13:絶望フライト(2)
◇ ◇ ◇
盛大にヤってしまった例の騒動から十数分が経過したが、未だに笑い声は絶えなかった。
そりゃあ、公然とセクハラをして、あれだけ大声を出して、最終的には吐いて……――沈黙したのだ。
隣接した席の他の客に気付かれないワケがない。
それでも笑われて済むのならば、幾分かはマシな方だ。
そう、嘔吐物の芳醇な匂い――無論、揶揄的な意味で――と言う名の公害で反感を買うよりかは。
とにもかくにも、やってしまった事は仕方が無いとしても隣の夏希には何だか申訳がなく、冬真としてはいたたまれない気持ちになる。
「本当に……悪かった」
それでも謝る事しか出来ない冬真は、かれこれ六回目の詫びの言葉を夏希へと向けた。
「あ、はは……もういいよ、終わった事だ。それよりも気分はどうだ?」
「だいぶ良くなった」
「にしてもキミはもともと乗り物には弱いのだろう? 乗る前にしっかり言ってくれたら、あんなに慌てずに済んだものを」
苦笑いしか出て来ない夏希は、頬に手の平を添えながら冬真をじっと見て言う。
冬真以外に視線を向ける事が出来ないのは、周囲からの奇異な視線が冬真に留まらず、隣の彼女にも突き刺さっていたからだ。
きっと彼らと目を合わせては、気まずい事態になりかねないと直感したのだろう。
「別に。乗り物に弱いワケじゃ――」
「ン? なんだ、違うのか?」
――乗り物に弱いワケでは無いのに、あの“吐き様”は異常だ。一体何が原因だろうか……?
冬真が即座に否定するものだから、夏希はきょとんとした面持ちで冬真の返答を待つ。
今まであれほど盛大に『アレ』をぶちまけた状況に居合わせた事のない彼女としては、少し興味を持ったらしい。
「ふふんっ! そ・れ・は、もっちろん、高所恐怖しょ――」
その時だった!
アリアンロッドがひょっこりと機内の小窓に映り込んだかと思えば、意気揚々と言ってはならない事を口走りそうになったので――。
「黙れ」
冬真は咄嗟に窓に腕を突っ込むと、アリアンロッドのふっくらした頬を全力で握りつぶした。
ぷにぷにとした柔肌は無残にも扁平し、あひる口になってしまう。
「ひゃ、ひゃい。ひゅひみゃひぇんひぇひひゃ」
アリアンロッドが口をもごもごと動かしながらも潔い返事をするので、冬真は仕方なしに彼女の頬を開放してやった。
それにしても、面白い程によく伸びる肌である。
「ううぅ、痛いですぅ」
アリアンロッドは赤くなった頬をさすりながら、渋々と混鏡世界内の冬真が座っているシートに腰を下ろす。
元々そこに座っていた彼女であったが、気になる話題――冬真の高所恐怖症の件――に“つい”首を突っ込んでしまったのが運の尽き――先程の茶番に至った訳である。
結果として、頬の痛みと共にアリアンロッドは「冬真怖い……冬真怖い……」と呪詛を唱えながら、恐怖を胸に刻み込まれる事となった。
「こらこら。ロッドに八つ当たりをするンじゃない」
「これは八つ当たりじゃない。制裁だ」
そう言って冬真は指の関節をパキパキと鳴らしながら、アリアンロッドをじっと睨みつける。
存外、冬真も根に持つタイプなのだろう。
――ったく、口は災いの元って言葉を知らないのかね。
ふぅと溜息を一つ吐き出した冬真は席を立って中央通路に出ると、乗降扉へと向かってゆっくりと歩き出した。
「――って、どこに行くンだ?」
「便所」
夏希の問いかけに対して、ぽつりと零す様に言葉を返す。
一々訊くなという冬真の心情の現れなのだろうか?
「……まだ吐き足りないのか? 背中擦ろうか?」
「いいよ、別に。吐きたい訳じゃない」
それだけを言い残した冬真は足早に化粧室へと向かう事にする。
再び周囲の客たちがざわつき始めたことは、最早言うまでもなかった。
化粧室へと入った冬真は一思いに顔を洗うと口に少量の水を含んで濯ぎ、ハンカチで乱雑に顔を拭う。
そして鏡の前に立つ青ざめた顔――無論、吐いたが故にやや扱けた自身の顔であるが――を眺めては、心底うんざりしてしまう。
「――……みっともねー顔だな、おい」
見ず知らずの他人達に“あんな”醜態を晒した挙句、体調も優れない、ときたモノだ。
特に頭の中をかき混ぜられるような――……ン?
かき混ぜられるような……?
ビー! ビー! ビー!
その時だった!
機内の警告音がけたたましく響いたのは。
「? こりゃあ、一体……」
視界が斜め三〇度に傾いたと思えば、足元から『重力加速度が寧ろマイナスな』浮遊感を覚える。
さながら遊園地の絶叫マシン――フリーフォール系――に、知らずにうっかり乗ってしまった時の様な絶望的状況だ。
勿論、それは冬真が高所恐怖症という存在すら知らなかった幼少期の話であり、今現在では『特定条件下』に於いてのみ克服しているのだが。
とにかく人間の基礎的な能力の一つである平衡機能(感覚)が正常に作用しているのだから、少なくとも彼は“まだ”冷静さを欠いていないと判断して良いのだろう。
まぁ、この際そんな事はどうでもいい。
自衛隊の航空機でもない一般の旅客機が安全性度外視の急旋回をする筈もなく、客席からは絶え間なく悲鳴が聞こえてくるのだから……きっと『そういう事』なのだろう。
意を決してすぐさま化粧室から飛び出した冬真は、客席の騒然さ――不測の事態の混乱――を一目見て“はた”と立ち尽くした。
その光景が『やはりこの旅客機は落ちているのだ』と、理解するに十分であったからだ。
足早に冬真は自席へと向かうと、仲間たちが不安気な表情を向けてきた。
皆が皆、考える事は同じなのだろう。
旅客機が墜落し、乗客・乗組員全員の死亡という最悪の結末をどうしても防ぎたいが、自分達の幻影ではどうにもならない、という事を。
そう……結局、特別な力を授かった冬真達でさえ、この状況を打開する術は持ち合わせてはいないのだ。
幻影は万能ではないのだから――。
冬真の脳裏には、過去にアリアンロッドに言われた言葉が深く突き刺さった。
こういう事、なのか。
「冬真、このままでは――」
珍しく弱気な表情の夏希が、冬真にも『存在しえない答え』を問う。
自分達ではどうする事も出来ないのだと理解した上で、だ。
きっと人間の心理上、黙っている方が不安を助長させるのだろう。
だからこそ混乱状態の乗客達は、狼狽え、喚き、嘆き……無駄と分かっていても続けるのだ。
「分かっている。分かっている、けど……」
自らの死に直面した状況下で、一般乗客達に「冷静を保て」と強要する方が無理難題であるし、同時に酷というものである。
そうする事が、自らの精神を保つ事に繋がるのだから。
機体が傾いてから数分後にポーンと、航空機独特の警告音が客室に響く。
少々遅い対応の様な気はするものの、漸く現状の説明があるのだろうか。
「御客様へ緊急連絡です! 当機は原因不明のシステムダウンにより航続不能となりました。しかしながら、鹿児島空港へと引き返す余力がありません。
当機はこれより、緊急の水面着陸を行ないます。慌てず確実に客室乗務員の指示に従って下さい。
それではまず、シートベルトを腰の低い位置でお締め下さい。そして気圧の低下が予想されますので酸素マスクの着用をお願いします。マスクの使用方法は――……」
衝撃の事実が機内放送にて繰り返される中、数名の客室乗務員が駆け足で中央通路を通過しては等間隔に配置に着いた。
そして四方から飛んで来る野次に耳を痛めながらも、彼女達は冷静に水面着陸の前準備について機内放送に合わせながら実演する。
全員が笑顔を絶やすことなく息を揃えた実演――乗客を不安にさせない為の対策――だとしても自分達も死んでしまうかもしれないというのに、冷静さを保ちながら行えるのは凄い事だ。
そんな中、問答無用で野次や悲鳴が飛び交う。
「どうなってやがんだッ! 畜生ッ!」
「私達、死んでしまうの!?」
「何々? これ落ちるワケぇ? 冗談じゃないわ!」
「やだぁーっ! こわいよぅ!」
命の危険に関わる大事な事なのだから仕方が無いし、不安なものは不安なのだから当然だろう。
どうしようもないのも分かる――けれど今、客室乗務員が指示している事を守らなければ、生存率は限りなくゼロに近付いてしまうことも事実。