第二十四話 訪問者
体調不良でもないのに、いざ学校を休むとなると、途端に罪悪感が生まれてくる。……考えても仕方ないけど。
頭を切り替え、気分転換に大宅先輩のSNSアカウントを開き、メディア欄から過去の漫画を読むことにした。
そのうちの一つに、調理器具に転生して二流シェフを一流にのし上がらせる話を見つける。これは『二次創作の妄想に捗るオタクを狩る死神に転生したらブーメランだった件』のオマージュだろうか。
……本当に、かなり迷走していた様子がうかがえる。とはいえ、決して悪くはない。どの料理もやけに美味しそうで、ページの向こうから香りが漂ってくるようだ。
だらだら読み進めているうちに、漫画の影響もあってかお腹が空いてきた。作中キャラの言葉を借りるなら、胃袋が「フィーディングタイム!」と叫んでいるかのようだ。……なんなんだろう、このセリフ。
まあ、それはいい。それより――これもプラセボ効果ってやつなのか。たまには凝った料理でも作ってみようかと、ふいにやる気が湧いた。
……うん。せっかく学校をサボっているんだ。目いっぱい時間を使い倒してやろう。そう決めた私は、まずスーパーに買い出しへ向かった。
「……よし、忘れ物はなし」
スーパーに着いて、まずはメニューを考える。店内の冷気が火照った頬に心地いい。チラシコーナーに「凝った料理を作りたいアナタへ」と書かれた紙が並んでいて、つい手を伸ばした。
色々と眺めているうちに、「本格ビーフシチュー」という文字に目が留まる。時間さえかければ、私にもできそうだ。
牛肉や香味野菜、赤ワインをカートに入れ、帰宅してタブレットを立てかけ、レシピを開く。
分厚い牛肉を一口大に切り、塩こしょうを振って薄く粉をまぶす。鍋を温め、オリーブオイルを垂らし、ジュワッと音を立てて香ばしい匂いが広がる。両面に焼き色がついたら皿に取り分ける。
同じ鍋でみじん切りの玉ねぎを透明になるまで炒め、涙が滲むのをこらえながら甘みが出るまでじっくりと。人参とセロリを加え、赤ワインを注いで煮詰める。
トマトピューレとブイヨン、ローリエを入れ、焼いた肉を戻して弱火でコトコト。やがて、肉はほろほろと崩れるほど柔らかくなり、野菜は溶けるように形を失っていく。香草の香りが部屋を満たし、時間の流れを忘れた。
仕上げに味を整え、皿に盛ると、深い色のソースから湯気が立ちのぼる。
スプーンで口に運ぶと、柔らかい肉と濃厚なソースが舌の上でとろけ、思わず笑みがこぼれた。時間をかけて作ったこの一皿は、何ものにも代えがたい達成感をくれる。
気づけば五、六時間が経っていた。集中しすぎて、時間の感覚を完全に失っていた。ビーフシチューの香りに包まれたまま、ふと気づく。
「……あれ、量多すぎじゃない?」
一人分としては明らかに作りすぎていた。たぶん三、四人分はある。食べきれない分は冷蔵保存かな――と考えていた、そのとき。
ぴん、ぽーん。
間の抜けたインターホンの音に、思わず肩が跳ねた。
――来客? 私に? そんなわけない。じゃあ、勧誘か何か?
火を止め、恐る恐るインターホンのカメラをのぞき込む。そこに映った見覚えのある顔に、思わず「なんで?」が浮かぶ。
「……はい」
「渡来さん? 天川ですっ」
予想外の来訪者に、一瞬言葉を失う。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
慌ててドアを開けると、少し心配そうな表情の天川さんが立っていた。
「やっほ。休んでる日にごめんね? 体調は……大丈夫?」
その声には、あたたかい気遣いがにじんでいた。気づけばもう下校の時刻らしい。外の空は、天川さんの髪みたいにオレンジ色に染まっている。
「あ、ええと……うん、もう大丈夫……ですかね……?」
私が言いよどむと、天川さんが続ける。
「ならよかったよっ」
「……それで、何か用でしょうか」
「あっ、そうそう! 先生に伝達と渡し物を頼まれたんだよね〜。休むって連絡のあと全然電話に出ないからって、ちょっと怒ってたよ」
カラカラと笑う彼女とは対照的に、私はどきりとした。確かにスマホは何度か鳴っていた。料理中はタブレットばかり見ていたし、通知を放置していた。
「明日、体調に問題がなければ、前にサボった健康診断を受けに来てほしいって。それと……」
鞄から数枚の紙を取り出して、私に手渡す。
「昨日の文理選択、私と同じ文系にしたもんね。その資料の一部だって」
「あー……わざわざありがとうございます。けど、なんで天川さんが……?」
「私が渡来さんと一番仲良しだからって! 家は知らなかったから、住所は先生に教えてもらったんだけどね」
一番、仲良し。私と天川さんが? ……それは本当に?
先生の判断なんだろうけど――まあ、消去法でなら、そうなるか。クラスで天川さん以外と喋った実績などないのだから。
「……ごめん、迷惑だった?」
私が考え込んでいると、天川さんの表情が不安げに揺れる。
「あ、いや、そんなことないです。部活もあるのに来てくれて、助かりました」
慌てて言葉を選ぶ。何度か会話を重ねるうちにわかってきた。最初こそ“ギャル”だなんだと勝手に決めつけていたけれど、彼女はただ、純粋に“いい人”なのだ。
「あはは、たまに休むくらい平気だよ」
気を遣わせまいとするように、眩しい笑顔で笑う。その明るさは、厚い雲を押しのける日差しみたいだ。
浮かび上がる卑屈な自分の影も、少しだけ薄れていく気がした。
「あ、部活といえば、お昼休みに旧・創薬部の……羽月さん? って人が教室に来てたよ」
「え? 羽月さんが?」
思いもよらぬ名前に、心臓が跳ねた。
「うん。一年生の棟に大学生が誰か探しに来てる、ってざわっとしてたから、気になって声かけたら渡来さんを探してたみたい。今日は休みですって伝えたら帰ってったけどね」
「そ、そう……なんですね」
わざわざ一年の教室まで、何の用だったんだろう。……たぶん、私が昨日、急に帰ったせいかもしれない。
話があると言っておきながら、部室から逃げるように飛び出した。気になるに決まってる。しかも今日は学校も休んでいる。余計に心配させたかもしれない。
せめて、何か一言でも伝えておけば――いや、今さらか。そういえば、私は羽月さんの連絡先すら知らなかった。
「……本当に、大丈夫?」
顔をのぞき込む天川さんの瞳に、純粋な気遣いが宿っている。その真っ直ぐさに、思わず目を逸らしそうになる。
「何かあったら、何でも言ってよ? 私たち、友達なんだもん!」
友達――その言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
彼女の目に嘘はない。本気でそう思ってくれているのだろう。その温度が、かえって胸を刺す。
友達だとか、友情だとか。私のような人間が渇望してはいけない。浅く狭く、なあなあで生きていく――そう決めていたのに。
なのに天川さんは、私の都合なんてお構いなしに、閉ざした扉を軽々と押し開けてくる。
「ありがとうございます。来てくれただけでも助かりました」
わざわざ家まで来て、心配までしてくれた。その気持ちに、何かお礼をしたい――そう思っても、私にできることは限られている。
「それならよかったよ。じゃあ……帰ろうかな。なんか、良い匂いがして、お腹空いてきちゃって」
キッチンからは、トマトの酸味とビーフの旨みが絡み合う匂いが流れてくる。天川さんの鼻先が、くすぐったそうに動いた。
「あ、だったら、昼ごはん――じゃなくて、もう晩ごはん、かな。う、うちで食べますか? ちょっと、作りすぎて」
我ながら下手な誘い文句。でも、たまたま作りすぎたビーフシチューも、何かの因果だと思おう。
緊張のせいか、声が少し上ずったけど。そんな私をからかうでもなく、驚いた表情を一瞬見せた天川さんは、すぐにいつもの笑顔でうなずいた。




