第一話 パーフェクト・ギャル
——夢を見た。
ワンルームの部屋。私のアパートのようで、でも違う。壁の色も、窓の位置も、何もかもが曖昧で輪郭がぼんやりしている。
隣に誰かが座っている。
顔は見えない。というより、見ようとすると霞んでしまって、輪郭だけがふわりと浮かんでいる。女の子、ということだけは分かる。長い髪が肩に流れているのも見える。
なぜだろう。なぜここにいるのだろう。なぜこの人は隣にいるのだろう。
考えようとするが、思考が雲のように散らばってしまって掴めない。
その人が口の中で何かを転がしている。飴玉のような、小さな何か。舌先で器用に動かしている音が聞こえる。
「……」
何かを言っているようだが、声がどこか遠くから聞こえてくるようで言葉にならない。
ふわりと、その人の顔が私に近づいてくる。
近い。とても近い。息遣いが感じられるほどに。
そして——唇が触れ合った瞬間、小さな飴玉が私の口の中に転がり込んでくる。
甘い。とても甘い。
でも、これは一体——?
私は、なぜ——?
疑問が頭の中でふわふわと漂いながら、甘さだけが確かな実感として残っていた。
そのまま意識が——。
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半覚醒の意識の中で寝返りを打つ。このウトウトした感覚が心地いい。
もう五分……いや、あと十分。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、なぜか心地よく感じられる。朝が苦手というわけではない。
ただ、これから始まる一日への憂鬱が、もう少しだけ布団にいたいという気持ちを引き起こすのだ。
さて、じゃああともう一眠り——
ジリリリリリ!!!!
突如けたたましい電子音が静寂を破る。
あー、あー、もう、うるさいぞ。
顔を枕に埋めながら、えいや、えいやと当てずっぽうで空中を叩く。ガコッとプラスチック——目覚まし時計の倒れる音がして、ようやく電子音も止んだ。
ついでに、隣接させていた何十種類もの飴を詰め込んだ箱が倒れて顔に降りかかる。まるで、飴の雨。
——あ、学校行きたくない。
枕からゆっくり顔を上げ、開口一番頭に浮かんだのは爽やかな朝にふさわしくない後ろ向きな感情だ。
そんな私は、渡来綿音。先日入学式を終えたばかりの、本日登校初日のピッチピチの女子高生だ。
しかし、部屋の端にある姿見には、枯れ葉のように萎びた表情の私が映っていた。
身長百六十センチほどの平均的な体格。
肩のラインで切りそろえられた紺色のロングボブは、寝癖でところどころ跳ね上がっている。
耳元から覗く赤いインナーカラーは、背伸びした私が学校に行きづらくなった理由の一つ。
「はあ……学校、準備しなきゃな……」
呟いた言葉とは裏腹に、体は重く、動く気配を見せない。
——結局、遅刻した。
「そうかそうか。学校に来る途中、困っていたおばあちゃんを助けて、なあ……」
担任——確か五月女と名乗っていた——先生の声には、じわりと呆れた調子が混じっている。その釣り目も相まって威圧的で非常に鋭い。
「はい。見捨てるという選択肢を取るのはあまりにも心無き者の行いだと判断いたしまして。あはは、はい。人助けを」
言い訳じみた私の言葉に、クラスメイトたちの「人助けって言った?」「これ、笑っていいやつ?」「駄目だよ、怖いって」といった微妙な反応が薄らと聞こえてくる。
何だろう、恥ずかしいなぁ。もう帰っていいかな?
「で、今は十二時半だぞ? 数時間を要する人助けとは何事だ?」
う、うぐぐぐぐ……と、あまりにわかりやすい反応は心のうちに留めておくして……。
何と返せばいいのかもわからず、とりあえず『これが私の誠意です』と言わんばかりに五月女先生の目を見つめる。つまり、諦めの境地である。潔し。
……しかし、改めてよく見ると、可愛いな。
見た目は凛々しい表情をしているものの、大学生なのか、高校生にも見えるほど若々しく、背丈も小柄だった。
なのに、組んだ腕から溢れる豊かな胸元——それが唯一、大人らしさを保っている部分かもしれない。
「……おい、何か失礼なことを考えていないか?」
ひぃ、こわいこわい。
「いえ、そんなわけありません」
ここで狼狽えてると更に後手に回ると思い、私は断言する。すると、五月女先生は「はぁ……」と短く息を吐き、手を額に当ててうなだれた。
たまに口元から覗く八重歯も、愛嬌を感じさせますネ。……こうして褒めてるんだから許してください。脳内でだけど。
「ったく……初日だし大目に見てやるけどな」
ひとまず、観念してくれたようだ。内心でほっと胸をなでおろす。
「午前にあった健康診断についてはお前だけ別日に対応をする。構えておけ」
ということは急なイレギュラーが発生する可能性があるわけだ。面倒この上ない。
……いやまあ、さすがに過失十割でこちらの責任なので抵抗の余地はないんだけど。
「わかりました」
「じゃあ、もう席に戻っていいぞ」
もう話は終わりだと言わんばかりに、シッシッと手を払われる。
「それと、一年生のうちからサボり癖を付けるなよ。お前は、ただでさえ——」
「ただでさえ……なんですか?」
「……いや、なんでもない。さっさと行け」
わざとらしく小首をかしげてみせると、五月女先生はわずかに視線をそらし、面倒くさそうにため息をつく。
その直後、聞き取れるかどうかの小ささで「なんで受け答えだけは丁寧なんだ……」と、ぼそりと漏れた声が聞こえてきた。
そこで、たくさんのクラスメイトたちが私を見ているのに気づいた。先ほどの発言とその視線の意図を考えると、五月女先生の心情も察せてしまう。
私の見た目、明らかに浮いてるもんな。都会はみんな派手髪、派手ファッションだろう、と浮かないように、と気合いを入れてきたのに。
よく考えれば、そんなはずなかった。そもそも、ここ進学校だしな。……勉強大変だったな。私、本来はオタク属性なんですよ。
……なんだか気まずい。
黒板には委員長は誰であーだこーだと書かれていた。どうやら私の登場により、大事な話が中断されてしまっていたらしい。
入学して初めての登校日、いきなり遅刻した奴がいれば嫌でも目立つ。こんなことなら、もう少し布団で寝ていればよかったか。そうすれば中途半端に登校する気にもならなかっただろう。
……もしかして、これが不登校生徒になっていく者の心理?
そんなどうでもいいことを考えながら、誰とも目を合わさないよう、俯きながらスタスタと自分の席に戻る。
席の振り分けは完全ランダムのようで、たまたまで、窓際端の席。なんと運が良い。
ただ、今回のようなタイミングで唯一空いている端っこの席に座るというのは、外れ者のようにも映るけど……。
「えーっと、わたぼうわたこさんだっけ?」
私が席に座ると、前の席の子に声をかけられるが、早速名前を間違えられてしまった。
うーんでも、地味に惜しいな。私は声をかけてきた人物に目を向ける。
——ぅう。
その眩しさから私は目を背けそうになり、なんとか耐える。
サイドテールにした明るい髪色、長いまつ毛と大きな目、その無邪気な表情に素直に可愛い顔だと思わされた。
制服はちょっと着崩され、膝上がはっきり見えるスカートは規定より短く、ブラウスの第一ボタンは外されている。首元には可愛らしいシルバーのネックレス。
あ、完全にギャルです、これ。
そうそう、都会っ子はこういう感じの子ばかりだと思ってたんだ。
「いいえ、渡来綿音です」
「あっ、そうそう、渡来さんだっ。ごめんね! あと、敬語じゃなくていーよ?」
名前を訂正すると、矢継ぎ早に言葉が繋がれた。
ああ、ええと? 久しぶりの人との会話に、私の思考が追い付かない。
「あー、はい。いや、うん。ありが、とう」
あー、この明るいギャルっぽい感じの子は……確か……うーん。
「かながわさん?」
「あははっ、なにそれ! ウケるんだけどっ!」
笑われる。名前を間違えたっぽい。
マズイ、マズイ。
記憶を昨日に遡らせる。教室に響いた元気な声が蘇ってくる。
『どうもー、天川七海でーすっ。私のこと初めましての人はよろしくね?』
『んなの、みんな知ってるってーの!』
『アハハッ! 確かにーっ、みんな中等部から一緒だもんねーっ!』
ドッ!
教室が盛り上がる。次は私の番だ。
『渡来綿音です。私のこと知ってる人はこれからもよろしくお願いします』
シーーーーン。
——そうだ、思い出した!
えっ、だれだろ、こんな人いたっけ? と教室中を包み込んだ、あの肌寒い空気には辛いものがあった。
此処、桜花大学附属高等部——中高一貫制の本校では、生徒の約九割以上が中等部からそのまま上がってくる内部進学生だ。
同じキャンパスには附属大学も併設されており、敷地内では中学生から大学生まで幅広い年齢層の姿が入り交じっている。
かくいう私は、外部受験生。当然ながら中等部からの知り合いもおらず、内部進学生同士で固まるクラスの中では、最初から一歩遅れているわけだ。
そこで自己紹介の時に知ってる人なんていねーだろ! 待ちで小ボケを挟んだわけだが、冷静に考えて突っ込みづらすぎる内容だった。
入学早々に高校デビュー失敗——そのせいで今日学校に遅刻したまである。そして流れるように登校初日も失敗と来た。
これが辞書で引いたみたいに美しい負の連鎖——うん、本格的に不登校を検討すべきだろうか。
「えー、天川さん……でしたよね? 天川七海さん」
「そそっ。うんうんっ、やっぱり覚えてくれてたんだ?」
「は、はい、もちろんじゃないですカァ」
あはは、そういうことにしておこう。私は作った笑顔が引き攣らないよう表情を整える。
「あ、そうそうっ、昨日の渡来さんの自己紹介、反応できなくてごめんね?」
そんな私の狡い企みには気づかず、眩しい笑顔を浴びせられる。なんて真反対の人間性。貧血を起こしてしまいそうだ。
「一瞬、中等部のときにこんな子いたっけって思っちゃって」
それで気にかけて今、声を掛けてくれているのか。
昨日、私以外の者たちはすぐに各々にグループを作り上げ、友達問題なんて心配無用そうにしていた。
その例に漏れてついぞ一人のまま。今日に至っては遅刻までしてきた私を憂いてくれてるのだろう。
スゴイ。優しいギャルは本当に実在したんだ! “こんな子”な私にも声を掛けてくれるなんて。
「いえいえ、わかりづらいボケだったなって反省してます」
もうその時点でなんだこの田舎っぺと切り捨てられてもおかしくなかった。
「えーと、それじゃ、やっぱり渡来さんって外部生の子ってことでいいんだよね?」
「はい、そうです」
「だよね! あっ、じゃあじゃあっ、なんでうちに受験したのかな?」
まあ、気になるよね。わざわざ一貫校へ途中受験。理由は、うん。あるには、ある。
それは私が”知り合いの居ない環境”を求めたからであって——だなんて、初対面の子に対して言う気にはなれなくて。
「神の導きです」
咄嗟、適当に答えた。別に、信仰深い人間でもない。どちらかというと神なんてクソ喰らえ。お腹が痛くなった時だけ都合良く祈るだけの存在だ。
ただ、嘘を付いてるとも思われたくないしな。そんな感情の経緯により天川さんから目線を外し、窓から見える校庭に目を向ける。
「そ、そうなんだ……?」
変な冗談だと思ったか、真に受けたか。気圧されたような声が返ってくる。
「あー、それと、敬語じゃなくていんだよ?」
「わかりました」
「んー……ええーと……?」
窓から反射して見える天川さんの表情は、困った笑顔を浮かべていた。
凄い。ヤベェ奴認定されるまで一瞬だったぞ。私の社交性の欠如を痛感する。
この、見事に噛み合わない会話。もはや芸術的だろう。
「おいそこの二人ー、仲良く話するのはいいがまだ話は終わってないぞ」
そんな会話に若干の気まずさが綻び始めたところで、五月女先生の注意が入る。
「あ、あははー、すみませーんっ」
天川さんが明るく返答する後ろで、私も目配せでわかりましたの意を示す。これ以上変な注目の浴び方は遠慮したい。
「そんなに元気なら天川、委員長はお前がやるか?」
「ちょ、ちょっと待ってっ、私そういうキャラじゃないですってー!」
天川さんの嫌味のない、快活な声に暖かな笑い声が教室を包む。この様子だと中等部の頃からの人気者なのだろう。
そんな優しいギャルでも捌き切れないなんて。
極力人との会話を避けていた間に、私の会話術はいつの間にこんなにも鈍っていたのだろう。
今に消えても問題ないような存在だ、っつってね。
……しんど。
この、教室の空気に溶け込めない疎外感。
怖いな、都会は。