マレニア・オーグメント《アテナの夕暮れ》
『やはり、なにも見えません。』
草原に佇む一席で、手持ち無沙汰に仮面を付け外し。
今まで、仮面があれば。
技術があれば、何不自由なく暮らせていた。
自らの眼で見渡すことがなかろうと、無線で脳や視神経を間接的に繋げた仮面型デバイスを通じて、景色を楽しむことができた。
でも、なぜだろうか。
自分自身の眼で見た4年間は、それ以外の期間よりもずっと輝いて見えた気がする。
記憶もおぼろげで、一番近くにいたはずの両親の顔もあまり思い出せない。
あの日、マレニアから光は消え去った。
ただ、熱さにのたうち回り、両親を探した。
次第に眼は見えなくなっていき、意識も遠のいていく。
呼びかけに答える者は誰一人として、居なかった。
『私は、また一人になるのでしょうか?』
ヴァレルはかりそめの家族として、自分を育ててくれた。
本当に、『ただ育てただけ』だというのは分かっている。
だけど、それでも。
マレニアにとって彼が父代わりであるということに変わりはないはずだった。
マレニアは本当に彼を父と慕っていたのだ。
ついこの間まで、裏切られるだなんて思っていなかった。
そう、あの人が忠告してくれるまでは。
『ガラン殿、貴方はとても良い眼を持ってらっしゃるのですね。』
ただ景色を眺めるだけではない、物事を見通す眼を。
慧眼、と言えばいいだろうか。
『そんな素晴らしいものを持った貴方を、羨ましく思います。』
嫉妬ではない。
あくまで羨望。
今のマレニアにとって、ガランは憧れであった。
そしてマレニアは、ガランも一人になった身であると知っていた。
もしもそんな『一人』同士がもっと強くつながることができれば。
一人は一人ではなくなるはずだろうと。
『ガラン殿、もしよろしければ…。』
二人で、ここから逃げ出しませんか。
彼がここに居てくれたら、そんな提案をしたかもしれない。
それができればどんなに良い事か。
『…もう、夜ですか。』
人工太陽が、傾いていくのが分かる。
本来の太陽よりも大幅に小さく、幾分か赤みがかった光が辺りを照らす。
アテナの夕暮れは、地球よりも深い紅に染まる。
ここだけを切り取ってみれば、地球よりも綺麗かもしれませんよ、と。
マレニアは届くはずもない友人に呼びかける。
陽は、地平線の向こうへと消えていった。
訪れるのは、無機質な夜。
外殻で囲まれたアテナの重力圏。
そこからは当然、外の世界を見ることは叶わない。
『ご存知でしょうか?The Athenaの通信室からは窓が見えないのです。』
マレニアの通信が地球に届き、首脳会談が決定し。
動乱の日々が訪れることになるのだ。
マレニアは幾度となく、通信担当として艦に乗っていた。
窓が一面に広がる指令室で指揮を執るのは、いつもヴァレル。
そして、次の戦いでマレニアは初めて指令室に入ることになる。
『命の危険があるっていうのに、こんなことを言うのは変かもしれませんが…』
自らの灯を消し去るために組まれた采配。
ここまで、今この瞬間までが全て、ヴァレルの手のひらの上なはずである。
各地でそれに気づく者がちらほら現れだしたが、未だに彼の牙城を崩す者はいない。
いや、現れないかもしれない。
この先も、ずっと。
だとしても、私は。
『私は、星空を見るのが楽しみなのです。』
初めて見る、外殻外の宙。
真空中でまたたくこともせず、ただそこに在る星空。
満天と呼ぶにふさわしい、まさに特等席から見る絶景。
太陽系から見える星のほぼ全ては、銀河系内の星である。
銀河系全土に渡ると聞く銀河文明。
それに所属しながらも、マレニアはその内情には明るくない。
なにせ、アテナが銀河文明から独立して地球の開拓を始めたのは5000年前。
あまりにも時が経ちすぎている。
『ここからは…やはり、なにも見えません。』
仮面を外そうと、外さまいと。
暗くなったアテナの空を見上げても。
そこに在るのは無機質な、黒い外殻のみ。
何も見えなくなった周囲をよそに、マレニアは物思いに耽る。
『来たる戦闘で、貴方がするであろう行動には目星がついています。』
あのガラン殿なら必ずこうするはずだ、と。
艦のハッチを開ける準備は、いつでもできています。
『お互い、それまで死なないようにしましょう。約束ですよ。』
マレニアは誰もいない対面の座席に向かって小指を立てる。
仮面越しに見える自らの右手に、冷たい風が当たる。
それに呼応するかのように、マレニア自身にも寒さが伝わってくるのを感じた。
『これから更に冷え込んでくるでしょう…。でも。』
立てた小指が、自身の思いはよそに震え始める。
『私はまだここに居たい。』
と、言うよりも。
向こうに帰りたくない、と言った方が正しいかも知れない。
さあ、本当に約束です。
殺しはしても、殺されはしない事。
死なせはしても、死にはしない事。
どうかお願いですから、貴方ともう一度話す機会をください。
お慕いしております、ガラン殿。