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第十七話 花飾りのヒロイン


「おい、二人とも何をしている。早く来い」


 羽月さんの声に、私たちは慌てて追いかける。小さな広場のようになった空間に出ると、そこには色とりどりの花が咲いていた。以前に来たルートとは少し外れているようだ。この裏山のどこに何があるか、羽月さんはどこまで把握しているのだろう。


「ここだ。この場所から花の蜜をいくつか採取する。終わったら部室に戻ろう」


 羽月さんの声が、花々の香りが漂う朝靄の中に響く。蜜の選定は羽月さんが行うと聞いていた。私と大宅先輩は待機するだけだ。


「ち、ちょっと休憩……」


 大宅先輩はそう言って、ちょうどいい岩に腰を下ろし、前かがみになって疲れた様子を見せる。


「もうすぐ終わりますから、少しの辛抱ですよ」


 私が励ますように声をかける。


「うん……今日はぐっすり眠れそう……」


 集合してからそれなりに時間は経っていたが、まだ七時頃。朝も早いというのに、もう就寝のことを考えている大宅先輩。その少し情けない姿を横目に、羽月さんは手際よく花々から蜜を採取していく。その様子を眺めていると、幼い子が花を摘む、ほほえましい光景にも見えてくる。


「これは……」


 ふと、羽月さんが振り向き、手に持った紫色のスミレを見せてくる。


「このスミレ、きれいだと思わないか?」


 突然のことに驚きつつ、私は小さく頷く。羽月さんは、ふと思いついたかのように、スミレを私の髪にかんざしのように差し込んだ。その仕草があまりに自然で、私の心臓が一瞬止まったかと思えば、すぐに激しく鼓動し始めた。


「これで君も、より華やかになったな」


 羽月さんの言葉に、私は顔が熱くなるのを感じる。横目で見ていた大宅先輩は、その光景に目を輝かせ、興奮した様子で息を呑んでいた。


「な、なに……今の……?」


 ――そんなこと、私が聞きたいです。


 そう声に出せば、感情を露呈してしまいそうで。私はただ首を傾げることしかできなかった。


「……よし、待たせたな。部室に戻ろうか」


 羽月さんの言葉に、私は我に返った。羽月さんの行動の意図を理解しかねて、呆然としている間にも採取完了の報告を受ける。言われるがままに、私たちは静かに裏山を後にした。




 そのまま部室に戻ると、羽月さんはすぐに集めた材料を丁寧に調合し始めた。その手際の良さに見とれていると、今朝からの出来事が頭をよぎる。どうしよう、これは口にしていいのか。迷いつつも、勇気を振り絞って、私は声をかけた。


「あの、羽月さん」

「ん? どうした?」


 羽月さんは手を止めずに答える。


「今日の羽月さん、少し様子が……違うような気がするんですが」


 言葉を選びながら、私は続けた。


「急に距離を縮めてきたり、私を……その……惑わせるようなことをしたり」


 羽月さんはゆっくりと顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべる。


「そうか? 特に変わったことはしていないつもりだが。気のせいじゃないか?」

「でも、さっきのスミレの花を髪に挿してきたり」


 私は髪に挿したままのスミレに触れながら言った。


「ああ、それか。なんてことはない。君の髪に合いそうだと思っただけだ。それとも、嫌だったのか?」

「い、いえ、そういうことではなくて……」


 慌てて否定する私に、羽月さんはあくまで冷静な表情で返す。


「なら良かった。さて、この調合も大詰めだぞ」


 羽月さんの手元から淡い芳香がこぼれてくる。甘さの中に、どこか爽やかな香りが混ざっているようだ。私の質問をさらりとかわされたことに少し戸惑いを感じつつも、その香りに気を取られる。


 私たちが静かに見守る中、羽月さんは最後の仕上げに入った。先ほどの会話が夢だったかのように、いつもと変わらぬ冷静さで作業を続けている。


 そのとき、大宅先輩が小声で私に話しかけてきた。


「あのさ、渡来ちゃん。いつもこういう感じなの? 羽月さんと」

「え? いえ、まだ出会ってから三日目ですし、なんか今日、様子がおかしいような気も……」


 私は少し慌てて答える。


「へえ、前からの知り合いとかじゃないんだ? それで、三日でこんな雰囲気になるなんて……実に興味深いね」


 大宅先輩の目が好奇心に満ちて輝いている。


「い、いえ、そんな……」


 言葉を濁す私に、大宅先輩はニヤリと笑った。


 その間にも、羽月さんの手は止まることなく動き続けていた。薬の仕上げに集中しているのか、私たちの会話には一切反応を示さない。瓶の中で液体が静かにうねり、色が少しずつ変化していくのが見える。


 しばらくして、羽月さんが満足げに頷いた。


「よし、できたぞ」


 小さな瓶を掲げる羽月さん。中には淡い黄色の液体が入っている。


「大宅くん、これを飲んでみてくれ」

「えーと……はい」


 大宅先輩は少しためらいながらも、瓶を受け取る。


「これを飲めば本当にインスピレーションが湧くのでしょうか?」

「効果には個人差があるだろうが、期待はできるはずだ」


 羽月さんの言葉に、大宅先輩は小さく頷き、一気に薬を飲み干した。


「うっ……これ、酸っぱいですね」

「ああ、少し刺激が強いかもしれないな。だが、それも効果の一部だ」


 思わず顔をしかめる大宅先輩に、羽月さんが落ち着いた様子で説明する。


「他にはどうだ? 何か感じるか?」

「う、うーん……今のところは特に……酸っぱさ以外は」

「そうか。まあ、すぐに効果が出るわけではない」


 羽月さんが続けて説明を始める。


「この薬の効果が最大限に発揮されるのは、十分な休息を取った後だ。今日は早めに帰って、ゆっくり休むといい」

「ゆっくり……ですか。わかりました」


 大宅先輩は困惑した表情を見せる。心配しているのかもしれない。けれど、最終的には素直に頷くと、羽月さんは「ただし」と続け、真剣なまなざしで付け加える。


「仮にこの薬が効果を発揮したとしても、それは一時的なものに過ぎない。いかなる薬でも、自己成長や心の成熟を代替することはできないからだ」

「わかりました。ありがとうございます」


 大宅先輩が静かに答えた。その表情には、何か決意のようなものが垣間見えた。この発言は、以前にも聞いたことがある。羽月さんにとって、大切な注意事項なのだろう。


「では、解散しよう。大宅くん、苦手な朝からすまなかったな。ご苦労さま」

「いえ、今日はありがとうございました。渡来ちゃんも、ありがとうね!」

「あ、いえ、私は……」

「そうだな。君には今回も助けられたよ」


 最後に、先輩二人から労いの言葉をもらう。否定は――わざわざしなくていい。素直に二人に対して頷く。


「うまくいくといいですね」

「そう、祈るよ……!」

「ああ。だが、最後は大宅くん次第だ」

「はいっ!」


 結局のところは本人次第――大宅先輩はしっかりと頷く。うん、大丈夫そうだ。早朝に見たときよりも背筋が伸びた後ろ姿を見送りながら、根拠はないけど、何となくそう思った。


「じゃあ、私たちも帰り支度をしますか?」

「ああ。私は実験器具を。君はマグカップを頼む」


 あとは部室の片付けを済ませるだけだ。その時間は、不思議と無言だった。何となく、気まずい……わけじゃない。ただ、私から声をかけるのをためらった。


 原因は、今日の羽月さんの行動の一言に尽きる。特に変わったことはしていないと言っていたけど、とてもそうには思えなかった。


「また、月曜日にな」

「はい。お疲れ様です」


 片付けも終わり、まっすぐ家に帰ると、なんだか頭が回らないまま時間だけが過ぎて、気がつけば夜になっていた。


 夕食とお風呂を済ませ、ベッドに横たわる。天井を見つめていると、今日一日の出来事が頭の中でぐるぐると回り始めた。


 真っ先に浮かぶのは、羽月さんの不可解な行動だ。考え込みながら、髪に挿されたままのスミレの花を手に取る。……確かに、きれいだ。


 しかし、考えれば考えるほど答えは遠ざかっていく。まるで迷路に迷い込んだネズミのように。そして、もう一つ気になることがある。羽月さんの行動に、私の心が大きく揺さぶられたこと。


 普段は冷静で理知的な羽月さんが、私に対してあんな態度を取るなんて。しかも、まったくわざとらしさがない。まるで自然な流れだったかのように。


 胸の奥がもやもやとする。困惑? 戸惑い? それとも……。


「ああもう、わからないっ!」


 思わず柄にもない大声がこぼれてしまい、慌てて口を押さえる。この気持ちの正体が掴めない。明日は日曜日。このまま羽月さんに会わずに済むと思うと少し安堵する。なのに、月曜日になれば羽月さんに会えると考えると、胸がざわつく。


 そんな相反する感情を抱えたまま、眠りについた。意識が途切れる直前まで、羽月さんの姿が脳裏から離れなかった。


 そのもやもやは後日になっても晴れず、平常心を保とうと努めても心が落ち着かない。なんだ、この少女漫画の恋するヒロインみたいな状況は。


 ……いやいや、そんな例えすら想像してしまっている自分が怖い。違う。これは大宅先輩の言った「百合」発言の影響を受けているだけなんだ。


 結局、私は貴重な休日をただ頭を抱えるだけで無為に過ごしてしまったのだった。


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