第十三話 同人作家ちゃん
「どうぞ」
その後、羽月さんが私を見て頷くので、昨日と同じようにドアに向かって私が返事をした。
「失礼します……」
ドアが静かに開かれ、一人の女子生徒が入ってくる。緊張した様子と、少しやつれた表情が印象的だった。その目には不安と期待が交錯しているように見える。
女子生徒は部室の中をオロオロと見回し、その視線が実験器具や本棚を彷徨う。昨日の江夏先輩とはまた違う緊張感を纏っている。
「君は、二年生か」
羽月さんが静かに尋ねる。確かに、黄色いリボンだ。女子生徒は小さく頷いてから、少し震える声で口を開いた。
「はい。その、以前から噂を聞いてまして。それでお願いがありまして……」
昨日と同じ流れだ。その言葉から、訪問理由はほぼ確定と言っていい。
どうやら創薬部に来る人の流れには一定のパターンがあるようだ。私も段々慣れてきたのか、自然に次の行動が頭に浮かんだ。
「では、"薬を作って欲しい"という依頼で創薬部に来られた認識でいいですか?」
私がそう問いかけると、女子生徒は真面目な表情で頷き返す。ここで、連日での仕事が確定した。心の中で、少し気を引き締める。
「よし、まずはそこの席に座ってもらっていいか? 話を聞かせてもらおうじゃないか」
「わかりました、ありがとうございます。……あ、私は大宅萌香です。よろしくお願いします」
そして女子生徒――大宅先輩がぺこりとお辞儀をし、来客用の椅子に腰かける。その間に私はちょうどできたコーヒーをマグカップに注いだ。コーヒーの香りが部屋に広がり、少しだけ緊張感を和らげる。
この一連の流れも、昨日と同じだった。
私なりに創薬部の一員として機能している気がして嬉しいような複雑なような、二律背反。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
昨日と同じように、羽月さんにはブラックを渡す。羽月さんは一口飲むと、満足げに頷いた。
「初めまして、私は渡来綿音です。必要であればミルクと砂糖をお使いください」
大宅先輩にも同じようにコーヒーを目の前に渡し、ミルクと砂糖を差し出す。ついでに、私の自己紹介も済ませておいた。
「ありがとうございます……あれ、一年生?」
私のリボンの色を見て学年を把握したのか、大宅先輩の目が少し大きく開かれ、驚きの色が浮かぶ。
「創薬部って部員さん、いるの? 噂では、羽月さんって大学生が占拠してるって……」
「その噂はあっていますが、訳あって。えーと……私が部長で復活するかもしれなくて」
私が部長。……本当に? 未だにそれで本当にいいのかと不安を抱かずにはいられない私だが、羽月さんはその私の言葉に満足げに頷く。
「そこの彼女が言っている通りだ。それで、私が羽月玖美。元創薬部の部長だ」
「あ、はい。噂は予々……」
大宅先輩が羽月さんを崇めるかのように、目の前で手を合わせた。なんて大袈裟な。羽月さんも羽月でさんで、腕を組んで満更でもない表情なのがな……。
「それで、どんな依頼で来たのでしょう?」
しかし、そこに除け者の私は手持ち無沙汰だ。話が進みそうにない気配を察知し、代わりに要件を聞く。
「あっ、ええとね。どう言えば伝わるか……」
サッと姿勢を正し、改めて羽月さんに向き直る大宅先輩。一々動きが慌ただしい人だ。一度ごくりと唾を飲み、緊張した表情で口を開く。
「その……『インスピレーションが湧く薬』が欲しくて、創薬部まで来ました」
そんな大宅先輩の声は小さく、自信なさげに聞こえる。
「インスピレーション……ということは、君は何か創作活動をしているのか?」
「そ、そうなんです!」
大宅先輩は大きく頷いた。その後、目線少し下に向けた後、決意を込めた目で再び上げた。
「あの、私、絵を……漫画を描いているんです。でも最近、どれだけ時間をかけて描いても、どうしても納得のできるものができなくて……」
その大宅先輩の震える声には重みが感じられた。
改めて大宅先輩を見ると、前髪が長くて顔がよく見えなかったが、目の下にはクマがあり、明らかに睡眠不足の様子だった。肩まで伸びた髪は寝癖が残り、ところどころアホ毛のように跳ねている。
やはり最初に見た通り、全体的にやつれた印象を受ける。その姿に、創作に打ち込む人間の苦悩というのが如実に表れていた。
私にも、何かに夢中になって眠れなくなった経験はある。だが、大宅先輩の様子は、それとは次元の違う切実さを感じさせる。
「ふむ。なるほど、創作のためのインスピレーションか……面白い依頼だ。では、その悩みに至った経緯をもっと詳しく教えてくれないか?」
羽月さんの声が静かに響く。感情の起伏が薄い羽月さんだが、何となく考えていることが読めてきた気がする。羽月さんの声色は抑えていたが、その目は少し輝きを帯びていた。
まるで新しい挑戦を前にした子供のような表情だ。大宅先輩が悩み、疲れ果てているのに関わらず、この対比がなかなか皮肉なものだと感じる。
「はい、もちろんです」
大宅先輩はそう言ってから、少し息を整えるように深呼吸した。その仕草に、話すことへの緊張と、何かを吐露することへの覚悟が見て取れる。
窓の外から差し込む陽射しが大宅先輩の疲れた表情を照らし、一瞬柔らかく見えた。
そうして、大宅先輩はゆっくり語り出してくれた。
「私、元々趣味が漫画を描くことだったんです。それで、その延長線上でSNSに短編漫画を上げていたんですが、ある日、いつも通り投稿した漫画が運が良かったのか、物凄くバズってしまって……」
大宅先輩の声には、喜びと戸惑いが入り混じっていた。SNSに短編漫画——ネットに一日の時間の大半を侵食された私も、何度も見たことがあった。
一度軌道に乗ればわざわざ宣伝しなくとも拡散され、オススメトピックとして上がってくる。一度でもバズれば、その影響力は創作者として絶大だろう。
「そこから、色んな人に注目されるようになって、自分の絵に興味を持ってくれる人がいる、こんな自分の漫画を待ってる人の期待に応えなきゃいけない、って思ったんです」
期待されて、期待に応える。そのプレッシャーは、とても重い。ましてや、それまでは趣味としてしか認識していなかったもので。そのギャップも大きかったはずだ。
「商業化に興味があるか——とか、そういう話ももらえたりして。だけど、それから、パタリと何を描いても納得できる話が描けなくなってしまったんです」
大宅先輩の声が少し震える。部室の空気が重くなり、壁に掛けられた時計の秒針の音が妙に大きく聞こえる中、羽月さんが尋ねる。
「なるほどな……それはいつから描けなくなったんだ?」
「初めてバズったのが三学期に入ってちょっとしてからだったんで、少なくとも春休みの間はほとんど作業をしていたんですけど……やっぱり、描いては没、描いては没を繰り返してしまっていて……」
大宅先輩の声には焦りと苛立ちが入り混じり、瞳には不安と疲れが映し出されていた。
その様子を見ていると、どれほど時間をかけて創作に取り組んでいるかが痛いほど伝わってくる。
部室の中はしんと静まり返り、コーヒーの香りが漂う中、大宅先輩の吐息だけが重く響いた。
「君がとても追い詰められているのはわかった。創作においてインスピレーションは確かに重要だ。しかし、無理に絞り出そうとしても逆効果だ。君がそこまでして、すぐに描きたいと思う理由はあるのか?」
羽月さんの言葉には温かさと洞察が滲んでいた。その冷静な瞳は、大宅先輩の内心を見透かすかのように、深く、しかし優しく見つめていた。
「それは……怖いんです」
大宅先輩の声は、か細く震えていた。
「怖い?」
「はい。私、絵を描くのが小さい頃からの趣味で、大好きだったんです。それで描いていくうちに、絵が自分の特技で、取り柄なんだってわかったんです。だけど、逆に言えば、自分には絵しかないんだって気がついたんです。なのに、それが描けなくなって……とにかく、よくわからないですけど……怖いんです」
震える言葉に深い不安と恐怖が込められている。
自分の存在意義が一つのものに依存しているからこその不安。それを失うことへの恐れ。
こんな姿を見てしまえば、どこかで聞いたことがある無理して頑張るぐらいなら逃げ出してしまえ——そんな無責任な言葉、吐けるわけがない。
「わかった。君が抱えている恐怖は、絵を描くことが君のすべてで、それを失うことがどれほど怖いか……理解した」
羽月さんの大宅先輩を見つめる眼差しは真摯そのものだったが、その声色は柔らかく、頼もしさに満ちていた。
「私に任せてくれ」
大宅先輩は少し安堵したような表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。




