第二十二話 クスリのカラクリ
放課後、部室に向かう足取りが重くなる。惚れ薬の拮抗薬について羽月さんに相談する必要がある。
そう思いながらも、原因が薬にあるとはいえ、羽月さんのことが好きになってしまったといったん打ち明けなければならないことにためらいを感じる。部室のドアノブに手をかけた手が一瞬止まる。
……でも、悪いのは私じゃない。うん。だから、大丈夫。深呼吸をして、ゆっくりとドアを開ける。
「お、来たか。体調の方は大丈夫なのか?」
いつもどおり白衣姿の羽月さんが、本のようなものをパラパラとめくりながら振り返る。そんな仕草を見ただけで、少し鼓動が早くなる。まるで心臓が羽月さんの指の動きに合わせて踊っているみたいで、これじゃ本当に少女漫画の主人公だ。
「はい。大丈夫です」
「そうか。……まだ少し顔が赤いような気がするが」
「熱はありません。これには、事情があるので」
「事情?」
羽月さんが小首を傾げる。私は言葉につまる。どうやって切り出せばいいんだろう。そう考えているうちに、羽月さんの持つ本が目に入る。いや、本じゃなくて、読んでいるのは教科書のようだ。
「勉強してたんですか?」
いったん、普通の会話に逃げる。場が温まってから、でいいよね? なんて自分自身に言い訳をする。
「勉強というほどかしこまったものじゃないが、たまにこうして目を通しているんだ。授業に出ない以上、一定の成績を残す必要があるからな」
たまに目を通す。……それで一定の成績を残せるものなのか? そんな疑問が頭に浮かんでくるものの、この人を普通の定義で測ってはならないと考えを改める。羽月さんはいったいどんな脳の構造をしているのだろう。天才には凡人の常識は通用しないということなのかもしれない。
「うちは進学校だ。外部入学の入試を通った君なら問題はないと思うが、将来を見据えるのなら油断はしないことだ」
先生みたいなことを言う。まあ、格好だけ見れば生徒というより教師なのはそうだけど……。白衣姿で教科書を手にした姿は、若き研究者のようだ。
「将来……文理選択すらまだ定まっていないんですけどね」
「文理選択は……確か一年生の三学期からだったか。まだ時間はあるんじゃないか?」
「今朝のホームルームで現時点での希望を提出しました。適当に、前の席の子に書いてもらいましたけど」
「言葉通り、適当すぎるほどに適当だな。希望がなければ、得意科目にでも合わせればいいだろう」
ごもっともな発言だった。しかし、その言葉には年長者としての気遣いを感じる。
「それで、どちらにしたんだ?」
「あ、はい。私は……文系にしました」
「そうか。私も文系だ」
「え!?」
思わず声が大きくなる。白衣を着ているから当然理系だと思っていたのに。これが先入観ってやつか。まさに、本は表紙で判断するなってやつだ。
「意外なのか?」
羽月さんの口元に、微かな笑みが浮かぶ。その表情に、どこか意地悪な楽しみを感じる。まるで、私の反応を予想していたかのようだ。
「では、その先入観にちなんだ話をしようか」
そう言って羽月さんは教科書を閉じる。
「……そういえば昨日、話があるって言ってましたよね」
その話を思い出す。それで、私の体調が戻ったら話すという流れになっていた。
「あ、私も話があるんでした」
「君からとは珍しいな。いったい何の話だ」
「ただ、少し込み入った話になるので、羽月さんからお願いします。……コーヒー淹れながらでもいいですか?」
「ああ、わかった。ありがとう」
返答をもらい、私はいつものようにマグカップを用意し、コーヒーメーカーに向かう。
「それで確認なんだが、君はここまで創薬部として活動してくれている。して、居心地のほうはどうだ?」
「まあ……悪くはないですね」
作業の流れのまま、返答する。正直、想像よりも気負わず、無理せずにいられた。ここでいいと言わないのは、本来持つはずのなかった感情を抱かされたせめてもの反抗のようなものだ。
「創薬部として活動して行こうかな、とは思ってますよ。もう、来週中には決めないといけないですし」
どの部に入るのかの期限は二週間だ。入学式が水曜日だった関係上、期限は来週の水曜日までとなる。まだ時間はあっても、ここ以上の場所が見つかるとも思えず、そもそも今後探す気力が起きる気もしない。
「なら、この創薬部で私がしている研究……本当の目的を話しておこうと思う」
その発言で、タイミングよくコーヒーの香りが部室に広がる。できあがったコーヒーをマグカップに注ぎ、羽月さんに渡すと、いつものようにうっすらと感謝の笑みを浮かべる。
「本当の目的?」
だけど、私にはその言葉が引っかかった。薬を作ることに対して、何か特別な理由があるのだろうか。わかるのは、これからする話がとても重要なのだろうという雰囲気を読み取れたことぐらいだ。
「君はこれまで、創薬部としてさまざまな薬の開発を見てきただろう。『告白する勇気が出る薬』や『インスピレーションが湧く薬』など」
羽月さんの言葉に、私は静かにうなずく。最初は眉唾ものだと思っていた。だけど、ちゃんとした薬だというところも見てきた。そして、その中には……私が飲んでしまった“惚れ薬”もあるはずだ。
「実は、それらの薬はすべてプラシーボで、実際の薬効などはないんだ」
「え?」
思わずかすれた声が出る。何を言っているんだろう。一瞬、言葉の意味が理解できない。
「正確にいえば、薬そのものに効果はなくとも、飲んだ者には効果があったと感じる。これを、プラセボ効果という。聞いたことはあるだろう?」
プラシーボ、プラセボ効果……詳しく調べたことはないけど、確かに聞いたことはあった。
「例えば、さっき君が私を理系ではなく文系だと知って驚いたように、白衣を着た人には科学者か医者だという先入観がある。その先入観によって、白衣を着た私が薬を作ることに違和感を抱かず、説得力を増すことになる」
羽月さんは、私の反応を見ながら続ける。
「同じように、薬についても先入観が働く。たとえば、解熱剤だといってなんの効果もない薬を渡すと、その偽薬を飲んだ本人は信じ込んで、本当に熱が下がったように感じることがある。これがプラセボ効果という現象の本質だ」
何も言わない私に、羽月さんが丁寧に説明してくれる。聞いて、改めて私の認識と相違ないことがわかる。……わかってしまった。
「つまり、この創薬部の本当の目的は、プラセボ効果の研究なんだ。そして、私がこうして作っている薬は、そのプラセボ効果を最大限に発揮させるための工程にすぎない」
羽月さんの言葉に、頭が混乱する。今まで見てきた薬の開発、そして依頼してきた人への効果。それらはすべて、心理的なものだったということか。
「でも、私が飲んだ薬は……」
言いかけて、口ごもる。あの惚れ薬のことを、どう説明すればいいのだろう。
「ああ、君が飲んだ薬のことか。あれも同じだ。大きな効果を期待する薬ほど、実際にはプラセボ効果が出にくい。薬を飲んだからといって、人は空を飛べない。それと比べるとなんでもない効果に聞こえるかもしれないが、人の好きという感情を操作するのは容易ではない。故に、君には何も起こらなかったはずだ」
羽月さんの言葉に、私は言葉を失う。何も起こらなかった? いや、確かに何かが起こっている。私の気持ちは、確実に変わってしまった。
散々悩んだ。人にも相談した。そして、結果的にそう結論づけた。それなのに、それがあの薬の効果ではないというのなら……。
「拮抗薬の話がありましたが、それはどういう仕組みで……」
「それも同じく、プラセボ効果を引き起こす他ない。もっとも、そのカラクリを知った人間には通用しないものだ」
その言葉が本当ならば、私に対して拮抗薬を作ることはできないという話になる。それも当然だ。
「つまり、この部活も、薬も、すべてプラセボ効果を引き起こすための仕掛けのようなものだ。突然の話に困惑するだろうが、正式に入部する君には、この研究の詳細を話すべきだと思ったんだ」
いつもより饒舌で、どこか楽しそうに語る羽月さんの言葉が、遠くから聞こえてくるように感じる。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。
「君のことなら、薬に効果がないことも知っている可能性を考慮したが、その様子だと気づかなかったようだな」
そう安心したようにいって、コーヒーをすする。そんな考えには至らなかった。余裕がなかった。今でさえ、なぜこんな状況になっているのかすらわからない。
「ああ、そうだ。君にも話があると言っていたな」
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私の気持ち、この胸の高鳴りは、薬のせいではない。その事実に気づいた瞬間、私は……。
「もう私の話はこれでいいだろう。それで、いったい何の話で――」
マグカップにつけた口を離し、私のほうを見た羽月さんは目を丸くしていた。
「君は、なんで泣いているんだ?」
その言葉に、自分の頬を伝う涙に気づく。次の瞬間、私は部室から飛び出していた。




