第十話 心音、振動
「——と、そんな話をしている間にも薬ができたぞ。江夏くんに会長くん、こちらに来てくれないか?」
ちく、たく。静かな部室にかけられた時計が響く中、時間にして十分もかかっていないと思う——羽月さんが両手を広げ、二つの透明なカップを示した。
「このカップの中身が薬……ですか?」
「ああ、その通りだ。これが江夏くんの分、そっちが会長くんの分だ」
二つのカップには赤色と青色の液体が入っており、それに加え、それぞれ同色の丸薬が一錠ずつ液体の中に放り込まれていた。
なぜ二つも? その疑問を抱いているのは、おそらく羽月さん以外の全員だ。そのハテナマークに、羽月さんは理解を示すように頷く。
「実は今回受けていた依頼は二つ。一人は今日創薬部に訪れた江夏くん。もう一人が以前、創薬部に訪ねてきた会長くんだ」
生徒会長も、薬の依頼を? 私は知らなかったが、どうやら当の二人も知らないようだった。
「なるほど……鈴乃もそうだったのか」
「えっ? 鈴乃もって……」
「ああ、以前に会長くんは既に依頼に来ていた。その時は都合が合わず、新学期後にという話になったが、今回たまたま江夏くんの訪問もあり、合わせて作ることにしたんだ」
そう羽月さんが説明すると、納得したように頷いた生徒会長の横で、江夏先輩の方はまだ驚きを隠せない要だった。
生徒会長は以前から薬の依頼をしていたのなら、この全員で薬の材料を採取する流れに察するものがあったのかもしれない。
江夏先輩は全て今日の話で、ただでさえ生徒会長の前で心中穏やかではなかったはずだ。二人の理解の早さには差ができるかもしれない。
江夏先輩は生徒会長、羽月さんと交互に視線を向けて、最後に私にも向ける。
——いや、私も初耳で驚いていますが……。
……と言えば、さらに混乱してしまいそうなので頷いておいた。江夏先輩は動揺しつつも、それを見て頷き返してくれる?
「二人の依頼内容について、プライベートなものなのでここでは伏せておくが……まあ、気になるなら後で確認し合えばいい」
その配慮をするのなら、別々で薬を用意した方が良かったのでは? と思わなくもないが……何かそうするべき理由があったのだろうか。
「——それで、二人は飲まないのか?」
羽月さんの問いかけに、二人は顔を見合わせ、お互いの決意を確認するかのように頷いた。
「いいえ、飲ませていただきます」
「私も……失礼します」
二人はそれぞれ、液体と丸薬を口に含んだ。その慎重さを見ると、勢いのまま飲んでしまった自分が改めて考えなしだったように思える。
「それで、どうだったか聞かせてもらえるかな?」
空になったカップが机に置かれると、羽月さんは二人に感想を求めた。私の時と同じだ。
「どうだったか……なんだか、甘い味でした」
「僕のは、少しピリッとしました」
それぞれ味が違うのは、それぞれ依頼が別で、効果の違う薬だからだろうか。
「ああ、ありがとう。これで終わりとなる。三人とも、お疲れ様だな」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「本当に、ありがとうございました」
「薬の効果に関してだが——上手くいけばおそらく、今日、明日中には現れるだろう」
生徒会長、江夏先輩と礼を告げられ、羽月さんは満足げな表情で器具をまとめ始めた。私も慌てて手を貸し、後片付けをする。作業中の手元を見ていたはずなのに、結局何をしているかはよくわからなかった。
薬の効果があればいいんだけど——そんな思いからチラリと江夏先輩を見ると、「すぅー……はぁ……」胸に手を当てて深呼吸をしていた。それは、勇気を振り絞る助走のようにも見えた。
「——結城くん。お話があります。いいですか?」
……遂に、江夏先輩が。私は、思わず息を呑む。
江夏先輩から物怖じしない、上擦っていない声色が響く。そこには、それまでのよそよそしい態度も一切感じられない。
「……ああ、大丈夫だ。ちょうど、僕も話したいと思っていたところだ」
生徒会長の返答は毅然としていた。まるで何の話をしたいのか、もう理解したかのように。
「ここじゃ、ちょっと。着いてきてもらえますか?」
「わかった。行こう」
二人は頷き合い、視線を交わした。
「では、ここで解散としよう。薬に効果があったかどうかだが——その結果は、また後日にでも教えてくれたらいい」
最後に、羽月さんが締めの言葉を口にすると、部屋の空気が緩やかに変わった。窓から差す日差しは微かで、もう部屋は薄暗くなっていた。
「はい。改めて、ありがとうございました」
「それと……渡来さんも」
「え、私ですか?」
生徒会長と江夏先輩が二人揃って羽月さんにお礼を言う。その後、感謝の言葉は私にも向けられた。
「ああ、生徒会から二人もお世話になった。もし創薬部が復興となれば頼むよ」
「……わかりました。その時はよろしくお願いします」
え? いや、私は何もしてないですけど——そう言いかけたところで、それも無粋かと思ってありがたく受け取り、会釈しておいた。
その後、二人は部室を出て行く。これから、人目のないところで話をするのだろう。その内容は——さすがに想像がついた。
「……行きましたね」
「そうだな」
羽月さんは静かに頷いた。その表情には一抹の疲れと満足が混ざっているようだった。
「まさか依頼が江夏先輩だけじゃなく、生徒会長からもあったとは思わなかったです」
二人がいなくなったことで、私は直前まで気になっていた疑問を口にした。羽月さんは予想していたかのように、すぐに返答する。
「会長くんは新学期に入る前に、一度創薬部に来ていたんだ。彼はちょうど、江夏くんから自分に対するよそよそしい態度に違和感と戸惑いを抱いていた」
羽月さんの説明に耳を傾けると、これまで江夏先輩からの視点でしか把握できなかった状況が、新たな側面から見えてきた。
「なかなか会話にならない。自分が気づかない間に怒らせてしまったかもしれない。そこで聞いてきたんだ。『相手が何を考えているかわかる薬』は作れるか、と」
その背景を知ると、江夏先輩が悩んでいた間、生徒会長もまた同じように悩んでいたことがわかる。
……やっぱり、幼馴染なんだな。そのいじらしいすれ違いに、私は思わず苦笑する。
「……あれは」
ふと何かに気がついたように、羽月さんが窓の外を覗いた。そこには静かに揺れる木々があり、その先に校門まで続く道と一部校舎裏が見える。
なるほど、裏山で羽月さんが言っていた告白スポットとは、あの場所のことだろうか。
心の中でそう思いつつ、その場所に目をやると、ちょうど二人の影が現れた。先ほど部室から出て行った江夏先輩と生徒会長だ。二人のシルエットが緑の葉に映えている。
「……ここで、話しませんか?」
「ああ。だが、鈴乃、この場所は……」
二人の会話が微かに聞こえてくる。確かに、校舎の端に位置する創薬部の近くには空き教室か壁しかなく、放課後には人影もまばらだ。だからこそ、外の会話がここまで届いてくるのだろう。
部室の中で羽月さんと私、静かにその会話を見守る。木々の揺れる音とともに、二人の決意と感情が風に乗って伝わってくるようだった。
「わたし、ずっと結城くんに伝えたいことが、あって。わたしっ、ゆ、結城くんのことが——」
「鈴乃、待ってくれ」
「……え?」
「遅くなってすまなかった。……その続きの言葉は、僕の方から言わせてほしい」
「——もう、大丈夫そうだ。これ以上聞くのは、無粋というものだ」
羽月さんはそう言って窓を静かに閉め、鍵をかけた。すると、窓の外から届いていた声も完全に遮断される。
「それに、結果は万々歳のようだな」
窓のカーテンを閉める直前、二人の男女が抱きしめ合っている様子が視界に入る。その姿を見て、私の感情が昂る。
「…………良かった」
本当に、心の底からそう思った。
「嬉しい……というよりは安心している様子だな」
羽月さんは私の様子に、目を細める。その言葉と表情は、私の気持ちを見透かすようだった。
「ずっと築いてきた関係が壊れて——良くなるならいいですけど、そうならなかった場合を……私は見たくないです」
「失恋の経験も、悪いことばかりではない。……と、何かで聞いたことがあるぞ」
自分の声が震えていたのはわかった。そうならなかった場合——濁した私の発言を、ハッキリと失恋と言い切られる。
失恋の経験も、悪いことばかりではない。私も何かで聞いたことがある。けれど、同時に思うところもあり、私は首を横に振った。
「それは後々、“良い経験だった”と振り返れるまで、立ち直れた人間の視点だから言える発言です。……全然、フェアじゃない」
だから、オープンエンドじゃない。
「だって、その先のことなんて誰にもわからないじゃないですか」
私の声は少し強くなった。私は、目で見てわかるハッピーエンドしか好まない。
「……そうだな。確かに、それもそうだ」
少し生意気な言い草だったか。しかし、羽月さんは納得したように頷いた。その姿に、私は少しだけ救われた気持ちになった。
そして、ちょうど十八時の時刻を知らせるチャイムが校内に響き渡る。こんな時間までいる学校は、久しぶりだ。家に帰る頃には、外は真っ暗になっていることだろう。
「君は、これ以上暗くなる前に帰るんだ。私も帰り支度を済ませたら帰る」
私はこくりと頷く。
「はい。また明日……でいいですか?」
「ああ、だいたい私は創薬部にいる。待っているよ」
それ以上の会話はなく、私は一足先に部室から出た。廊下に出ると冷たい風が頬を撫で、少しだけ現実に引き戻される感覚があった。
振り返ると、創薬部のプレート看板が目に入る。
また明日——か。自分から発せられた言葉とは思えず、少しの気恥ずかしさに私は足早に歩を進めた。
「——はあ」
気がつけば、家に着いていた。玄関の灯りが暗闇に浮かび上がり、いつもの風景なのに、今日は何か違って見える。
だって、今日は本当にいろいろとあった。
張り詰めていた緊張が解けると、頭がぐるぐると回るような感覚に襲われる。どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
家に入ると、静寂が私を包み込む。一人暮らし、ワンルームのアパート。廊下の時計のカチカチという音だけが、この静けさを刻んでいる。
……だけど、今日は入学式を終えてから初の登校日で、学園生活を歩む第一歩となる日だった。そう考えると、あまりにも濃密な一日だったと思う。
そんな一日を色濃く塗り重ねたのは、もちろん、今日の創薬部での出来事だった。
あの、江夏先輩と生徒会長のやり取り。二人の真剣な表情が脳裏にくっきりと焼きついて離れない。そこで流れる特別な空気を感じたとき、自分の胸もなぜか高鳴った。
まるで、私も恋をしているかのような……なんて、らしくない台詞だ。
夕飯を一人で食べる。
咀嚼しながら、今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
お風呂に入る。
湯船につかりながら、今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
「……ああ、もう」
寝支度を済ませてベッドに入っても、全く頭と心は休まらない。なぜだろう? そう考えたとき、自然と浮かんでくるのは羽月さんのことだった。
小柄な身体、白衣姿、不敵な笑み、知的な雰囲気。羽月さんは本当に不思議な人だった。その姿が思い出されるたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
……羽月さんのことばかりだ。思わず、深いため息をつく。ベッドの中でじっとしていると、外の風が窓を揺らし、木々の葉擦れの音が聞こえてくる。
その音に耳を傾けながら、今日一日の出来事を反芻しているうちに、少しずつ心が落ち着いてくる。
「…………そういえば、江夏先輩と生徒会長に、薬の効果……ちゃんとあったんだな……」
私は、ふと考える。
『告白する勇気が出る薬』
『相手が何を考えているかわかる薬』
結果として、羽月さんは二人の依頼を同時に成功させてしまったことになるのだろう。わざわざ疑いをかける理由もなかったが、本当に優秀で、自称などではなく、ちゃんと天才な人らしい。
待て、だとしたら、私に飲ませた薬の効果は……?
その考えが浮かんだ瞬間、胸がざわつく。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
……いいや、アレは失敗作だった。そう結論づいたはずだ。怖くなって、それ以上考えるのをやめようと、私は毛布にくるまった。
ふわふわとした温かさに包まれながら、私は徐々に眠りに落ちていった。しかし、完全に意識が遠のく直前も、自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。それはまるで、静かな夜に響く不思議な子守唄のようだった。
ドキドキ、ドキドキ。
その音は、今日の出来事を思い返すたびに大きくなり、もっと言うと、羽月さんの顔を思い浮かべるたびに早くなる。
この不思議な子守唄に導かれるように、私の意識は少しずつ眠りの世界へと沈んでいった。この騒がしい心音の原因は。その答えはまだ先送りにして。




