第十五話 準備珈琲
「ああ、おはよう。もうそんな時間か」
肌寒い早朝の空気の中、約束より少し早く六時前に部室に着いた。室内では羽月さんが分厚い本を読んでいた。休日だろうと、変わらず白衣姿だ。
「おはようございます。早いですね」
「そうか? まあ、目が覚めてしまったからな」
言われた通りに来たものの、こんな時間に学校が開いているのか途中で不安になった。だが、杞憂だった。部活も多く学生寮もある学校だ。朝から活動している部があっても不思議じゃない。
……それにしても羽月さんは早い気がするけど。くつろいだ様子から、今来たばかりではなさそうだ。
「家、学校から近いんですか?」
「いや。高校までは寮で、大学に入ってからはアパート暮らしだ」
一人暮らしと聞いて意外に思った。白衣姿の羽月さんからは生活感が想像しにくい。部屋には本が積まれているのか、それとも整然としているのか。マッドな部屋か。
「そういう君は外部生だったな。一人暮らしか?」
「はい。寮も考えたんですけど、既にできあがったコミュニティに飛び込むのは……」
「なるほど。気持ちはわかる。実際は寮生同士で濃く関わる機会は少ないがな。私も浮いている方だった」
言い淀んだ私にフォローが入る。……でも「私も浮く」と断定されているようで、これではフォローというよりブローだった。
「どうした、そんないじけた顔をして。……寒かったか? もう少し遅くした方が良かったかな」
羽月さんの声が、朝もやに溶ける。窓から差す淡い光が白衣に影を落としていた。
「別にいじけてはいません……が、寒かったのは事実ですね」
カーディガンを羽織っても、早朝の空気は芯まで冷える。手を擦ると、羽月さんの瞳に好奇心が宿った。研究前の科学者のような輝き。胸がざわつき、心臓が震えた。
「……そうだな。ちょっと貸せ」
戸惑う間もなく、羽月さんが私の手を取った。
「いや、あの……」
包まれる感触に頭が真っ白になる。静寂に呼吸音だけが響いた。
「冷たいな。体温も低めか?」
そのまま首に添えられる。柔らかな肌の温もりと微かな柔軟剤の匂いに目眩がする。黒髪が指に触れ、さらりと流れた。
至近距離の羽月さんは危険すぎた。呼吸するたび胸がざわめき、言葉が出ない。一瞬が永遠に思える。
「おはようございまぁ〜すぅ……」
気の抜けた声とともにドアが開く。廊下の冷気が張り詰めた空気をかき消した。
「眠いし寒いし最悪……って、え?」
大宅先輩が立ち尽くし、驚きで固まった。
一瞬の静寂。次に表情が一変し、眠そうだった目が輝いた。
「お、おお……! こっ、これは……!?」
不味い、何か不味いスイッチが入った?
「朝から百合の花が咲くとは! ななななんという尊さ……!」
古典的なオタク反応に感心しかけるが、慌てて手を離した。
「あ、違うんです。これは——」
「説明不要! 完全に【休日の実験室にて、一輪の百合】第一話……!」
饒舌に語り始める大宅さん。羽月さんを見れば、余裕の笑み。
「ふふ、大宅くんは朝から元気だな」
「眠かったですが、今ので完っ全に目が覚めました!」
「目が覚めたのならいいことだ」
興奮気味の大宅先輩と微笑を浮かべて頷く羽月さんのコンビに、私はこめかみを押さえた。
まともなのは私だけ?
冷静になるため、強引に話題を変える。
「あの、そういえば……コーヒーまだでしたよね。淹れます」
二人の視線が集まる。これしか方法がない。
「ああ、それもいいな」
「まさかコーヒーを飲みながら百合の余韻に浸れるなんて……贅沢……!」
大宅先輩はまだ興奮気味だが、流れは変わった。
「羽月さんはブラック、大宅さんはミルクですね?」
「あっ、うんっ。ありがとう」
慣れた手つきで豆を計り、フィルターをセットする。湯を注ぐと豆がふくらみ、香ばしい匂いが広がった。
「渡来ちゃん、なんだか助手みたいだね?」
「まあ、本当に助手みたいなものですから」
「ううっ、教授と助手の百合カップル……!」
大宅さんは頬を赤らめ手帳を取り出す。ページの端に「教授×助手」「朝の共同研究」と殴り書きしていて、頭を抱えたくなった。
「ところで昨晩はよく眠れたか?」
「あ、はい。眠れないだろうと思ってたんですけど、ベッドに横になってたら気づいたら寝てて……」
二人の会話にコーヒーを挽く音と香りが混ざり、先ほどまでの奇妙な空気が薄れていく。
「お待たせしました」
湯気を立てるマグを渡すと、二人は待ち望んでいたように手を伸ばした。
「ありがとう」
指先が触れ、胸が跳ねる。顔が熱くなる。
「ありがとうね。うーん、あったまる……寝ちゃいそう」
「これからですよ」
突っ込みつつ自分のカップを手に取る。温かさが喉を通り、心が落ち着いた。
……落ち着いたはずなのに、羽月さんの視線を浴びるたび、頬が熱くなる。朝日に黒髪が輝き、目を奪われ、慌てて逸らす。
「あの、それで」
平静を装って話題を変えた。
「このあとは薬の材料を採りに行くんですよね?」
声が上ずる。羽月さんが軽く頷く。その目に企みの光が宿っていた。
「ああ。しかし、その前に——」
隣の羽月さんが身を寄せる。体温に全身が硬直する。
「さっきの続き、ここでしてしまおうか?」
囁きに、コーヒーを一気に飲み込み、咳き込みそうになる。
「ぐふ……っ! な、何言ってるんですか!」
「はは、すまないな」
心臓の鼓動が邪魔で意味が頭に入らない。大宅先輩は目を輝かせ、教材を見るようにこちらを凝視していた。
「あああ、百合の花が咲き誇る……! そこを動かないで! 今度こそ描き残します!」
手帳を取り出し、夢中でペンを走らせる。
「もう、好きにしてください……」
抵抗する気もなく、天を仰ぐ。唐突な接近に心臓は早鐘のまま、整理がつかない。
「さて」
唐突に、羽月さんが立ち上がる。
「コーヒーを飲んだら裏山へ行こう。せっかくの休日だ、時間は無駄にできない」
どこまでも羽月さんのペースだった。
だけどこの行動にも意図があるはず……そうであってほしい。口元には笑み。何かある、よね?
……そう思わないとやっていけない。
「も、もうですか……山登り、か……小学生以来だよ。足が動くかなぁ……」
大宅先輩は弱々しく呟く。丸めた背中はやけに頼らない。本当に憂鬱そうだ。
「大宅さん、途中でバテないでくださいね」
「うう、羽月さんか渡来ちゃんが手を引いてくれたら頑張れるかも……」
「はいはい……」
「ほら、二人とも、もう行くぞ」
「いや、むしろ二人が手を繋いでくれてたら……?」
そんなくだらないやり取りに、少し緊張がほぐれる。こういうのは、くだらなければくだらないほどいいのだから。