第二十三話 白紙の好き
「ありがとう、綿音。引かれちゃうかと思って……怖かった」
「ううん。気づかなくてごめんね。でも、私は葵衣の味方だよ。応援するからね」
――夢を見ていた。
遠くから声が聞こえる感覚。昨日見た夢の会話だ。それは過去の回想。その続きを今から見せられるのだろう。そう、なんとなくわかってしまった。
葵衣がレズビアンであると打ち明けた後日。学校に着くと、教室には異様な空気が漂っていた。ざわめきは一見普段通りなのに、どこか湿り気を帯びた視線が一点に集まっている。泣きそうな顔で立ち尽くす葵衣の姿が、すぐに目に入った。
「この子、レズなんだって」
「まじやばくね?」
それは聞いていて、明らかに吐き捨てるような、突き放すような言い方だった。私が教室に着くまでにも、何度か繰り返されていたのだろう。空気に残る冷たい余韻が、その証だった。
「なんで言いふらしたの!?」
怒りと悲しみが入り混じったような表情で、葵衣は問いただした。しかし二人の女子は心ない言葉を重ねる。
「やっぱり、気持ち悪いじゃん」
「体育の着替えのときとか、変な目で見てたんでしょ?」
その言葉に、背筋に寒気が走る。
「そんな目で見てないから!」
必死に否定する葵衣。その声は震え、今にも掠れて消えそうだった。
「そ、そうだよ。私たちだって、異性に対して全員にそういう目で見るわけじゃないでしょ?」
私はなんとか声を上げる。葵衣はまるで断頭台に立たされているような気分だっただろう。ならば、私は弁護人だ。擁護する私の言葉に、二人の視線が鋭く突き刺さる。
「じゃあ、綿音は葵衣と付き合えるの?」
「それは……実際に告白されたわけじゃないし、わからないけど……」
言葉に詰まる。唐突に投げかけられた問いに、どう返せばいいのかわからなかった。心臓の鼓動が、ひときわ大きく響く。
「なに? じゃあ、綿音もレズなの?」
「わ、私は――」
「……もう、やめて!」
続きの言葉を言おうとした瞬間、葵衣が泣き叫んで教室を飛び出した。ハッとして追いかけようとする私を、背後から止める声がする。
「綿音、やめときなよ。なんでそんなに庇うの?」
「庇ってるとかじゃないよ。二人とも、昨日は良いこと言ってたのに。急にどうしたの?」
「あれは綿音に釣られて……」
「それに、冷静に考えたら普通じゃないじゃん」
普通? 普通って、なに? その言葉がぐるぐると頭の中で反響する。
「あんなの、放っといたらいいじゃん」
「綿音までレズだと思われちゃうよ?」
――もう、聞きたくない。
「でも、友達だから」
そう言って、私は葵衣の後を追って走り出した。
「……葵衣」
小学生の頃からの葵衣の癖だった。嫌なことがあると、よく校舎の陰で膝を抱えて座っていた。その記憶を頼りに探し回り、ようやく見つける。
近づいていく私に、葵衣がポツリと呟いた。
「やっぱり私って、おかしいのかな……?」
葵衣の肩が大きく震えていた。背中を丸め、すすり泣く声が風に滲む。しかし、私は何もできなかった。手を伸ばすことさえできず、その場に釘付けになったままだった。
――そこで目が覚めた。
思わず飛び起きる。気がつくと、冷や汗でパジャマがびっしょりと濡れていた。動悸は乱れ、息は荒い。まさに、これが悪夢というやつなのだろう。
「なんで……今になって」
あのときの夢を、今になって見せてくる。呟いた言葉は、静寂な部屋の中で響いた。
今日交わした羽月さんとの会話が頭をよぎる。今までの薬はすべて、プラセボ効果によるもの。だとすれば、自分の中に芽生えた感情は。羽月さんへの好意は。胸がぎゅっと締め付けられる。
「違う、違うから。これは……」
惚れ薬のせいで。昨日まではそう思っていた。だけど、惚れ薬のせいじゃないと今日知った。知ってしまった。そうであれば、どれだけよかったことか。
思考が堂々巡りする。葵衣が経験した苦しみ——今、私は同じ道を辿ろうとしている。罪悪感と恐れが入り混じり、涙が頬を伝い、枕に染みていく。
「ごめん……ごめん」
それが誰に向けての言葉なのか、自分でもわからなかった。葵衣に? 過去の自分に? それとも、今の自分に?
答えはまだ見えない。ただ、確かなのは、もう後戻りはできないということ。
羽月さんのことを考えると、嫌でも胸が高鳴る。そして同時に、過去の記憶がよぎり、葵衣のことを思い出す。
「私は、どうすれば……」
問いかけは、闇の中へと溶けていった。窓の外は、まだ真っ暗だ。この感情と向き合うには、私はあまりにも勇気が足りなかった。
ああ、そうか。葵衣は、こんな気持ちだったのか。こんなに……辛かったのか。なのに、私は助けられなかった。学校に来なくなってしまってからも、ろくに手を差し伸べられなかった。
だから、これは、そんな駄目な子の私への罰なのかもしれない。そんなふうに思う。枕に顔を埋め、泣き疲れたころには、うつ伏せのまま眠りに落ちていた。
――それから、何時間が経ったのだろう。
次に目が覚めたときには、もう外は明るかった。頭にかぶさっていた毛布から、顔を出す。目覚まし時計は設定し忘れていたらしい。とっくに学校に行かなければならない時間はすぎている。
「……はい。なので、休みます。……はい」
衝動的に、休む連絡を学校に入れていた。動きたくない。人に会いたくない。もはや、きちんと連絡を入れただけでも偉い。
私はもう一度寝ようと目を瞑る。全然、眠くはないけど……素数でも数えてれば寝られるだろうか。
うーん……ああ、駄目だ。数十秒で、わかった。眠れない。そもそも、いつもより遅く起きたわけだし、睡眠時間が足りていないわけじゃない。そりゃそうかと深く息がこぼれる。
だけど、学校に行く気力は一ミリも湧かなかった。ベッドに寝そべったまま、天井を見つめる。これまでの創薬部での活動が、羽月さんとのやり取りが、過去の出来事が混ざり合って頭の中でぐるぐると回り続けていた。
「プラセボ効果……か」
呟いた言葉が、空虚な部屋に響く。プラセボ効果……その単語は聞いたことはある。意味も、なんとなく。だけど、具体的にどういう意味なのか詳しく考えたことはなかった。羽月さんからも説明は受けたけど、もう一度冷静な頭で確認したい。
スマホを手に取り、『プラセボ効果』と検索する。検索結果には、さまざまな説明が並んでいた。その中から一つのサイトを選び、クリックする。ページが表示されると、以下のような説明が目に飛び込んできた。
『プラセボ効果とは、偽薬を服用した際に実際には薬効がないにもかかわらず、病状が改善する現象のことです。これは、患者が『この薬は効く』と信じることによって、脳がその信念に応じて体の反応を変化させるために起こります』
えーと、つまり。この例で言うと人の「思い込み」や「信じる力」が、実際に体に影響を与えるということだ。
羽月さんが江夏先輩に作った『告白する勇気が出る薬』を思い返す。今思えば、薬を作る工程から会話の細部まで、プラセボ効果を引き起こす仕掛けが巧妙に施されていたのかもしれない。やけに自信ありげに見えたのも、「この薬は本物だ」と信じ込ませるための演出だったのだろう。
……なんだかマジシャンの手品の種明かしを聞かされたような気分だ。
もう少し調べてみると、プラセボ効果は医療現場でも利用されていると書かれていた。例えば、新薬の臨床試験では、実際の薬と偽薬を使ってその効果を比較するために用いられる。これによって、本当の薬効と“思い込みの力”を見極めることができるという。
そこまで読み進めて、私は思わずスマホを伏せた。――羽月さんの作る薬は、すべてプラセボ効果を利用したもの。じゃあ、私が羽月さんを好きになったのも、思い込みによる錯覚なのだろうか。
……わからない。今はまだ、はっきりとした答えは出せそうにない。
とにかく、頭が痛くなってきた。
活字を追いすぎたせいか、学校を休んでいるはずなのに終わりの見えない小テストを解かされているような気分だった。
まさか、“好き”という問いの解き方で悩むことになるなんて。答えは、白紙のまま。




