第十一話 興味探し
大失敗の入学式から怒涛の出来事の連続な登校日初日、そして、今日——。
教室には朝の慌ただしさがあった。制服のリボンを直す女子生徒、慌てて宿題を写そうとする男子生徒、そして昨日のテレビ番組について熱心に語り合うグループ。
そんな新学期らしさ漂う賑やかさが、まだ目覚めきらない私の感覚を少しずつ現実に引き戻していく。
……良かった、間に合った。
さすがに二日連続で遅刻するのはよくないと思い、私はギリギリながらもホームルームの開始直前に何とか教室に辿り着いていた。
「あ、おはようっ。今日は早いね?」
「どうも……おはようございます」
自分の席に向かうと、天川さんに挨拶され、反射的に返事をする。天川さんはギャル仲間と談笑しており、その輪の中には笑顔が溢れている。……私の席、占拠されているな。はてさて、どうしたものか。
「じゃ、始まるから席戻るわっ」
「また後でね~」
時間までトイレに行っている振りでもするか——と考えついたところで、ちょうどホームルームの時間を知らせるチャイムが鳴る。おかげで天川さんの友人たちは散り散りになり、私の席が空いた。
下手な芝居を打つ必要がなくなって助かった。私は席に座りつつ、少し安堵の息を吐く。同じタイミングで五月女先生が教室に入り、出席の確認を始める。
「昨日の、創薬部の話だけど……どうだった?」
その途中、天川さんが振り返り、興味津々な顔で私に昨日の成果を尋ねてきた。
私は一瞬答えに詰まり、昨日の出来事が頭をよぎる。羽月さん、江夏先輩、生徒会長——昨日の出来事を簡潔に伝えるには私の語彙力では足りない。
どこから話せばいいのだろう。天川さんは期待に満ちた瞳でこちらを見つめている。とにかく、色々あった。だから、説明が難しい。……ひとまず、一つ挙げるとすれば——。
「なんか……変な薬作ってました」
「え……へ、変な薬? それって、どんなの?」
結局は、全ての元凶は薬。少し考え、答えた。
あれ、なんだか意図せず、危ない発言のようになってしまったな……?
「例えば——確か、三日前の夕飯を思い出す薬とか、水中で息を止めるのが少し長くなる薬とか、後は……告白する勇気が出る薬とか……」
このままでは羽月さんの名誉に関わる。私はすぐにどんな薬があるのかと答える。
「へえ……あっ、そういえば、中等部の頃、高等部には変な薬を作る人がいるって先輩に聞いたことがあったかも……それって、創薬部のことだったんだね」
その天川さんの言葉に、私は昨日の出来事と羽月さんを思い出す。
……確かに、あんなに個性的な人がいれば中等部でも噂にもなるかもしれない。そもそも、今は大学生でありながら旧・創薬部に通っている。
変人と天才は紙一重——いや、両立するものなのだろう、たぶん。昨日、確信した。
「まあ、変な人ではありましたよ。なんか、開口一番惚れ薬を飲まされましたし……」
「惚れ薬!? そ、それって大丈夫なのっ!?」
何気なくぼやいた私の発言に、天川さんが驚いた表情で反応する。
あ、やっぱりそうなるか。昨日の私の反応が大袈裟なわけじゃなかったのだと安心する。
「効果はなかったです。元は試薬品で、だから失敗作だったんだろう、と。それに、もしも効果があれば拮抗薬を用意するとも言ってたので」
「へ、へえ……なんか、私、すごいところ紹介しちゃったのかな……?」
徐々に、天川さんが申し訳なさそうな表情になる。
罪悪感を感じさせてしまったようで、私は慌てて手を振った。天川さんは本当に心配してくれているのが伝わってくる。
「いえ、最初はびっくりしましたけど……居心地自体は別に、悪くないというか……」
「そうなの? なら、よかったけど……」
「まあ、つまりはそういう薬が欲しいっていう依頼を受けて、実際に作るって感じです」
それ以上でも以下でもないので、まとめに入る。自分で説明しておいて、何なんだ、その部活は……と突っ込みを入れたくなる。
苦笑いを隠すように顔を向けた教室の窓から見える校庭から連なる正門では、春の柔らかな風が木々を揺らしている。窓を開ければ、きっと爽やかな風が教室にも入ってくるだろう。
その風景をぼんやりと眺めていると「でもっ!」という声と共に、天川さんがばんっ、と机を叩いた。その勢いのまま私に顔を近づけて、
「めちゃくちゃ面白そうじゃんっ。じゃあ、今度私も薬作ってもらいに行ってみるね!」
満面の笑顔でそう言われてしまうと、その彼女の明るさに気圧されて、ただ頷くことしかできなかった。その笑顔が、低血圧の私には眩しすぎたから。
……心の中で、創薬部に新たな来訪者ができることを想像してみる。天川さんのような明るい子が創薬部に現れたら、あの静寂な空間はどんな風に変わるのだろう。少し興味深い気もした。
授業中の大半はぼーっとしていた。まったく集中できていなかったと言っていい。ただ、授業開始が今日からということもあって、本格的な授業は二週目からで助かった。
この学校は入試のレベルが高く、進学校ということもあって油断はできない。その代わり、やるべきことをやっていれば自由が利きやすい。
それは、私の髪色や羽月さんの自由さを見ていればわかる。噂では、授業に出なくてもテストで良い点を取っていれば不問になるとまで聞いた。
ただし、授業中などに他の生徒の邪魔になるような行為をすれば、それは当然正される。
つまり、人に迷惑をかけず、結果さえ出していれば、大体何をしていてもいい。わかりやすい。私にとっては、とてもやりやすい環境だと言える。
廊下を歩く間、昨日の創薬部での出来事が再び頭をよぎった。あの部室の独特な雰囲気、羽月さんの謎めいた笑顔、そして……惚れ薬の一件。
本当に効果がなかったのだろうか、という疑問が心の隅に残り続けている。昨夜、ベッドの中で羽月さんの顔を思い浮かべたあの感覚は一体何だったのだろう。
「失礼します」
そんなことを考えながら教室から創薬部までの道のりを歩く。とはいえ、ホームルームが終わって寄り道なしで真っ直ぐ部室に向かった。
まだ誰もいないだろうと思いつつも、一応ノックだけしてドアを開けると、鍵がかかっていない。
「おお、君か。もう来たのか、早いな」
「こちらの台詞です。私、直行で来たんですけどね」
もちろん、羽月さんだった。昨日と同じダボダボの白衣をまとい、部室の奥で何かの器具を扱っているその姿は、まるで日常の一部のように自然で違和感がなかった。
しかし、既に部室にいるだけでなく、作業に取りかかっているとは驚きだった。昨日の出来事を思い出し、胸がざわついた。あの惚れ薬のことだ。……なんだか、少し緊張してしまう。
それを悟られないよう、注意をしながら部室に入ると、化学薬品特有の刺激的な匂いが鼻をついた。机の上には複雑な形をした実験器具が並び、びっしりとメモのように書き込まれたノートもあった。
「今日もコーヒーでいいですか?」
とりあえず部室に入り、羽月さんが座っていた席の隣に腰かけようとしたところで、机に置かれたマグカップの中身が空になっていることに気がついて問いかけた。
「ああ、頼んでいいか?」
「はい」
じゃあ、昨日と同じでブラックでいいか。私がコーヒーを作る片手間に、そのまま会話は続けられた。
「それで、いつから部室で作業してるんですか?」
「ん? 朝からだが?」
「……もしかして、部室に住んでます?」
「まさか、そんなわけないだろう」
私が冗談交じりに問いかけると、羽月さんは作業の手を止めてこちらに向いて答えた。
その瞳には微かな笑いが浮かんでいたが、嘘を言っているようにも見えない。
え、朝から、ずっと?
「その言い方だと授業——講義? には出てないんですか?」
「そうだな。最後にまともに出たのは……半年ほど前か」
そんな羽月さんのあっさりとした返答に、私は言葉に詰まる。大学の事情はよくわからないが、単位とかは大丈夫なのだろうか。……この余裕な態度を見るに、大丈夫ということだろうけど。
羽月さんを見ていると、常識という枠組みから完全に外れた生き方をしているように思える。それが天才ゆえなのか、それとも単なる変人なのか。……おそらく、それは両立するものなのだろう。
「君も授業に出るくらいなら、ここに来るといい。よっぽど勉強になるぞ」
そんな羽月さんの言葉には冗談や虚勢は見られず、本気でそう思っているように見える。しかし、私としては昨日の出来事が頭をよぎり、警戒心が働く。
「まあ……選択肢に入れておきます」
「ふっ、つれないな」
「また薬の被験者にされるのは嫌ですからね」
羽月さんの真剣な表情は、本気なのか冗談なのか判断しづらい。
コーヒーを淹れる湯気が立ち上る中、私は羽月さんの横顔を盗み見た。集中している時の表情は、昨日感じたような謎めいた雰囲気よりも、どこか子供っぽい真剣さがあった。




