第十六話 背伸びの白衣さん
早朝の裏山は霧に包まれ、湿った空気が肌を冷やす。
息を吐くと白い煙が立ち上り、新緑の香りが漂う中、小鳥のさえずりが静寂を破った。
「私、裏山入るの初めてだ……どきどき」
大宅先輩が言葉とは裏腹に、少しげんなりした表情で山道に足を踏み入れる。
せめて発言だけでもポジティブを保っていようという考えだろう。弱々しい抵抗に、苦笑が漏れる。
その裏山へ入る際に必要な許可証についてだが、昨日のうちに生徒会で受け取っていた。
そのとき、江夏先輩と生徒会長から先日の件について礼を言われている。
「昨日はありがとうございました。おかげさまで……と言えばいいのかはわかりませんが、交際することになりました」
江夏先輩は少し照れくさそうにし、生徒会長は苦笑していた。
私はただ「お役に立てたなら良かったです」と返すしかなかった。
別れ際、江夏先輩は「渡来さんも困ったら相談してください」と微笑んでくれた。
けれど私は「いえいえ、そのときは」と笑ってごまかしただけ。
本当は恋愛経験なんて一度もないのに……とは今さら言えなかった。
だからこそ、こうして裏山に足を踏み入れた今も、私は本当に必要なのかという思いはある。
「今回はこの赤い実を採取してほしい。特徴は高い木に実るところだ」
羽月さんは、以前と同じく解像度の低い画像をプリントした紙を見せてくる。
なるほど、今回は木の実が材料になるのか。見た目はチェリーに似ていた。
「それだけで、薬が完成するんですか?」
大宅先輩が神妙な表情で尋ねると、羽月さんは首を横に振った。
「いや、用意できるものは事前にある程度揃えてある。あとはいくつか花の蜜を見繕うが……その選定は私がするから心配はいらない」
「なるほど……わかりました、お供します!」
大宅先輩の返答を聞き、羽月さんは先頭に立って歩き出す。
その凛とした背中を見つめながら、私は考えを巡らせた。
生徒会役員二人の依頼のときもそうだったが、羽月さんの頭の中にはどれほど薬の完成図ができているのだろう。
大宅先輩の漫画にインスピレーションを与える薬——それは本当に可能なのか。
以前の依頼とはまた違う難しさがありそうだ。
「うう、なかなか足に来るね……」
「もう疲れたんですか?」
歩き出して五分。あまりに早い弱音に思わず突っ込みを入れると、大宅先輩はだらんと肩を落とし、苦々しい表情を浮かべた。
「もちろん、頑張るよ? でも、ほら、私インドア系オタクだからさ……ペンは動かせても足は動かないのさ」
言葉は上手いことを言っているようで、あまり格好良くはない。
……まあ気持ちはわかる。私もここ数年でどんどんインドア派に寄ってきている感覚がある。
「私も決してアウトドアな人間じゃないのでわかりますよ」
そう返すと、大宅先輩の目が輝いた。
「うんうん、渡来ちゃんって、見た目だけならギャル……っていうかちょっと怖いけど、喋ってる感じだとダウナー系ギャルって感じだしね」
ギャルという言葉に反発を覚えつつも、ダウナー系と付け加えられると妙に納得してしまう。
……いや、たぶんそれも違うんだけど。
「そうなると、羽月さんはクール系だよね。……うん、相性いいかも……」
また何か妄想を組み上げられているような気がする。
そんな会話を続けながら、ふと疑問が浮かんだ。
そもそも、私だけの話ではなかった。この場にまで、大宅先輩は必要だったのだろうか。
薬の材料集めなら私と羽月さんだけで十分で、大宅先輩には部室で待っていてもらえばよかったのでは……。
……まあ、私が何を思うが、羽月さんが必要だと判断したのなら、それに従うしかない。羽月さんなりの考えがあるのかもしれないし。
そのまま木々の間を縫うように登っていくと、周囲の景色が少しずつ変化していった。
下草が薄くなり、代わりに岩肌が目立ち始める。
風が強くなり、肌寒さが増す中、羽月さんが大宅先輩に問いかける。
「大宅くんは、いつから漫画を描き始めたんだ?」
「うーん……絵自体は気づいたら描いてましたけど……漫画として意識し始めたのは、案外最近かもしれませんね」
「曖昧な答えだな」
「それまでも、結果として物語になったものは描いていたんですけどね」
大宅先輩は照れくさそうに答え、羽月さんが頷いた。
「私も今こうして薬を研究しているが、最初から薬を作ろうと行動していたわけではない。おそらく君も、ただがむしゃらに描いていた絵が他人の目に触れたとき、自分は漫画を描いているのだという意識が芽生えたのだろう」
「確かに……そうかもしれません」
「案外、私が薬を作る行為と君が漫画を描く行為は、そう大きくは変わらないのかもしれないな」
大宅先輩は納得したように頷いた。
私は二人のやりとりを聞きながら、創作に携わる者の感覚の不思議さを思う。
二人の言葉の裏にある行間を読み取れないもどかしさが胸に残った。
昨日の羽月さんとの会話が脳裏をよぎる。
創作でなくとも、自分にもそこまで没頭できる何かに出会えるだろうか。
そんな思いが胸の奥で渦を巻いていた。
「ん? あれは……」
不意に、私の目に何かが映る。
木々の間から漏れる陽光に照らされた赤い点。
それは視界の隅で宝石のように輝いていた。
反射的に足を止めた途端、後ろを歩いていた大宅先輩が私にぶつかる。
「あぅ!? わ、渡来ちゃん? 急に止まらないでよ……」
「す、すみません」
後ろから聞こえる大宅先輩の声には驚きと痛みが混ざっていた。
振り返ると、大宅先輩が鼻を押さえて顔をしかめている。
「い、いいけど……渡来ちゃんの頭、硬いよ……っ」
大宅先輩は涙目になっていた。
その様子に申し訳なさを覚えながらも、私の注意は別のところへ向かう。
見つけたものの正体を確かめたくて、自然と目が元の方向へ戻っていった。
「それで、どうしたんだ?」
私の突然の行動にも、羽月さんは冷静な声で問いかけてくる。
「あれです」
私は目の前の木を指さした。
見上げると、高い枝に赤い実が揺れている。
風に揺れる葉の隙間から姿を見せたり隠したりする様子に、自分でもよく見つけたものだと感心した。
「おお、よく見つけたな」
羽月さんも同じように感心した様子で声を上げる。
「この実が必要なんだが……少々高い位置にあるようだな」
そう言って羽月さんが腕を伸ばすが、明らかに届かない。
つま先立ちになっても、指先と実の間には歴然とした距離がある。
その姿を見て、思わず言葉がこぼれた。
「私が取りましょうか?」
私の提案に、羽月さんは眉間にしわを寄せ、口元を引き締めて振り向いた。
「いや、大丈夫だ。私にもできる」
そう言いながらも、やはり届かない。
何度か跳びはねるが、空しく手が空を切る。
髪が乱れ、息が荒くなり、白衣の裾が風になびいてひらひらと舞う。
その姿が妙に愛らしく、気づけば視線を奪われていた。
羽月さんは両手で白衣の襟元を整え、困ったような表情を浮かべる。
普段はきっちりアイロンの効いた白衣も、今は少しシワが寄っていた。
いつもの冷静沈着な印象とは違う、どこか人間味のある姿に胸が高鳴る。
「あの……やっぱり私が……」
「……仕方ない。頼んだ」
不承不承といった様子で羽月さんが諦める。
肩を落とし、白衣のポケットに手を入れる姿は、少し悔しそうに見えた。
私は軽く跳躍し、その実を掴んで羽月さんに渡す。
「……ありがとう」
そっぽを向きながら受け取る羽月さんの横顔に、かすかな赤みが差していた。
普段は見られない先輩の一面に、胸がどきりとする。
「さて、次はあっちだ」
羽月さんは気を取り直したように、さっさと歩き出す。
その凛とした後ろ姿を見つめていると、大宅先輩が私に近づいてきた。
先ほどの出来事について何か言いたげに、目を輝かせている。
「ねえ、渡来ちゃん。羽月さんって、可愛いよね」
「え? あ、まあ……」
「特に今のシーンとか最高じゃない!? 背が届かなくて、でも意地張る姿……これぞ! って感じでっ」
大宅先輩の目は輝き、興奮気味だ。
どうやら、さっきのやり取りにまた変なスイッチが入ってしまったらしい。
こんなに律儀に興奮してて……この人、本当に最後まで体力持つんだろうか。