泥水
私の人生は皮肉にも、あの引き金を引いたときから色濃くなった。
家が燃えてから引き金を引くまで、目立った記憶が全くない。
私にとっての平穏な人生は、空っぽの水槽と同じだ。
そこに入るのは泥水だろうが、煮えたぎった熱湯だろうがなんでもよかった。
空の水槽は、在っても無くても変わりない存在。
ただスペースを取るだけの、邪魔な存在。
でも、そんな時に現れた人がいた。
彼は水槽いっぱいに泥水を溜めていた。
しかしその泥水の中には、豊かな生態系が確かにあったのだ。
『…あら、いらっしゃったのですね。』
「…待ってた、という方が正しいかもしれないな。」
私は彼に、泥水を分けてもらうことにした。
「この惑星には、四季は無いのか?」
『第三惑星…地球に似せて作ったものですので、場所によってはございますよ。』
相変わらず、景色を眺めながら一対の座席に座る二人。
暖かな風を受けて、ガランは気持ちよさそうに目を細める。
「私は、夏が好きなんだ。じりじりとした、焼け付くような暑さが。」
『意外ですね。暑さは不快なものとしてしか捉えていませんでしたが…』
二人を照らす人工太陽は、酷暑を強いたりしない。
ただ、穏やかに周囲を包み込む。
「幼少期の記憶が大きいだろうな。私は夏休みになると、父に連れられ色んなところに行ったものだ。…すまない、キミにする話ではなかったな。」
罪悪感か、劣等感か。
もしくはその両方か。
黙りこくってしまったマレニアに、ガランは頭を下げる。
「…どうだ、もし良かったら…」
夏にどこかへ、出かけてみないか。
そう言いかけて、ガランは慌てて口をつぐむ。
敵国の首長に、なんという提案をしようとしているのだ。
『申し訳ありません、私が戦争を始めてしまったばかりに。』
「いや、今のは完全に私の配意不足だ。申し訳ない」
ここまで慌てふためくガランは、そうそう見られるものではない。
ガランは話題を変えようと、頭をフル回転させる。
何かお茶を濁すものが欲しい。
「この場所には飲み物なんかはないのか?」
『仮想的なものではありますが、ございますよ。メニュー画面からこちらをタップしていただいて…』
指示の通りにホログラムを触っていくと、目の前の机にコーヒーカップがポコンと現れた。
ホログラムを一旦閉じ、カップに手を伸ばしてみる。
「おお、きちんと暖かい。」
『技術の結晶ですね。』
ガランはコーヒーを一口啜って机に置くと、他にはどんなことができるのかホログラムのあちこちを触りだす。
『私はあまり使いませんが、様々な機能がありますよ。』
「そうみたいだな…お酒もあるじゃないか。」
すっかりこの世界に慣れた様子のガラン。
それを見てマレニアはフフッと笑い。
『実は、私はまだお酒を飲める年齢ではないのですよ。』
「えッ!!!」
ガランはマレニアが未成年だという事実よりも、自分の発した声の大きさに驚いた。
瞬時に自らの口を手で覆う。
想定していた反応が得られて、マレニアも満足げである。
『私は今年で19です。』
「若いとは思っていたが…その歳で本当に苦労をしてきたのだな。純粋に尊敬する。」
『お互い様、ですよ。ガラン殿もさほど変わりはないでしょう?』
ガランはその言葉に、手を振って否定する。
「私は26だが…7年前は、まだ戦闘機に乗っていた。国のトップどころか、艦隊すら任されてはいなかったよ。」
『それは国の規模が違いますから。』
ああ、なんだろう。
この人と話していると、時間を忘れる…という表現が一番しっくりくるのではないだろうか。
マレニアにとって、ここまで腹を割って話ができる人間というのは、他に居なかった。
彼が、敵国の人間でなければ。
彼の父を、私が殺していなければ。
銃を突きつけ合う、あんな出会いでなければ。
また違った形で、親交を深められたのではないだろうか。
今はただひたすら、後悔が募る。
「…美味いぞ、このコーヒー。」
そう言って、ガランはコップをマレニアに向けて押しやる。
『…フフッ。』
「…何かおかしなことでも?」
マレニアは口元に手を添えて笑う。
『いえ…だって、私も同じものを出せるんですもの』
ホログラムをタップし、マレニアの目の前にはガランのものと全く同じコーヒーカップが出現した。
「あぁ…そう…ね。」
『気を悪くしないでください、少し面白かっただけですので…』
苦笑いをしてカップを自分の手元に戻すガラン。
自分のカップを啜り、『美味しいですね』と微笑むマレニア。
そのまま暫く、お茶会は続いた。
マレニアが現実世界に戻ると告げ、EXITのボタンを押そうとした、その時。
明日もこんな日がつづくであろうと、穏やかな笑顔をたたえたままのマレニア。
そんなマレニアに、ガランは告げる。
「私がこちらの世界に来られるのは今日で最後だ。明日からは艦隊を総動員して地球圏の警備に当たらなくてはならない。」
二人に突き付けられる、戦時中という現実。
それは彼ら自身が最も理解していなければならなかったもの。
マレニアはしばし俯き、何かを決意したかのようにガランに向き直った。
『…私たちが地球へ赴くのは、二週間後です。だから…』
もう少しの間、私に構ってくれませんか。
極めて個人的な願いで、あまりにも重大な軍事機密を零した。
だが、ガランの返答もそれに近いものだった。
「…信じて、良いんだな。」
ガランは以後二週間、地球圏の警備を第一艦隊抜きで行うことを決めた。




