第二十七話 悩んでる友達
「私、プラセボ効果? について詳しく知ってるわけじゃないんだけど……」
天川さんは一度目を伏せ、テーブルに置かれたコップの縁を指先でそっとなぞる。
ほんの少し息を整えてから、また顔を上げて言葉を続けた。
「好きの感情でいうとね、一目惚れとか、吊り橋効果とか、自分で経験したことないものだと『本当に?』って思ったりするよね」
その声色は柔らかくて優しい。
いつもの明るく弾む声とは違い、どこか静かで、こちらの心の水面にそっと触れるような響き方だった。
「でもさ、渡来さんの話聞いて、私思ったの。そういうのって結局、誰が相手とか、タイミングとか、いろいろあるかもしれないけど、好きになるきっかけの一つにすぎないんだと思うんだよね」
少し言葉を探すように視線が彷徨い――それでも、すぐに真っ直ぐな目で私を見た。その視線に、逃げ道がふわっと消える。
「だから私はね、どんなきっかけであっても、その気持ちが好きに繋がったと思うなら……それはもう、好きなんだよ。だから、それでいい。……何の答えにもなってない、単純すぎる考えかもだけどね?」
えへへ、と照れくさそうに笑う。
けれどその声には、確信めいた力強さがあった。胸の内側に置き石みたいに沈んでいた不安が、少しずつ形を失っていく。
「ほら、私見たまんま、あんまり頭良くないしさ〜」
そんな冗談めかした一言でさえ、私の胸の奥で絡まっていた紐を、すっと緩めていく。
仮に、すべてがプラセボ効果だとしても。
それでも、この感情は“私の心”が生み出している。
誰にも渡せない、否定もできない、私だけの熱だ。
誰かを想って、胸が痛くなる事象。その事実に、嘘はひとつもない。むしろ、ごまかしてきた分だけ、余計鮮明に映る。
「……天川さん、ありがとう」
「な、なんでお礼? 私はただ、友達として思ったこと言っただけだよ?」
「ううん。私がどうしたいのか……少し、わかった気がする」
……名前をつけるには曖昧な感情でも、今はそれでいいと思えるほどに。
「……そっか。なら、ほんとによかった!」
嬉しそうな笑顔と一緒に、言葉が跳ねる。
跳ねた音が、部屋の白い壁に当たってやわらかく返ってくる。
「じゃあ私、応援する! だって、それでやっと『悩んでいる友達を助ける薬』の効果が証明されたことになるんだと思うし!」
……なるほど、たしかに。
天川さんの依頼は友達――つまり、私を助けることが目的。
それならば、私の悩みが解決しなければ依頼は成功したとは言えないわけで……。
「あっ、これ、逆にプレッシャーになってないかな? だ、大丈夫……?」
「大丈夫だよ。……ちゃんと、伝わったから」
「え、あ、そう……だね。あはは、ごめんね?」
自分の発言が悪く受け取られないか気にしてしまったのか、私が大丈夫だと告げると天川さんは苦笑し、釣られて私まで笑ってしまう。
……だけど、不思議な気持ちだった。
こんなふうに誰かと笑い合っている空間が存在することに、数日前ですら想像つかなかったのだから。
「でも結局、私は羽月さんじゃないから『悩んでいる友達の助けになる薬』の“薬”の部分は作れないんだけどね。形だけでも、羽月さんみたいに用意できたらそれっぽかったんだけど……」
羽月さんが、毎回手間や時間をかけて薬を用意していた場面を思い出す。
今思えば、その用意していたすべては、プラセボ効果を向上させるための舞台作りだったわけだけど。
「確かにね……どんな薬だったの?」
「液体に丸薬が入っていて……色はそれぞれ違ったかなぁ」
実際に薬を用意する作業をしていたのは羽月さん一人だ。あまり繊細に覚えているわけではない。
「でも、形とかは関係ないかも。結局、本質はプラセボ効果を引き起こすことだから」
「うーん、それもそうだね……あっ、でも、それならいいこと思いついたかもっ!」
「え?」
ぱちん、と手を叩いたその目は、キラキラと輝いていた。
「なに?」
「天川さんっ。それ、ちょーだい?」
天川さんの視線は、私のお皿に盛りつけられたビーフシチューに向けられていた。その視線と“ちょーだい”の意味とは。
……食べさせてほしいってこと?
私は少し迷った後に、スプーンでシチューをすくい、天川さんの口元に寄せる。すると、その考えは合っていたようで、天川さんは素直に口を開けた。
……どうしよう。やっている手前、急に恥ずかしくなってきた。
あ、あーん。
「あー……んむっ。んーっ、やっぱりおいしい〜!」
……なにこれ?
「ど、どうも」
何と返せばいいのかわからなくて、恥ずかしさから目線を下げてしまう。
心の中の大宅先輩が『百合だ百合だ!』と騒ぎ立てる。うるさい。……いや、大宅先輩は何も悪くないんだけど。
「よしっ! これで大丈夫だね!」
「……あ、ええっと、何が?」
だけど、その天川さんの言う、大丈夫。そんな脈絡のない発言に、私は思わず聞き返す。
「えへへ、わかんない? まあ、私の知ってる“薬”とは味も見た目も全然違うんだけどね」
その後に続く言葉も、私の問いの返答としては成立していない。
だけど、なぜだか得意げな表情だ。
混乱する私の頭の中で、疑問符がいくつも飛び交う。話の流れからして、薬……。
「……このビーフシチューが薬ってこと?」
「うん、そうそう! 私の言いたいこと、わかった!?」
天川さんの嬉しそうな表情に、私は頷いた。
なるほど、食べ物を薬に見立てるというのは面白い発想だと思った。
「形だけでも、って思ってね。……だけど、何もないよりは大丈夫な気がしてこない?」
“気がする”、か。プラセボ効果について調べたときに見かけた“思い込み”や“信じる力”の記述が、ふっと頭をよぎる。
「ありがとう。……うん。なんか、本当に大丈夫な気がしてきたかも」
だからなのか、そうやって自信満々に胸を張る天川さんを前にすると、まるで魔法にかけられたみたいに“本当に大丈夫かも”と思えてしまう。
これもある意味、一種のプラセボ効果なのだろうか。
「じゃあ、冷める前に食べちゃおっか!」
そう言って、天川さんは会話が長引いたせいでまだお皿に残っていたビーフシチューを、スプーンでさらって口に含んだ。
片手で頬を押さえて「ん〜! 美味しい〜」と唸りながら食べる様子は、まるで幸せそのものを体現しているみたいで、思わず見とれてしまう。
「どうしたの?」
ただ眺めていると、不思議そうに小首を傾げられた。
今までの流れだと、黙り込む私を見ると天川さんは心配そうにしていた。けれど、今そんな素振りはない。
そう思うと、逆に今までどれだけ不安を抱かすようなムーブを取っていたのだろう。急に申し訳なくなってきた。
「ん。だけどビーフシチュー、もう冷めちゃってるなぁって思って」
だけど、今それを謝るのも違うよな、とも思う。今は天川さんのおかげで、心配かけるような状態じゃなくなったってこと。それでいい。
私は机の上に置かれた、まだ半分ほど残ったお皿を見やりながら言った。
「そっか。いやいやっ、でも冷めても美味しいんだから!」
――そんな私たちのやり取りは、天川さんのお母さんから「いつ頃帰ってくるのか」の確認の電話が鳴るまで続いた。
気がつけば、窓の外はいつの間にか暗闇に染まっていた。
「んじゃ、またあしたねっ!」
「うん。また明日」
だからこそ、その後に私ひとりだけになった部屋では、その静けさがいつもの倍以上に感じられた。
その後、寝るまでのルーティンを済ませてから、ベッドに潜り込むと、今日の天川さんとのやり取りが一気に頭に流れ込んでくる。
また明日、か。
ずいぶんと久しく、口にしてこなかった言葉だ。どこか心がそわつく。
……さすがに、体調不良でもないのに連日で学校を休むわけにもいかない。明日は行こう。
そう心に静かに誓った私は、ぎゅっと目を閉じる。
起きているからこそ、無駄にいろいろ考えてしまうんだ。早く寝てしまいたい。
……けど、どうせまた夢を見るのだろうな。そう思うと、少しだけ気が滅入る。
心の中で、羽月さんが私に語りかけてくる。胸がどきどきする。天川さんの笑い声が聞こえる。その温かさが、不安を少し和らげる。……あの日の、葵衣の泣き顔が脳裏に浮かんで、罪悪感が疼く。
そのまま、私は浅い眠りに落ちていった。




