第六話 助手、珈琲の拘り
そんな閑話休題——羽月さんの持つ、ちょうど中身がなくなったマグカップが目に入る。おそらく、コーヒーが入っていたようだ。
……そうだ、そういえば私は助手だったな。自分の責務を思い出し、行動を始める。
「コップは勝手に使っていいんですか?」
「ん……? ああ、棚にあるぞ。ミルクや砂糖も引き戸の中にな。豆はコーヒーメーカーの横だ。私はブラックでいい」
一を聞けば百が返ってくる感じだ。話が早くて助かると思うのと同時に、助手としての適性が既に現れ始めている自分に気づいてしまう。なんとも複雑だ。
「はいはい。えっと、江夏先輩はどうします?」
「あ、すみません。ありがとうございます。では……ミルクを一つお願いします」
「わかりました。少しお待ちください」
飲み終わった羽月さんのマグカップと、江夏先輩用に整然と並べられたコップやマグカップの中から一つを選び、ミルクも拝借する。……ついでに、自分用のマグも手に取る。
調理場の端に置かれたコーヒーメーカーの横にマグを置き、スイッチを入れる。適量のコーヒー豆をミルに入れて挽くと、静かな機械音が部屋に響き、細かな振動とともに木製の机にも微かに反響する。
「何でこんなものまであるんですか?」
コンパクトで使いやすそうだが、学校の部室に置かれているのはやはり珍しい。空間全体に知的な匂いが漂うようで、少し緊張してしまう。
「カフェインは一時的だが、脳機能の向上を見込めるからな」
もっともらしい説明だ。まあ、私もコーヒーは好きだから気持ちはわかる。……なるほど、部費を欲しがる理由の一つが理解できた気がする。
「ふふ、そう聞くと確かに良いかもしれませんね。生徒会室にも置くことを検討してみましょうか……結城くんも喜んでくれるかもしれませんし」
「……今回話に来たのも、その彼が関係するのか?」
少し気になる声が耳に入る中、手際よく挽き立てのコーヒー粉をフィルターに移し、水をタンクに注ぎスイッチを押す。やがて部室内に香ばしい香りが静かに立ち上り、鼻先をくすぐる。
「あ、は、はいっ。なんでわかったんでしょうか?」
「君は非常にわかりやすい。ただし、会長くんは鈍感だ。気づいてはいないだろうな」
「そう……ですよね。あはは、お恥ずかしいです」
甘酸っぱい話が静かに始まっていた。なるほど、コーヒーの香りもこの雰囲気にはよく合う。
ポットからマグカップに注ぐと湯気が立ち上り、香りが部屋全体に広がる。片方にはミルクを注ぎ、これで完成だ。
「どうぞ、お待たせしました」
マグカップを並べると、それぞれ手に取った。誰が淹れても同じ味だろうが、自分の手で用意したものを飲まれるという緊張感はやはりある。
「ありがとうございます。……あ、美味しいです」
江夏先輩は早速口にして柔らかい表情を見せる。言葉遣いも所作も丁寧で、さすが生徒会役員だと感心する。
「……確かに、美味いな」
意外にも羽月さんからもお褒めの言葉をいただく。声の端に微量の驚きと賞賛が混じっているのがわかった。
「別に何も特別なものは入れてませんよ」
羽月さんのコーヒーはブラックだし、余計に味に変化はないはずだ。
「風情がないな。こういうのは、自分で淹れるよりも誰かが淹れてくれる方が特別感があると思わないか?」
「確かにそうは思いますが……」
言いたいことは理解できる。だが、失礼ながら羽月さんにそういう感性があるとは驚きだった。
……とはいえ、これも口に出すには少し失礼すぎる。心の中で呟くだけ。私、偉い。人は成長する。
「さて、それではそろそろ本題に入ろうか」
話が逸れだしたところで、羽月さんがマグカップを机に置いて手を叩く。
「その前に、私もこの場にいていいんですか? 必要でなければ出ますが」
「いや、君もいたまえ。君の意見が欲しくなる場面が来るかもしれん」
どちらかというと、私がいることで江夏先輩が喋りにくいのでは? と思ったが故の発言だったのだが、江夏先輩が「私も大丈夫ですよ」と優しい声色で間に入る。
「それに、君は次期部長候補なのだからな」
それは……確かに。そういう話だし。整合性が取るためにも。実際、創薬部での仕事がどのようなものなのかは気になる。
じゃあ、私はどこに座ろうか——。
暫し迷って目を泳がせていると、羽月さんが自身の隣の椅子を引き、軽くぽんぽんと叩く。
ええっと、そこに座れと?
「……わかりました」
私は羽月さんと同じブラックコーヒーを淹れたマグを手に取り、静かに隣に座った。
……なんだか、心臓の鼓動が気になる。なぜに?
「では、まず初歩的な確認からお願いしたくて……」
そんな私の気は置いといて、江夏先輩はこほんっ、と一息咳払いをしてから話し出す。
「羽月さんはこれまでに相談、依頼をしてきた生徒、果ては先生にまで色々な薬を作ってますよね? しかも、無償で」
「ああ、そうだな。しかし、数で言えば数十種類程度のものだ」
数十種類程度——とは言うけれど、両手では数え切れていないほどの依頼数ではある。
それを無償でと聞くと、まるで慈善活動のようにも思えるが、おそらくその限りではないはずだ。
「だが、無償の代わりに失敗作ができても責任は取れない、と伝えてある。だからある意味、私の報酬は新薬の被験者になってもらうところだ。身体に害はないようにできてはいるが。まあ、それらも含めて了承は貰っている」
ただより怖いものはない。ちゃんと無償なりの理由説明がなされるのはある意味で安心する。
……そのわりには、私には急に薬を飲ませてきたけど?
え、今更——いや、改めてだけど、なんで?
「ですが、薬を作ってもらった生徒の話を聞くと、本当に効果があったという声ばかりですよ」
「さすがに実現不可能だと感じた依頼には、初めから断りを入れている、というのもあるがな。空を飛べる薬が欲しいと言われても、それは私には無理だ」
……いや、私のことは今はいい。話に集中する。
羽月さんが今している話は、そりゃそうだよねといった内容だ。例えば、無から炎を出す魔法が使いたい——なんて薬も作れないだろう。
……ということは、失敗には終わったが、惚れ薬自体は作れるイメージがあり、だからこそ私に飲ませたのだろう。
私からしてみれば、惚れ薬っていうのも中々現実的とは思えないけれど……。
「それと、そもそも依頼者自体が少ない。普通は素人が作った薬を飲むのには抵抗があるからな」
普通は、ね。私はその薬の効果も聞かずに飲んだわけだから、躊躇なく飲んだのを見て羽月さんもさぞ驚いただろう。
あの時の私は何を考えていたんだか。今思えば、羽月さんの意外な表情に気を取られていたんだっけ。
「その点が心配だという子は、最初から羽月さんには頼みに来ないでしょうから。それでも来る子こそが、藁にもすがる思いで頼りに来るのだと思いますよ」
「ふっ、そうだな。だから話も早く、やりやすい。……それで、君はその覚悟で来たということか?」
「……はい、そうですね。その通りです」
江夏先輩は覚悟を決めた表情で頷く。会話を聞いていて、だいたいは理解できた。
創薬部とは、もちろん薬を作る部活だが、その薬の恩恵にあやかりたい人がたまに依頼に来るのだろう。
羽月さんはその相談にインスピレーションを受け、望み通りに薬を作る代わりに、結果的にその人には薬の被験者となってもらう。
ただし、失敗しても責任は取らないよ、と。
そういう構図だ。
なるほど、理に適っているかもしれない。こうして聞くとウィンウィンの関係だ。
これなら羽月さんも研究データが得られるし、依頼者も望む効果を得られる可能性がある。
まあ、失敗のリスクもあるが、それは最初から承知の上ということだ。
「で、君はどんな薬を希望する?」
「私は、『告白する勇気が出る薬』を作ってほしいんです」
「告白する勇気が出る薬? それは意中の相手に好意を伝えるため——という認識でいいか?」
羽月さんは、興味深そうに問い返した。
「はい……あの、冗談とかじゃないですからね?」
江夏先輩は赤面しつつも、真剣な表情で語る。その頬の紅潮ぶりを見ていると、本気度の高さが伝わってくる。
「いや、大丈夫だ。理解した。確かに、そういう場面においては多くの人が勇気を必要とするだろう」
羽月さんは理解を示すように頷いた。
「さっき話の内容が生徒会長のことだと言ったが、告白する相手もそういうことでいいんだな?」
「はい、間違いありません……」
江夏先輩は少し照れくさそうに返事する。
なんというか、プライベートな相談を聞いてしまっている気分だ。……本当に私、ここにいていいの? そう思わなくもないが、静かに座って話を聞く。
生徒会長か——そういえば入学式の時、在校生代表の挨拶で壇上に上がっていたな、と思い出す。
確か……江夏先輩は結城と言っていたか。そうだ、冬野結城と名乗っていた。
あの時は、ふんわりと整った顔立ちの人だな、という印象だった気がする。確かに人気が出そうなタイプかもしれない。
「では、話を深掘りしていくが……薬によってどのような効果を期待するか、より具体的に教えてもらえるか」
「それは……自分の気持ちを素直に伝えることができるようになりたいんです」
「素直に、か。そうなれない理由があるのか?」
「……はい。彼とは幼馴染で、中等部の頃も一緒に生徒会に入ってたんです。でも最近、彼がモテるようになったみたいで。彼自身はそのことに気づいていないみたいですが、それが、なんか……」
江夏先輩は言葉を詰まらせる。
それを言葉にすることで、余計に自分の感情が鮮明になるのを恐れているかのようだった。
きっと、心の奥で渦巻いている複雑な感情を整理しきれずにいるのだろう。
「そこで嫉妬し、自分の気持ちに気づいた。しかし、その感情に戸惑い、今更どう話せばいいのかもわからない、というところか」
「そう、だと思います。今までずっと一緒にいて、こんな気持ちになるなんて考えたこともなかったのに」
江夏先輩の目に、涙が滲んでいるのが見えた。彼女の瞳には、心の奥底で渦巻く感情が映し出されていた。
親しい関係が崩れる恐怖と、新たな感情への戸惑いが入り混じっているのが伝わってくる。幼馴染から恋人への関係性の変化——それはきっと、想像以上に複雑で難しいことなのだろう。
「気づいた時には、もうまともに目も合わせられなくなってて。最近、私の態度がよそよそしいって他の役員に相談してるのを聞いてしまって、なんで私だけこんなに辛いの? って思って。逆にそれが申し訳なくも思ってしまって……」
自分の感情がうまく伝わらないとき、伝えられないとき、相手からすれば不安を感じるかもしれない。だけど、そのもどかしい自分もまた、その理不尽さに苛立ちや悲しさを感じてしまう。
やり場のない感情に心を締め付けられるのだろう。江夏先輩の気持ちを想像すると、なんだか胸が苦しくなってくる。
「なるほど。そのためには、相手に対する自分の気持ちをはっきり理解してもらい、それを伝えるための勇気が必要だということか」
羽月さんが理解を示すように頷きながら言った。その言葉に、江夏先輩は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
聞いているだけの私ですら、話に入り込んでしまうほどだ。少なくとも、江夏先輩の悩みは羽月さんに理解され、共有されたことにホッとした。
羽月さんって、こういう相談にも真摯に向き合うんだな。意外と面倒見がいいのかもしれない。
「では、事前に言っておく。仮に薬を投与したとして、それは一時的な効果だろう。いかなる薬でも、自己成長や心の成熟を代わりにはできないからだ」
「わかりました。けれど、それでも構いません。このまま私が気持ちを抱えたままだと、生徒会の仕事にも支障が出てしまいますから……」
江夏先輩の声がかすかに震えていた。決意と不安が入り混じるその声は、どれほどこの状況に悩み、苦しんでいるかを物語っていた。
責任感の強い人なんだな、と思う。自分の感情よりも周りへの影響を心配している。
「よし、わかった。それでは、その薬を作ってみよう。ただし、成功するとは限らないことは頭に入れておいてくれ。それでも構わないか?」
「はいっ。お願いします、羽月さん!」
江夏先輩は背筋を伸ばして力強く頷く。私もその光景を見て、決意の現れを感じ取った。