第十八話 経過報告
――そんな安定しない感情に苛まれているからだろうか。月曜日の朝、私はいつもより早めに学校に登校していた。朝日が窓から差し込み、教室全体を柔らかな光で包み込んでいる。
そんな穏やかな雰囲気の中、私はよそゆきの猫のように静かに教室に入った。
朝露の匂いがかすかに残る空気を吸い込みながら、ゆっくりと自分の席に向かう。カバンを机に掛け、椅子に腰を下ろした。
制服のスカートのプリーツを丁寧に整えながら、ふと窓の外に目をやる。校庭の木々が朝風に揺れ、葉が作り出す影が地面で踊っているように見えた。
教室の中では、数人の生徒たちがすでに席に着き、まだ眠そうな顔で小声で会話を交わしている。
「あっ、おはよー! 珍しく早いねっ」
天川さんの声が、まるでクラッカーを鳴らされたみたいに耳に飛び込んでくる。その明るい声は、静かだった教室に活気をもたらし、他の生徒たちも、彼女の声で一気に目が覚めたようだ。
「おはようございます」
それに反発するわけではないけれど、私は静かに挨拶を返す。声のボリュームは天川さんの十分の一くらいだろうか。これが動画配信なら音量調整に一苦労しそうだな、なんて余計な考えが頭に浮かぶ。
「ねえねえ、土日は何してたの?」
天川さんが身を乗り出すように尋ねてくる。その好奇心に満ちた瞳は、好物を視界に捉えた子犬のようだ。机に両肘をついて、顔を近づけてくる彼女の髪から、甘いシャンプーの香りがする。
「土曜は……部活動の一環、ですかね」
羽月さんとの出来事を思い出し、言葉を選びながら答える。心の中では『部活って言えるのか、これ』とツッコミを入れたくなる自分がいた。
「へえ、よかったっ。部活動の一環っていうのは創薬部——のことだよね?」
「はい、ですね」
「じゃあ、入部するってこと? でも、今は廃部になってて……?」
「なんか復活するかも、という話が出てて。たぶん、入ることになるのかなと」
「へえ〜! じゃあ、それだけすごい馴染んでるってことなんだね? よかったよかった!」
「あー、まあ……そうなんですかね?」
曖昧な返事になってしまったけれど、本当のところはよくわからない。とは言え、そう悪くはない。そんな気がする。……自分で言っていて、なんて要領を得ない答えだろう。
「あははっ、そうだと思うよ?」
だけど、天川さんはなんでもプラスに捉えられる能力の持ち主のようだ。彼女に大丈夫だと言われたら、ただ頷くしかない。
羽月さんとは、また違うカリスマ性があるのだろうと感じる。天川さんの場合は、その明るさと前向きさが周囲を巻き込む力を持っているんだろう。
「じゃあ、日曜日は?」
ところで、質問はまだやまない。土曜日の内容だけで答えた気になっていた。だけど、日曜日の記憶と言えば――。
「日曜日は……瞑想?」
「え? 瞑想?」
私の発言に、天川さんの表情がコンピューターがフリーズしたみたいに一瞬固まる。思わず口に出た言葉だったが、あまりにも適当すぎた。
「いや、その……考え事をしていて。特に何もしていなかったっていうか」
慌てて言い繕う。天川さんの目が少し心配そうになり、眉間にうっすらとしわが寄る。
「大丈夫? なんか悩み事とかある?」
その言葉に、羽月さんのことが頭をよぎる。胸の奥で何かが軽くざわめく。心臓が一拍だけ早くなったような気がする。
「別に……大したことじゃないです」
そう言いながら、誤魔化すように窓の外を見る。私の表情から、何か察されてしまっては困る。
「そっか。でも、何かあったら言ってね?」
天川さんの優しい声に、申し訳ないと思いつつ、頷いた。これは、誰かに言って解決するような問題なのだろうか。……いや、駄目だ。駄目に決まっている。私の癒えない記憶が、その選択を拒んだ。
そのとき、ホームルーム開始のチャイムが鳴り、教室が静まり返る。周りの生徒たちが慌ただしく席に着く中、私は静かに窓に寄りかかった。
——放課後、私は重い足取りで部室へ向かっていた。
羽月さんに会うことへの複雑な感情が未だ整理できない。朝起きたてのフルーツスムージーのように、いろんな味が混ざり合った感覚で胸の中ではもやもやとした感情が渦巻いていた。
廊下には放課後の静けさが漂い、遠くでは部活動中の生徒の声がかすかに聞こえる。
「ほんっとうに、くっっっそお世話になりました!!!!!!」
部室のドアをひねると、爆音が聞こえた。思わず耳を押さえながら足を踏み入れる。部室の中を眺めると、私と同じく、ちょうど今来たばかりの様子の大宅先輩が、いつもの席に座る羽月さんに向かって叫んでいるようだった。
部室の空気は、いつもの化学薬品のような匂いに加え、大宅先輩の声圧のせいか、どこか高揚感に満ちているように感じる。
「あ、渡来ちゃん!?」
「は、はい。お疲れ様です」
「土曜日は助かったよ!」
私の存在に気がつくと、感謝の言葉と共に腕を掴まれ、ブンブンと上下に振られる。まるで人形のように扱われている気分だ。いや、人形よりも激しい。けれど、大宅先輩の嬉しそうな表情を見ると、抵抗する気が失せる。
「お、落ち着いてください。一体どうしたんですか?」
とはいえ、このままでは埒が明かない。助けを求めて、羽月さんに目線を向けると、苦笑いを浮かべている。その表情を見て、少しほっとする。少なくとも、私一人が混乱しているわけではないようだ。羽月さんの表情を見ると、なぜか心が落ち着く。
「どうやら、薬の効果があったようだ」
「そうなんですよ! 言われた通りに、家に帰ってすぐ寝て、起きたらもう……描きたい話がどんどん浮かび上がってきて……!」
その言葉を聞いて、そういうことか、と納得するのと同時に安心した。本当によかった。大宅先輩の喜びようを見ていると、まるで自分のことのように私も嬉しくなる。
「おかげで、また眠れなかったけど。今度は、違う意味で」
それはインスピレーションが湧きすぎて、描く筆が止まらなかったというプラスの意味での発言だと思う。確かに、髪には軽い寝癖が残り、目元にはクマができている。それでも以前と違うのは、その表情は明るかった。
「嬉しい悲鳴じゃないか。だが、また詰め込み過ぎるのはよくない。今は描くのが楽しくとも、ペース配分はしっかり調整するんだ」
「はいっ、わかりました!」
羽月さんの指示に大きく頷く姿は、まるで従順な犬のようだ。気持ちは理解できる。本人からすれば、窮地を救った恩人なのだから。
「じゃあ、帰ります。本当、ありがとうございました。一言、報告したくて」
「ああ、わざわざありがとう」
最後に大宅先輩がお辞儀をするので、ちょうどドアの近くにいた私が、見送る形で外まで一緒に出る。静かな廊下に、ドアが閉じる音がよく響く。
「あと、薬もだけど……漫画をまた描けるようになったの、渡来ちゃんの力も大きいんだ」
「え、私、何かしましたか?」
そんな大宅先輩の突然の言葉に、私は戸惑ってしまった。自分が何をしたというのだろう。ただそこにいただけなのに。
「今回描いた漫画の主人公、渡来ちゃんがモデルみたいなところがあるからさ。ヒロインが、羽月さんで。……あっ、後出しでごめんね?」
「……え? あっ。わ、私が、モデル?」
思わず声が裏返る。私がモデル? それは、大宅先輩の、漫画の? まさか。こんな面白みのない人間が、物語の主人公になれるわけがない。そう疑いかける私に、大宅先輩は至って真面目な表情で頷く。
「うんうん。一番は薬のおかげだろうけど、渡来ちゃんと羽月さんがあんなにラブラブしてたから描けた話だよ。そのおかげで、私、自分が本当に描きたい話ってのを理解して、思い出すことができたんだ」
「らぶ、らぶ? ちょ、ちょっとその話、詳しく――」
さっきから、聞き捨てならない発言ばかりが耳に飛び込んできて、慌てて聞き返す。
ラブラブ? 私と、羽月さんが? そんなバカな。
言われて、なぜか頬が熱くなる。……実体験として、そう捉えられてもおかしくない言動があったからだ。
今振り返ると、恋愛シミュレーションゲームの主人公になったような気分だった。だけど、あくまで私は被害者側だ。故意にそうしたかったわけではない。
「あっ、ごめん! しばらく学校以外の時間は、家に缶詰めで描き続けたいから、もう行くね? 今日はお礼に来ただけ! なんか用事あったらDMでお願い! アカウント名、オタ香だから!」
すごい早口でまくし立てられる。オタ香……アカウント名兼活動名? ああ、大宅萌香でオタ香ってことかな? なんて安直な――って、そうじゃなくて! もっと聞きたいことがあるのに。
「んじゃ、ばいばーい!」
そう言って、腕をぶんぶん横に振りながら走り去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私の頭の中は混乱の渦だ。……どうしてこうなった。




