馬良の思い
翌朝、老人は食料運搬用の荷車に馬良を乗せ、家を出発した。
馬で移動できないことを考えると、想像を絶する長旅になることは明らかであった。
それも老人ひとりの力で……
若い者に代わってもらおうにも、村には年寄りばかり。
老人を何人連れてこようが足手まといになるだけ。
結局、村の誰にも馬良のことは知らせず、一人で旅立ったのである。
人を乗せた荷車を引きながらの長旅は過酷極まりないものであった。
しかし老人はひたすら歩いた。歩き続けた。
どんなことがあっても途中で倒れるわけにはいかない。
その強い心だけはしっかりと持っていた。
道中たいした食事を取るわけでもなかった。
時々馬良の様子を伺いながら、日々着実に進んだ。
「馬良様お加減はいかがですか?」
問いかけに馬良がわずかに目を開いた。
「馬良様。近くで食料を調達しましたので食べてください」
しかし馬良は必ずこう言った。
「私はいらない。あなたが食べてくれ」
顔には痛々しい傷跡が未だ数多く残っていた。
「馬良様。食べないと怪我も治りませぬぞ」
「今一番大変なのはあなただ。あなたが食べなさい。私のことは考えず、荊州に着くことだけを考えてください。私の望みはそれだけ…… 頼みましたよ」
「分かっております。わしが必ずあなたを荊州にお送りすると約束します」
「そうか。このような役目を押し付けてしまい、本当にすまない……」
「詫びるのはお止めください」
「もし劉備殿か孔明殿に会ったら、馬良が詫びていたと伝えてください。劉璋を説得できなかった上に、貴重な六星剣まで奪われてしまった。本当に申し訳ないと……」
「もちろんお伝えします。ですが、なぜそのような弱気なことを…… 共に荊州の地を踏もうではありませんか!」
それだけ言うと馬良は静かに目を閉じた。安らかな顔をしていた。
それからしばらくして、馬良の呼吸は止まり、静かに息を引き取った……
「馬良様! 馬良様!! しっかりしてくだされ!」
しかし目を覚ますことはなかった……
馬良は自分の思いの全てを老人に託したのであった。
その時老人は改めて、自分が重大な使命を負っていることを認識した。
そして涙ながらに誓った。
「あなたの意思を無駄にはしません。この命に代えても……」
老人は再び歩き出した。来る日も来る日も歩き続けた。
雨の日も風の日も…… 時には空腹との戦いになることもあった。
それでも歩き続けた。
故郷を出発して、すでに一月になっていた。
ようやく荊州との州境にたどり着いた。
近辺の見張りをしていた監視兵が老人の姿を見つけ近づいてきた。
「おい、そこのお前!」
その声に足を止めた。
「勝手にこれより先に行くことは許さんぞ」
「金を出せば良いのか?」
「そうだが、お前のような庶民に払えるものではない! すぐに引き返せ!」
「これでよいかな?」
老人は懐から金を出した。それを見た監視兵は目を丸くした。
「お前……どうしてこんな金を?」
「通ってもよいかな?」
「ああ…… 許そう。いったい何ものだ?」
「わしは急いでいる。では失礼……」
呆然とする監視兵。それに構うことなく老人は歩き出した。
進む距離は日にしてもわずかであった。老人ひとりの足では無理はなかった。
時には険しい山道を、荷車を引いて登ることもあった。
その一方で幸運なこともあった。
道中、山賊や物騒な輩と遭遇することもあったが、金のない老人が死体を捨てに来たと見られるためか、襲われることはなかった。
そして出発から二ヶ月後。ついに荊州城に到着した。
「馬良!」
「馬良殿!」
「な、なんというお姿に……」
馬良の亡骸を見た劉備や、その部下たちは悲痛の声を上げた。
老人がことの次第を説明した。
「馬良様は荊州に向かう道中でお亡くなりになりました。荊州に戻ることを強く望まれました。そして劉備殿に使命を果たなかったことを詫びたいと言っておられました」
「詫びるなどとんでもない」
劉備は目に涙を溜めていた。
「馬良様はわが益州においても欠かせぬお方。このようなことになり無念でなりません。最後まで自分を責めていらっしゃいました」
「馬良よ。お主は私の大切な部下だ。責任感、そして正義感の強い優秀な部下であった。短い期間であったが、よく分かるぞ」
関羽と張飛も声を詰まらせていた。
「馬良殿!なぜこんなことに……」
「誰がこんな酷いことを!?」
老人が説明した。
「劉璋に拷問を受けたのです。劉備殿に寝返った反逆者として…… 私が偶然、まだ息のある馬良様を助けました。早く怪我の治療をしないとと思ったのですが、馬良様は、医者は呼ばなくてもいい。自分を荊州に連れて行ってくれと…… 私は言われた通りにしました。なんとか荊州に着くまで無事でいてくださればと願ったのですが、道中でお亡くなりに……」
老人の話に劉備の目から涙がこぼれた。
「こんなことだと分かっていれば、この劉備が助けに行ったものを…… なぜそこまで無理をしたのだ馬良よ」
しばらくの沈黙が流れた。
そしてついに劉備の口から。
「許さん…… 許さぬぞ劉璋……」
その言葉に周囲の部下は、にわかに反応を示した。そして、それは空耳でないと確信する。これほどまでに怒りを露にする劉備の姿は見た事がなかった。
そこへ、まさに運命を感じさせる一報が舞い込んできた。
報告に来た兵は慌てた様子で告げた。
「劉備殿、一大事です! 劉璋軍が荊州に進軍を始めました! すでに州境近辺まで迫っています!」
劉備はその報告にハッと我に返った。一転して現実に引き戻された。
「なんだって!?」
「殿。いかがいたしますか?」
ここまで一言も口を開かなかった孔明が静かに聴くと、劉備は迷いなく答えた。
「迎え討ってやろうではないか。私は劉璋を討つ!」
その声に周囲の誰もが沸き立った。
さながら戦いに勝利した後の祝宴を思わせるほどであった。
誰もが興奮を抑えきれなかった。
「皆の者に告ぐ。これより出陣の準備だ!」
「はっ!!」
「その言葉を待っていました!」
「やってやりましょう!」
「劉璋など私が一捻りにしてくれる!」
方々から意気込みの声が飛び交った。
誰もが待っていた瞬間であった。
孔明は静かな笑みを浮かべ、頷いた。
しかし一番嬉しかったのは孔明に違いない。
誰もが我先にと部屋を飛び出した。手柄に餓えている武将達は誰にも止められない。劉備もそれに続いた。
その場に残ったのは、孔明と老人。そして馬良の亡骸のみとなった。
孔明は馬良に歩み寄った。
「馬良殿。本当によくやってくれた…… すべてお主の力だ……」
こらえていた涙が溢れた。
「私はお主に謝らねばならない」
そして、涙ながらに老人に尋ねた。
「ご老人。馬良殿のこと、他に何か聞いてはいないか?」
「はい。なんでも劉璋を交渉した末に暗殺を謀ったそうで…… 不運にも失敗に終わり捕らえられたそうです」
「やはりそうでしたか。暗殺の指示を出したのはこの私。私が馬良殿を殺したに等しい……」
孔明は膝を付き、馬良の亡骸にもたれかかり、その死を悲しんだ。
しかし泣き崩れる孔明に老人は言った。
「それは違います。これは馬良様の御意志でした。私が助けた時の医者の話では、治療を急げば十分回復の余地はあったのです。治療する金もあった……」
老人もその時のことを思い出したのか、表情には悔しさがにじんでいた。
「しかし馬良様は自分の治療は望まなかった…… 荊州に行くことを優先したのです」
孔明は馬良の意図を説明をした。
「馬良殿は分かっていたのです。自分がこのような哀れな姿になり殺された。その姿を殿が見れば、劉璋討伐の決断をなさってくれると。生きて荊州に戻るつもりなど始めからなかったのでしょう。命と引き換えに殿の心を動かしたのです」
「分かります。馬良様はそういう方です」
「殿が益州を。そして蜀を治めることになれば、全ての民が救われる。きっとそう願っていたに違いありません」
「馬良様はあなたから預かった六星剣を奪われたことも、最後までとても心残りにされていました」
「そんなものはすぐに取り戻せます。この戦で」
「劉璋軍に勝つ見込みはおありなのですか?」
「もちろんです。殿の気持ちが動いた今、我々に負ける理由などひとつもありません。一月もすれば殿が益州に入り、豊かな蜀を再建させることも夢ではありません」
「それは信用できるのでしょうか?」
「もちろんです。これは馬良殿の願いでもあります。彼の死を無駄にさせるわけにはいきません。誓って…… それが我々の使命です」
「なんと心強い。やはり馬良様が見込んだ方々です」
「ご老人も長旅さぞ辛かったことでしょう。あとは我々に任せ、ゆっくりこの城で休まれるがよい。益州を手中にしたのち、あなたも戻られるがよろしい。馬良殿の墓も益州にと思っている」
「感謝いたします」
「感謝するのは私のほう。あなたは馬良殿と共に、益州だけでなく、我々も救ってくれた恩人であり最大の立役者です。本当に感謝しておりますぞ」
「一介の庶民に勿体無いお言葉」
孔明は老人の肩にそっと手を置き、その労をねぎらった。
そして合戦は始まった。
漢王室の威信をかけた両雄の戦いであったが、勝敗は明確であった。
戦が本格化してきたその十日後、劉璋は降伏し武器を捨てた。
劉璋の部隊のみを集中的に攻撃する孔明の作戦により、両軍とも最小限の被害で戦いは幕を閉じた。
劉璋軍の兵の多くは劉備に投降した。
劉備はそういった武将達も殺すことはなく、全て自らの配下とした。
そしてついに劉備は益州の成都城に入った。
蜀の主となったのである。
こうして国は魏、呉、蜀に分かれ、本格的な三国時代が幕を開けたのである。
劉備の政策により、蜀の国はみるみる豊かになった。いつしか民からも歓迎され、人材も豊富に集まり、一国の主として相応しい存在となった。
馬良は成都城の堀近辺に埋葬された。老人も近くに住み、毎日のように墓参りに訪れたという。
そして、馬良という名とその功績は、蜀の国全ての人々の胸深くに刻まれたのであった……
初の連載もの。無事完結することができました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。