第九話 恋愛感情の見解はどう?
「わっ、綺麗……」
そのまましばらく歩いていると、小さな開けた場所に到着した。江夏先輩が思わず感嘆の声を漏らし、私も頷いた。
木々の間から差し込む陽光が、円形の空間を明るく照らしている。その中央には大きな岩があり、その周りには様々な草花が自生していた。
「よし、大体この辺だろうな」
「それは目的の草花の場所が、ってことですか?」
「そうだ。これからここで必要な草花を探す。見つけ次第、部室に戻るぞ」
羽月さんは周囲を一巡り見回して小さく頷き、草花の間に身をかがめて探し始めた。
残された私、江夏先輩、生徒会長も顔を見合わせ、各々別れて同じように目当ての草花を探し始める。
……不思議な空間だ。
風が葉を揺らし、木々のざわめきが心地よいBGMとなる中、高校生三人+大学生が黙々と草花を探して居るのだから。
「——そういえば会長くん。春休み前の話に遡るが、とある女子生徒に告白されていたようだね?」
そんな中、羽月さんがふと思い出したかのような声色で言った。
「なぜ、それを……」
「えっ、えっ、本当ですか?」
驚いたような生徒会長の反応は、肯定こそしていないが、事実を認めているようなものだった。
江夏先輩が慌てて問い詰める。江夏先輩の表情には困惑と不安が入り混じっているようだった。草花を探していた手も、いつの間にか止まっている。
「そうだよ。なんで羽月さんが知っているのかはわからないけど……」
「創薬部の窓に目を向ければ、君たちの帰るところがよく見えるのだが、その窓の真下を除けば校舎裏もよく見える配置になっている。そこは所謂告白スポットとされているらしいが——窓を開けていると声も漏れてくるんだ。それも、一度や二度じゃない」
羽月さんの言葉に、私は内心で苦笑した。告白スポット——やっぱり、そういうのって、どこの学校にもあるものなのだろうか。
そんな場所が創薬部から筒抜けだなんて。四号館は空き教室も多いし、まさか告白している子も気づかなかったのだろう。
「それで、告白を、結城くんはどうしているんですか……?」
「もちろん、断っているよ。好きでもない相手と交際するのは失礼だと思ってね」
「そ、そう、なんですか……」
恐る恐る聞いた江夏先輩だったが、生徒会長の返答にホッと息を吐く。その強張った表情が緩むのを見て、私も少し安心する。
……正直、こうして側から見ていると、いかにも恋する乙女的反応でわかりやすい。それなのに生徒会長は江夏先輩の気持ちには気づいていないのだろうか? それとも、気づいていても気づかないふりをしているのだろうか。
「会長さんには、好きな人はいないんですか?」
そんな疑問から今度は私が質問をする。一瞬出過ぎた真似だったかと羽月さんの顔色を伺ったが、問題ないと言わんばかりに頷いてくれた。
良かった。たぶん、問題ない。むしろ、羽月さんの方が私の質問を待っていたような気さえする。
「僕に、好きな人? いいや、考えたことがなかったな……」
「それは、どうしてですか?」
「うーん、そう言われるとね。物心つく頃には、いつも鈴乃と一緒だったし。まあ、それは今も昔も変わらないけどね……」
草花に囲まれながら顎に手を添えて考える生徒会長の姿は、それは様になっていた。陽光が髪に柔らかく反射し、穏やかな空気が漂っている。
周囲の自然と調和し、静かな時間が流れる中、江夏先輩の心が少しでも楽になるようにと願いつつ、私はその様子を見守っていた。
しかし、この会話の行き先に少し不安も感じていた。
「鈴乃だって、考えたことないだろう?」
そんな生徒会長から江夏先輩に投げられた無自覚な言葉に、私は確信する。本当に江夏先輩の好意に気づいていないんだ、と。
それは相手が長年共に過ごした幼馴染であり、また本人が鈍感属性持ちだというのもあるだろう。
しかし、江夏先輩ですら最近になってやっと自分の気持ちに気づいたと言っていた。なら、それも仕方のないことなのかもしれない。
「……いいえ、私は、考えたこと、あります。……それに、今だって」
「え……?」
江夏先輩は、生徒会長をじっと見つめ、目を潤ませている。ここに来て、初めて二人が真剣に目を合わせた瞬間だった。
生徒会長は驚いた表情を浮かべている。まるで予想だにしなかった返答を受けたような。
一方で、私も驚きを隠せなかった。
まさか、ここで江夏先輩がこんなに踏み込んだ発言をするとは思わなかったからだ。
薬もまだできていないのに、まさか——。
その後、一瞬の静寂が訪れる。木々のさざめきだけが耳に残り、時間が止まったかのように感じられた。
その間はほんの数秒だっただろうが、私にはもっと長く思えた。当の二人にとっては、永遠にすら感じたかもしれない。
空気は厚みを帯び、息苦しいほどに緊張感が漂っていた。
「——あった」
そんな静寂を破ったのは、羽月さんの声だった。
三人ともがハッと視線を声の方に向ける。羽月さんの手には薄紫色の小さな花が握られていた。
その花は陽光に照らされて、まるで宝石のように美しく輝いて見えた。
「は、羽月さん、目的の花はそれですか?」
詰まりそうだった息を大きく吐き、駆け足で羽月さんの手元まで近づく。その花の香りはほんのりと甘く、しかし苦味も感じられた。不思議な、複雑な香りだった。
「そう、これだ。これが今回の依頼に必要な主成分となる薬草だ」
「依頼——となると、それが薬の材料ですか?」
「ああ、まだあるがな」
生徒会長の言葉に頷いた羽月さんは、大きなジップパックに花を慎重に収めた。パックを見ると、他にもいくつかの草花が入っていることがわかる。
どうやら、他の草花も同時に採取していたようだ。私たちが会話に夢中になっている間にも、羽月さんは着実に作業を進めていたようだった。
「これが……」
結局、全て一人で用意したのか。私たち、本当に必要だった?
そんな疑問が思い浮かぶも、江夏先輩は真剣な表情で花たちを見つめていた。
これで薬ができれば、告白する勇気をもたらしてくれる——その表情には、おそらく期待と不安が入り混じっているようだ。
「さて、これを持ち帰って調合しようか。もう少し付き合ってもらえるか?」
三人、全員が頷いた。ここまで来たら、当然完成の瞬間を見守りたいと思ったからだ。
——その後、校舎に戻ると羽月さんはすぐに部室に向かい、私たちはその後ろをついて行った。
部室の窓は開けると、夕方の柔らかな夕焼け色が差し込み、薄暗い室内をオレンジ色に染め上げている。
机には棚から取り出した各種の器具や薬品が整然と並んでおり、まるで本当の研究室のような厳かな雰囲気が漂っていた。
「出来上がりにはそう時間はかからない」
羽月さんはそう言うと、花を慎重に取り扱いながら作業を始めた。窓から吹き込む爽やかな風が花の香りを部屋中に運び、微かに漂う花の香りと薬品の匂いが混じり合う。
私は江夏先輩と生徒会長と共に、部室の端に設けられたスペースに座った。江夏先輩は緊張している様子で、手元で膝を握りしめている。生徒会長も真剣な表情を浮かべ、羽月さんの動きをじっと見つめていた。
「別に硬くなる必要はないんだ。少し雑談でもしながら進めようじゃないか」
カチカチと器具を触る音だけが反響する部室に、羽月さんの声が緊張をほぐすように響き、少しだけ場の空気が柔らかくなる。
「でも、集中しているように見えたので」
「まあ、それなりにな。しかし、慣れたら流れ作業のようなものに近い。何度も作ったことのある得意料理を振る舞うようなものだ」
羽月さんの手は止まらず、手際よく器具を扱いながらも、自然体で話し続けていた。例えに出すということは、羽月さんは自炊をするのだろうか。
「家事とかするんですか?」
「ああ、今は実家を出てるからな。私のパートナーになる人間は幸せ者だろうな」
だけど、もしも仮に手料理を振る舞ってくれる機会があったとしても、まるで朝のコーヒーのノリで変な薬も飲まされそうで怖いな……。
「そういえば、君は恋愛経験についてそれなりに、と答えていたな」
そんな風評被害だと言われても仕方ない想像を膨らませていると、羽月さんから話を振られる。
「恋愛感情を抱くとはどういうことか、君の見解でいい。どういうものか答えてみてくれないか?」
それも、予想外の方向から。
「なんか……唐突ですね」
「そうか、悪かったな。しかし、こういう質疑応答も必要だという話はしただろう?」
なんて軽い謝罪。もしかして、今までの失礼な思考を読まれていて、その仕返しに変な質問をしてきているのだろうか。本当は、私に恋愛経験なんてないことを察し、あえて意地悪な質問を……。
「あ、でも、私も聞きたいです」
しかし、江夏先輩が控えめに挙手し、横で生徒会長も頷いたことで内心頭を抱える。
ああ、もう、マズイ流れだ。
……けど、裏山で途中で途切れた、あの気まずい空気感よりも、今私が一方的に喋るだけになるであろう状況の方が楽か。
「……あくまで、私の見解ですからね?」
こう言っておけば、多少的外れなことを言ってしまっても大丈夫だろう。内心の不安を隠しながら、私は自分の考えを整理する。
——経験がなくとも、イメージぐらいはできる。
私の今までの人生の、目と耳を通し、見て聞いた、感じ、思ったことを繋ぎ合わせて答える。
「私にとって、恋愛感情——好きの感情を抱くということは、突き詰めれば突き詰めるほど……難しい感情だな、と感じます」
おそらく、誰も明確な答えなんて用意できないのだから。
「その好意とは、溢れれば溢れるほどに、とても苦しいものだと思います」
いっそ、伝えてしまえば楽になる——そんな言葉は、とても無責任に思う。
……今、私は言いながら恋愛感情の話とは別に、それに通ずる過去の記憶を思い出していた。
「その感情を自覚するのも、伝えるのも、答えを貰うのも、全部が全部、勇気のいることで」
だけど、だから。私はその勇気を持てる人は凄いと思って。尊敬すらできると思って。
「そんな感情に向き合える人を、私は——」
なのに、私は。
「……わたしは…………」
それ以上は、喉に声がつっかえて出てこなかった。心の奥底で、何かが引っかかっている。
自分でも何が言いたいのか、何を言おうとしているのかすらわからないような。
「ああ、ありがとう」
まるでドクターストップをかけたかのように。次の言葉を紡げない私を制し、羽月さんが優しい声で言葉を続ける。
「だからこそ、その感情を受け入れてもらえた時の感情は、何にも変え難いものなのかもしれない」
そう私に代わって代弁してくれる羽月さんは……どうなのだろう。恋愛を、したことがあるのだろうか。惚れ薬なんて作ろうとする人だ。純粋に気になった。
「きっとそれも、私たちがこの場にいるキッカケなのだろう。……もちろん、例外もあるのだろうが」
最後は、そんな言葉で締める。
少し生々しい話だが、先祖代々人は愛し合い、結果として、ここに私たちがいるのだ。
そこまで深く考えたことはなかった。……とはいえ、普通、学生間の恋愛でそこまで考えることは稀だろう。
「ありがとう、良い話が聞けたよ」
もう一度、私に感謝をして微笑んだ。
こういう質疑応答も、羽月さんから言わせれば必要な要素。
本人曰く、羽月さんは天才だ。
……天才の思考は、私のような普通の人間が考えてもわからないものなのだろう。
今はただただ、羽月さんのペースに飲まれることに身を任せるしかない私だった。