馬良の説得
「こ、孔明殿…… 私の聞き違いでしょうか? 今劉璋殿を殺せと……」
「聞き違いではありません」
「正気なのですか?」
「もちろんです」
まったく揺らぐ様子のない孔明。それに対し声が震える馬良。
「それは困りました…… 仮にも私は劉璋殿に仕えていた身。かつては厚い忠誠を誓ってきました」
「分かっています。それを承知の上でお頼みしているのです」
孔明の言葉に馬良は戸惑った。
孔明は続けた。
「先ほども申した通り、この荊州だけでは曹操もしくは孫権の手に落ちるのは時間の問題。益州を手に入れ迎え撃たなければ、その2大勢力には到底太刀打ちできません。もし我々がどちらかの手に落ちたとすれば、益州の運命も荊州と共にあります。しかし、もしあなたが劉璋を殺し、益州の即位から退かせることができれば、殿は迷うことなく兵を進めることができる。もはや曹操孫権の手から蜀を守る手立ては他にありません。そして、我が陣中において劉璋に近づけるのはお主ひとりなのだ」
わずかな間を挟み、馬良が言った。
「孔明殿がそこまでおっしゃるということは、それが事実なのでしょう。これも益州のため。その任務お引き受けいたします」
「本当かな?」
「はい。先ほど孔明殿は、どんな最善の策も取り入れられなければ無きに同じとおっしゃいましたが、私は今、劉備殿の配下。孔明殿の命令とあらば、いかなることでもお引き受けする覚悟です」
「危険な役目になるが……」
「承知の上です。必ずや、劉璋殿の良き返事を。それが叶わなければ、劉璋殿のお命を手土産に戻って参ります」
「よく言ってくださった馬良殿」
孔明は馬良の肩をさすり、大きく頷いた。
馬良はこう付け加えた。
「ただ、私は信じています。劉璋殿は分かってくださると…… 劉備殿の気持ち。そして民のことを」
「私もそれを望みます。劉璋が理解のある人物であることを」
馬良は深々と頭を下げた。
「それでは六星剣はお預かりします」
「頼みましたぞ」
馬良は孔明の大きな期待を背負うこととなった。
そして益州の民のために、たとえ命を落としてでも使命を果たさねばといった責任感も芽生えた。
こうして劉備、劉璋、そして益州の民の命運は馬良の肩に託されたのである。
翌日馬良は、劉備、孔明、その他数十人の部下に見送られ荊州を出発した。
州境では監視兵に見つかるも、金を出し通過した。
監視兵も馬良が益州に入ったことを劉璋に伝える手はずを取った。
四日あまり馬を走らせ、ようやく中心地に入ってきた。かつては人で賑わっていた集落が、今ではすっかり荒れ果てた荒野と化していた。あの豊かな益州はどこへ……馬良は言葉を失った。
城下町に入っても民衆の姿はまばらに思えた。
『どこを見ても人気は少ない…… まさか民の多くが荊州を目指して殺されたなんてことは……』
嫌な考えが脳裏をよぎる。
馬良はわずかな食料で空腹をしのぎ、ひたすら劉璋のいる成都城を目指した。
到着したのは、荊州を発って一週間後であった。
馬良が到着した成都城は、異常なまでの慌しさを見せた。
そして馬良は、劉璋を含む部下数十名の待つ間へと通された。
すでに知らせを受けていた劉璋は、待ち詫びたかのように馬良を見下ろした。
「久しぶりだな馬良よ」
「はい。荊州の偵察に行ったきり、報告が滞ってしまい申し訳ありません」
「ハハハ。てっきり劉備の家臣になったものと思っていたが」
劉璋は冷たく、蔑んだ笑みを浮かべ言葉を吐き捨てた。
それに対し、馬良は自分の立場をわきまえ振舞った。
「荊州に行ったことで収穫はありました。劉備殿は噂通りの立派なお方でした」
「まさかそんなことを伝えに来たのではあるまいな? 用件を聞こう」
「劉備殿は殿との平和協定を望んでおられます」
「ほう。おそらくそんなことであろうと予想はしていたぞ。ワシは心が広いからな。いざという時は、助けを出してやらないこともないぞ。ただし、それに見合うだけの金品をよこすぐらいの態度を示せばの話だがなあ」
劉璋は挑発的な姿勢を取った。
しかしそんな劉璋に構わず馬良は続けた。
「この国の現状をご存知でしょうか? 北には曹操の大軍。東には孫権。どちらの勢力も強大で、荊州もこの益州もその力に太刀打ちすることは難しいでしょう」
劉璋は不機嫌そうに顔をしかめた。
「だから何だ?」
「一刻も早く荊州と益州を統一し、蜀をまとめる人物が必要です」
「なるほどそういうことか。話はよめたぞ。つまり劉備に代わって、ワシが荊州も治めればよいということかな?」
「いいえ…… 率直に申します。益州を劉備殿に譲って頂きたい」
その言葉を聴いた劉璋の眉がピクッと動いた。
「おい馬良。言い違いはなくすよう心がけねばならんぞ」
「いいえ。言い違いではありません。ぜひ劉備殿を益州の…… いえ、蜀の主に!」
「ふざけるな!」
劉璋が凄い剣幕で立ち上がった。
「馬良! しばらく見ぬうちに、すっかり劉備に取り込まれたようだな!」
「違います。私は客観的に見て申しているのです」
「黙れ! よいか? 考えてもみろ。我が益州は荊州などとは比べ物にならぬほど、大地は肥沃で広大、更には優秀な人材に溢れておる。荊州の劉備など比ではない!」
「それは存じておりますが、荊州の劉備殿は赤壁にて、曹操軍の大軍を破るという功績をあげています。それもわずかな手勢で……軍師孔明殿は今や曹操、孫権もが恐れる存在となっています」
「だから何だと言うのだ?」
「劉備殿の力は強大だということです」
劉璋にとっては実に面白くない話である。劉璋はおもむろに馬良に近寄より、姿勢を低くした馬良を上から睨んで言った。
「よし! ならば見せてやろうではないか! 我が軍と劉備軍。どちらが勝っているか!」
続けて劉璋は、参謀である張松に。
「おい張松! 出陣の用意は出来るか!?」
「はい、いつでも準備は整っております」
その言葉を聞くとニヤッと笑みを浮かべた。
「聞いたか馬良。お前がそう言うならば、私が劉備を討ち滅ぼし、誰が蜀の主に相応しいかを証明してやる!」
馬良は顔を上げ。
「それはお止めください。今は劉備殿と争っている時ではありません。曹操や孫権もこの地を狙っています。今、仲間割れのような戦をすることは、その手助けをするようなものです!」
「黙れ!このままではワシの気がおさまらん!」
「お待ちください。劉備殿はあなたと戦うことを望んではいません。戦は民を苦しめるだけです!」
馬良は床に額を擦りつけ。
「どうか劉備殿に益州を! それが蜀の地を、そして民を守るための道なのです!」
「ええい、黙れと言っておるのだ!!」
劉璋は鬼の形相となった。
その瞬間。やはり聞いてはもらえないのかといった悔しさが馬良の胸に込み上げた。
そして次なる手段にでた。
「お聞きください。劉備殿は、もしあなたが益州を譲ってくださるのであれば、荊州の地に古くから伝わる名刀『六星剣』を献上すると言っておられます」
そう言うと、懐からあの宝石に輝く剣を取り出した。
それを見た劉璋。
「何? 劉備がその剣をワシに?」
六星剣を手に取った。じっくりと眺める。
「確かに美しい剣だ」
「それでは交換条件を飲んでいただけるのですか!?」
しばらく悩む劉璋であったが。
「それとこれとは別だ。いくら立派な剣でも、益州の地とではつりあわん。それに剣というものは外観が美しければ良いものではない」
そう言って六星剣を押し返してきた。
「お待ちください。その剣は切れ味も天下一品なのです。おそらく六星剣に勝る剣は存在しません」
「それは誠か?」
劉璋はその言葉を聞き、剣の刃の部分を見ようと思ったが、剣を鞘から引き抜こうとしてもまるで抜ける気配がないのだ。
まるで鍵がかかっているかのように。
「これはどういうことだ? 剣が抜けないぞ」
「はい。それは誰もが使えぬよう、抜くためのちょっとした細工がなされているのです」
「どれ。早く引き抜いてみるがよい。どの道、益州との交換条件にする気はないが、見るだけは見てやろう」
その一言に馬良の心の中には暗雲が立ち込めた。落胆の念が込み上げる。諦めの心も。それと同時に最終手段に踏み切るための心の準備を始めた。
「では、六星剣を抜きます」
馬良は静かに頭を下げた。
劉璋の手から六星剣を受け取ると、細工を外し、鞘から引き抜いた。
輝くような刃が姿を現した。
「ほう。それがそんなに名刀なのか? 鞘に入った刀は確かに美しいが、抜けば私の剣と大差はないように思えるぞ」
決断の時がきた。そう直感した。馬良の心の中で何かが動いた。
「では、試してみてはいかがですか?」
「試すまでも無い。とっととその剣を持ち帰って劉備に伝えろ。明日にでもお前の首を取りに行ってやると!」
その瞬間馬良の目つきが変わった。そして低い声で言った。
「では私が試して進ぜましょう……」
「何?」
思わず聞き返す劉璋に、馬良は素早く身をおこすと体当たりをする形で、劉璋の胸目がけて剣を付き立てた。周りを囲む劉璋の部下からは、どよめきが起こった。
しかしこの時、もっとも違和感を覚えたのは馬良自身であった。
六星剣が劉璋の体に食い込む感触がない。そのうえ自分の手には激しい痺れ。そして剣で突き刺した瞬間に鳴り響いた金属音。
すると劉璋の不敵な声がした。
「相変わらず浅はかだのう馬良よ」
劉璋は服の下に鉄の胸当てをしていたのだ。
六星剣の刃はそれに阻まれていた。
参謀である張松が言った。
「馬良よ。お前がそのような行動に出ることは想定内だ。万一のために、殿には護身用の胸当てをして頂いたのだ。この裏切り者め!」
張松の指示で部下たちが馬良を取り押さえた。
『くそ…… なんということだ! 全て見透かされていたとは!』
馬良は兵に押さえ込まれ、床に倒れこんだ。
劉璋が服の乱れを直すと。
「これでお前は完全に劉備の家来と証明されたわけだ。残念だぞ。お前は優秀な家来だった。ワシの下にいれば、いつの日か蜀の主となるワシの片腕になれたものを……」
「劉璋。これだけは言っておく。あなたには蜀を治めることはできない。民を守ることも」
「反逆者がデカイ口たたきおって」
そして、馬良は心の中で詫びた。
『無念…… 孔明殿お許しください。あなたから与えられた任務を果たすことが出来ませんでした…』
劉璋は部下全員に言った。
「よいか! この者は明日、百叩きの刑のち、打ち首に致す!」
部下が平伏した。
「馬良よ。この六星剣は預かっておこう。明日、このワシが直々に切れ味を試してやる。お前の首でな……」
薄ら笑みを浮かべ劉璋は言った。
そして馬良は牢獄に連れて行かれた……
次回27日予定 全4話完結