10:搭乗日(5)
そんな回想をしていたからだろう、いつの間にか背中から圧し掛かってきていた眠気もすっかりと吹き飛んでしまっていた。
――このバスも少しは停留時間があるし、少し歩いてみるか?
手間の掛かる奴だなと思いながらも、恭平の家の方角に向かって少しだけ歩く――その時だった!
「ポンコツって、言うなぁあ!!」
「イぃッ、た……!?」
遠くからそんな声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には鈍い音と共に臀部に鈍痛が走る。
尻の丁度割れ目にクリーンヒットしたその何かは、ポトリと落ちて冬真の足元へと転がった。
これはどう見ても誰かのサンダルだ。
それもビビットカラーのファンシーなビーチサンダル。
こんな派手な代物を物怖じせずに穿ける人物なんて居るワケが……――あ、居た。
奴が居た。
十数歩だけ歩いた冬真の現在位置は丁度、T字路の中心。
彼が右に振り向けば三十メートル程離れた所で、恭平が左足をプラプラと上げているではないか。
彼の右足にはしっかりとサンダルが収まっているのに対して、御親切にも左は素足の状態である。
スリッパ飛ばしの要領で、よくもまぁこの距離を飛ばし、あまつさえ尻に多大なダメージを与えてくれたのだ。
「そい、こっちン投げてー!」
片足で懸命にぴょこぴょこと跳ねながら近づいて来る恭平は、大きく手を振って冬真に合図を出していた。
「お前ぇ……」
冬真はゆらりとサンダルを拾い上げると、横目でバスを視界に捉える。
散々心配させた挙句に、恩を仇で返すような奴には灸を据えてやる必要がありそうだ。
冬真はそう感じていた。
再び仏頂面に戻っていた冬真は停留所に戻ると、バスの停車位置を目測し――サンダルをバスの前輪目掛けて放り投げる。
それは、バスの停車二秒前の事。
地面で一度跳ねては数回転がり、ぴたりと止まった。
ややスローモーション掛かった様な印象を受けたのは、きっと当事者である恭平と冬真だけだろう。
その直後、無慈悲にもサンダルは無音で踏み潰された!
――きっと『神掛かった』とは、こういう事を言うんだろうな。
「あ、アーッ! 俺のーッ!」
大型バスの下敷きとなってしまったサンダルを遠くで目撃した恭平は、慌てた様子で叫び声をあげた。
それまでは裸足で走るコトを気にしていた恭平であったのだが、すぐさま片足走行を止めて彼は全速力でサンダルの救済に向かう。
とはいえ早朝であるにも関わらず、路温は三十度越えの猛暑日だ。
足の裏を火傷しなければ良いけどな、などと思いながら冬真は恭平を内心嘲笑っていた。
周りからも微かな笑い声が聞こえてくる。
男子たちの馬鹿なやり取りの一部始終を見ていたのだろうか?
「ぅあっつ! あっつーッ!」
やっぱり地面の熱には逆らえないらしく、ぴょこぴょこと飛び跳ねる様な走り方をしている。
恭平が少々涙目になっているのは気のせいだろうか?
そしてようやくバスに到着しては、サンダルを全力で引き抜こうとするが……何せ大型バスだ。
そうそう抜ける筈も無いのは明白だった。
「ちょ!? おま……オイぃいっ! 取れねぇじゃんかッ!」
「当たり前だ。つーか、諦めてさっさと乗れよ」
冬真はバスのステップに足を掛けながら、恭平に対して無気力に言う。
バスに乗ってないのは既に、冬真と恭平の二人だけだ。
――意外とみんな薄情だな。
冬真はそう思いながらも、そのまま恭平を置いて空いている座席へと移動した。
彼が運転席を通り過ぎる時に、運転手のおじさんの表情を覗いたら苦笑いを浮かべていた。
それでも内心ではきっと「御託はいいから、早く乗れ」とでも思っているに違いない。
「運転手さーん、お願いだから少しだけ前に移動してぇえ!」
そんな事など知る由もない恭平は、運転手に全身全霊を込めた土下座をする始末だ。
すると運転手も流石に根負けしたのか、少しだけアクセルを吹かしてバスを前進させる。
これ以上バスの出発時間を遅延してしまっては次の停留所の定刻に着かなくなってしまう……そう考えての妥協案だった。
漸く解放されたサンダルを手に取れば、彼のそれはぺちゃんこになっており、鼻緒部分を無理矢理広げれば辛うじて穿ける――そんな状態だった。
その上、ハイカラなカラーリングは、タイヤのせいで無残にも黒ずんでいるようにも見える。
涙目になりながらも恭平が運転手へ頭を下げながら車内へと入ると、周囲からはクスクスと潜む様な笑い声が聞こえてきた。
どうやら女子達――と言っても自分達の顔見知りばかりではない――の耐えきれない笑いが、微かに漏れていたらしい。
「あ、あぁ……。もう二度とサンダル飛ばしなんかしねぇッ!」
そんな不憫な空気に晒された恭平の目からは、更に涙が溢れてきたのだった――。