5000年
「アテナ…だと…?」
アテナ。
ギリシャ神話に登場する知恵と戦の女神。
織物や陶器の発明者ともされ、技術を司る神でもあったとされている。
なぜ、地球から遠く離れたプラネットナインの住人が、その名前を?
『私たちは今から5000年以上前から、あなた方を観測していました。』
紀元前3000年ごろ、メソポタミアにて最古の文明が生まれた。
それまでの人類は狩猟を主とした生活を営んでおり、種としてのエネルギー消費量は自然界のそれと何ら変わりはなかった、というのが通説となっている。
地球全体で見ても、文明の発生による変化は凄まじかった。
『私たちは、あなた方が私たちと対等に話ができる位置にいると知覚しました。』
そう、紀元前3000年を境に、何かがあったのだと言わんばかりに。
「…メッセージを返せ。我々と…」
『返信は不要です。私たちが望むのは、早急な『首脳会談』の実現です。』
指示を出しかけていたガランの手が止まる。
「首脳会談…?」
『日時は問いません。あなた方の首脳に、私たちの『故郷』へとお越しいただきたいのです。』
この『首脳』とは、父・ケネスのことを示しているのは容易に想像がついた。
第二艦隊が通信を途絶えさせた領域に、自分たちのリーダーを向かわせなければならない。
『その時が来たら、最大限のおもてなしをさせていただきます。では。』
通信は、途絶えた。
その後は第二艦隊からも、『アテナ』からも、一切電子の波は揺らぐことはなかった。
幾時待てど、幾時待てど。
同日午前8時、仮眠をとったガランは一連の出来事をケネスに報告するべく実家へと足を運んだ。
「おかえり、ガラン。…話の一部は聞いている。」
「はい…父さん。」
ガランの目元には濃いクマがタトゥーのように刻み込まれている。
「事情の説明は後でいい。もう少し寝てきなさい。」
「ですが…」
「私は議会の方にこのことを上げてくる。私が帰ってくるまで、休んでいなさい。」
キッチンで作業をしていたケネスは荷物を取り、家を出て行ってしまった。
ガランは扉が閉まった後、未だに肩に鞄がかかっていることを思い出した。
鞄をテーブルに置き、手を洗おうと台所へ向かう。
そこでガランの目に留まったのは、1つのマグカップだった。
ガランがまだ初等部にも入学していなかったころ。
ケネスは自国のとある博物館へガランを連れて行った。
既に国の要人として扱われていたケネスだったが、彼は家族との時間を一番大事にしていた。
後にガランが軍へ志願するときも、一番最後まで反対していたのはケネスだった。
そして、ガランが自身の息子として人の目に晒されることも、彼は誰よりも理解していた。
彼の教育方針は、ガランが将来恥をかかないよう、教養と品格を身につけさせることを最優先とした。
ときに優しく、ときに厳しく。
理想的な父親ではなかろうかと思う。
そして、ガランもそんな父が大好きだった。
その博物館へ行ったのも、教養を身に着けることの一環としてだ。
楽しみながら勉強できる、最高の手段である。
館内を順路通りに全て観終え、最後に土産屋に寄ることになった。
年相応の無邪気さで、店内を見て回るガラン。
その店には、ガランくらいの歳の子が好みそうな商品は沢山あった。
ぬいぐるみ、お菓子、おもちゃ。
だが、ガランが選んだのはその中のどれでもなかった。
「父さん。ボク、これがいい!」
ガランが大事そうに抱えていたのは、陶器のマグカップだった。
「もちろんいいが…重いし割れてしまうぞ?」
ケネスもなぜそれを選んだのか、不思議そうに首をかしげた。
でも、ガランはにこやかな表情を一切変えずに言い放つ。
「ボクは割らないよ。大人になっても使い続けるんだ!」
結局、ガランとケネスはそのマグカップを買って帰ることにした。
その帰り道、クルマの中でケネスは後部座席のガランに対して問うた。
「なんであのカップにしたんだ?」
ガランくらいの歳なら、ピカピカ光るおもちゃなんかを欲しがりそうなものだ。
その問いに対するガランの答えは、単純ながら子供離れしたものだった。
「だって、いつもの生活で一番長く、多く使えるものじゃん。何回か使ってすぐ使わなくなっちゃうのは寂しいよ。」
キッチンに置いてあったのは、あの日買ったマグカップ。
それに入れられたホットミルクを一口啜る。
「あの時から私、マセてたよなぁ…。」
冬の牛乳は脂肪が多い。
濃厚な甘みが、口の中に広がる。
片手にマグカップを持ったまま、ガランは寝室へ入っていくのだった。