当ですか? ありがとうございます。きっと楽しい夜会になりそうです」
あまりにもあっさりとした快諾で拍子抜けしたが、思わず頬が緩んだ。
◇ ◇ ◇
夜会当日の夜、アルディス伯爵家の邸宅は華やかに彩られていた。無数の蝋燭が灯されたシャンデリアが優雅に輝く大広間に、色とりどりのドレスに身を包んだ貴族たちが集っている。楽団の優雅な調べが響く中、人々はダンスや談笑に興じていた。
ジルにエスコートされ、会場に足を踏み入れた。身にまとう淡いブルーのドレスが、蝋燭の光を受けて真珠のように輝いている。
会場の視線が自分に集まるのを感じた。
「あら、あちらはテルネーゼ侯爵家の……」
「『二つ持ち』の噂の御方ね」
「お相手の男性は……どなたかしら?」
あちこちからささやき声が聞こえる。中にはジルのことを話している声もある。たしかに、夜会服のジルはどう見ても高位貴族の子弟にしか見えない。しかも、謎めいた美貌がありながら知的な品も感じられる。こんな殿方が王都の社交界にいたのか──と皆が噂するのも分かる。
だがそれよりも、本日の主役はどこだろうかと会場を見渡した。
(あれ? クラウディアはいないのかな……?)
友人はいなかった。対して、今夜の主催者であるアルディス家の次男カーレルは大勢の取り巻きや令嬢たちに囲まれ、楽しげに談笑していた。その容姿端麗な姿はまさに物語に出てくる王子様のような男性だ。
(あれは凄いね。クラウディアが落ちるはずだ)
感心したようにカーレルを眺めていた、その時だ。カーレルが近くの令嬢の耳元で何やら囁き、令嬢が頬を赤らめて「まあっ!」と嬌声を上げたのが見えた。
(たしかにお顔立ちは素晴らしいけれど……婚約者がいるのに、あの振る舞いは何なの?)
軽薄な男だ。あの良からぬ噂はどうやら本当らしい。まったくもって呆れてしまう。
「あまり良い気分ではありませんね」
眉をひそめていると、それを気遣うようにジルが静かに声をかけてきた。
「ええ、正直なところ……」
小さくため息をつくと、ジルは優雅な所作で手を差し出した。
「でしたら、まずは私といかがですか?」
(まずは主催者のカーレル様へ挨拶に行くべきなんでしょうけれど……ま、いいか!)
ジルの手を取った。
ワルツが始まると、ジルのエスコートは驚くほど自然だった。ラウルとの練習ではお互いに手探りで、時には足を踏み合うこともあったが、ジルは違った。まるで自分の動きを先読みするかのように、優しく、確実にリードしてくれる。
「お上手ですのね」
「あなたが素晴らしいパートナーだからですよ」
ジルは謙遜しながら微笑んだ。
ジルの手は温かく、力強いのに決して強引ではない。自然と身を委ねている自分に気づいた。ラウルとのぎこちない練習とは全く違う、大人の男性に導かれる安心感があった。
(ダンスって……こんなに心地良いものなのね)
音楽に合わせて回転する瞬間、ほんの少しめまいを覚えた。少し熱気に当てられたのかもしれない。けっしてジルとのダンスで、ぼーっとしてしまったわけではない、多分。
「大丈夫ですか?」
ジルの気遣う声で我に返る。
「ええ、とても……素敵でした」
ワルツが終わると会場の端へ移動した。給仕から飲み物を受け取り、一息入れる。
しばらくして、カーレルが気づいたのかこちらへ向かってきた。
「はじめまして、エミリア様とお見受けいたします。アルディス家のカーレルでございます」
カーレルは優雅にお辞儀をすると、ダンスを申し込んできた。ジルの方をちらりと見ると、静かにうなずいている。カーレルの手を取り、会場の中央へ進む。
ワルツが始まると、カーレルは甘い声で囁き始めた。それにカーレルの指先は必要以上に近く、まるで境界を試すような感触だ。思わず身体がこわばり、身構えてしまう。
「『二つ持ち』の血脈をお持ちとは、まさに神に愛された方ですね」
「そのような……」
「我が家でも、優秀な血脈を持つ令嬢をお迎えしたいと常々思っておりまして」
(──!?)
この男は何を言っているのか。
「わたくしの血脈について、ずいぶんとお詳しいのですね」
思わず出た言葉は、自分でもわずかに冷たさがあったように思う。それでもそれに気づく様子もなく、カーレルは言葉を続けた。
「もしよろしければ、今度改めて、二人でゆっくりとお話でも……」
「あの、カーレル様」
はたとワルツのステップを止め、カーレルの瞳をまっすぐに見つめた。
皆が踊る中での唐突な停止。周りで踊っていた者たちも何事かと動きを緩めたようだ。
「素敵なお誘い、本当にありがとうございます」
まあ、一応はそう答える。
「ですが、あなたには、わたくしの大切な友人であるクラウディアという婚約者がいらっしゃるのではなくて?」
カーレルの顔が見る間に青ざめた。周囲もこちらの様子を窺い、ざわめきが広がる。
「そ、それは……まだ正式には……」
「正式でなければ、他の女性を誘っても構わないと?」
この男、私とクラウディアのことを知らなかったのだろうか。いや、それでもありえない。段々と腹が立ってきた。
だが公衆の面前で罵っても、それはそれでマズい。貴族は何より体面を気にするのだ。たとえ自分の身から出た錆であっても。
「正式でなくとも、婚約者がおられる殿方と二人きりで会うなんて。恐れ多いですわ」
せいぜいこんなところだろう。口調は冷たかったかもしれないが、優雅に一礼すると、わざとらしく微笑みを浮かべた。
「大切な婚約者様へ、よろしくお伝えくださいませ」
そう言って踵を返し、ジルの元へ戻った。
「お疲れ様でした。素晴らしい対応だったと思いますよ」
「でも、少し騒ぎになってしまって……」
「正しいことを言っただけです。恥じることはありません」
そのまま会場を後にし、馬車に乗り込んだ。
馬車の中でジルが穏やかな笑みを向ける。
「それに、あそこで適度に留めたのも良かったですね」
「え?」
「彼をあの場で徹底的に非難しても、何も良いことはありません。逆恨みされるかもしれませんし、賢明な判断でした」
(やっぱりそうよね。我慢して良かったわ)
だが、腹の虫はおさまらない。
「本当は、もっと言ってやりたかったんですが」
お互い、クスリと笑った。
「でも、きっと効果はあったはずです。周りの者たちも見ていましたから」
「そうですね……クラウディアの耳にも届くかもしれません」
とはいうものの、曲解されて伝わるのも困る。かといってわざわざ弁解するのも変だ。
(またクラウディアに言えないことが増えたわ……)
窓の外を流れる夜景を見つめた。クラウディアのことが脳裏に浮かぶ。あの子も、自分と同じでそこまで交友関係が広いわけではない。カーレルのことをどこまで知っているのか。だが、あの様子では何も聞かされてないようにも思う。
「クラウディアが可哀想……あんなに彼のことを慕っているのに」
「あなたのような友人がいて、クラウディアさんはお幸せですね」
そんなことはない。自分が出来ることなど何もない。幸せは自分で掴むものだ。だがその行為を、血脈や家格が足を引っ張るのもまた事実だ。
「血脈や家格だけの関係なんて、やっぱり間違ってると思うの」
ジルをまっすぐに見つめた。
「私の大切な人たちが、あんな扱いを受けるのは絶対に許せない」
「あなたの信念は、きっと多くの人を救うでしょうね」
大げさだなとは思ったが、ジルの言葉に胸のあたりが暖かくなる。
「今夜は本当にありがとうございました」
侯爵家の門前に着くまで、馬車の中は穏やかな時間が流れていた。




