22:貪欲の代償「M」
◇ 06月28日(木) ◇
それは守浜高等学校の学校教諭である森山氏の身に異変が起きた翌日の事だった。
名護からの招集を受けた冬真は、その日の放課後になると日本幻影犯罪対策室の執務室へと向う。
その室内の応接スペースにて、室長である名護総司は衝撃的な一言を口にした。
「あ? ……今、なんて?」
「何度も言わせるな。仏さんに失礼だろ? 森山って教師は亡くなった」
「殺されたのか? それとも……自殺?」
「そりゃ、どちらとも言い切れんな。現時点での他課の見解は自殺と断定している。が、我々JP'sの観点からすれば……一概にそうとは言い切れないからだ」
名護はそこまで言うと、深刻そうな表情を浮かべては指を組んで顎を乗せる。
「と言うと?」
「――昨夜、お前が彼を交番に送り届けた後の話だ。彼は、警官が少し目を離した隙に交番を逃げ出したそうだ。警官が慌てて追いかけるも、一瞬にしてフェードアウト。その直後のブレーキ音。もう解るな?」
「車に……轢かれた、のか。でもなんで?」
交番に引き渡した時点で、既にマモンは森山の身体から完全に抜けていた。
つまり、憑依される前の正常な状態に戻った筈なのに……何故?
「なんで、か。まァ、当然だわな。これは俺の意見だが……彼が死んだ理由を、マモンが憑りついた事に依る一種の精神汚染が原因とみた」
「精神、汚染……?」
聞き慣れない単語に冬真は思わず復唱した。
精神が汚染される、と言う事が一体どういう事か……あっ。
附合する点を見つけた冬真は、はっとして気付く。
「へェ、気付いたか。要するにマモンに身体を許しちまった時点で、人として終わっていたンだ。人が壊れていく様をあの夜、お前は見た筈だ。……例え、元凶であるマモンが身体から抜けたとしても、脳細胞が異常状態を抱えてしまった以上、自然治癒なんてありえない」
ため息を吐く名護の姿からは、彼の遣る瀬無い気持ちが見て取れる。
マモンが憑りついた時点で救う事は出来ない――本人の自然治癒は愚か、どのような回復系の幻術であろうと手の施しようがないのだ。
慎重な名護がこれほどまでに断言するのは、きっと過去事例があったからなのだろう。
「でも、まだ断定は出来ないんだろ?」
「まァな。そんじゃ、夏希には死因観察、星ヶ峯には詳細情報検索でも依頼するか……」
いつもの気怠気な表情へと戻った名護は、ジャケットの懐から携帯電話を取り出して、今にも電話を掛けようとしている。
それを見た冬真は、思わず立ち上がって名護の携帯電話を取り上げた。
「いくらなんでも、女子高生に死体を弄らせるのは……悪趣味じゃないか?」
「た、はは……冗談だよ、冗談。本気で怒るな。お前、意外と真面目だなァ! そんな重要な事を俺が抜かるか? ただのフリだ」
名護は携帯電話を奪い返すと、苦笑いを浮かべながら冬真に言う。
そして続けて「既に星ヶ峯には連絡してある」事を告げた。
――冗談にしては、キツイな。このおっさん。
今のは名護が仕掛けたただの茶番である――らしいのだが、冬真としてはとてもそうは見えなかったのだ。
普段の表情からの真面目な話程、不意打ちというエッセンスを加味しても高い信憑性があるのだから。
「なんだぁ? 夏希の事が心配か? 好きなのか? おっ? ぉおッ? まァ……お前らも、そろそろお年頃ってヤツだしなぁ。俺にも分かるぞォ! ちゃんとやる時は近藤さん、着けンだぞ!」
「馬鹿は休み休み言え。そもそも、ガキの姿で言われても、説得力無ぇよ」
「た、はは……そりゃ、違ぇねぇサ。さて、と。ここからは真面目な話、連絡はもう一つある。今回の特務についてだが……報酬は無しだ」
「はぁあ? 特務? しかも、無し!?」
唐突に話を切り出した名護には付いて行けず、冬真は稀に見る素っ頓狂な声を上げてしまった。
いつの間に特務の依頼なんか受けたのだろう、と脳内をぐるぐる駆け巡る文字列たち。
どれだけ自身の脳内に情報検索を掛けたとしても、出てくる筈はなかった。
それもそうだ、特務を受けた記憶など、在りはしないのだから。
「……で、特務の内容は?」
「ン? 忘れたのか? 七つの大罪である、貪欲の悪魔・マモンの捕縛だ。けど、結果は逃げられた上に、関係者も死亡。まぁ、減給にならないだけマシだろ?」
「マモンの捕縛……初耳だ。その特務はいつの発注?」
冬真は名護の目をじっと見据えて問う。
すると今度は名護が唖然とした表情をして答えた。
「六月十八日の夜だ。ちょっと待て。お前、メール見たンじゃないのか?」
冬真と名護の、どちらの反応も演技でないのは明白だった。
それだけに、応接スペースでは疑問符が飛び交う。
「は? メール?」
「ああ。パソコンでも携帯でも見られるように、Gメールにした。まさか、未確認って訳じゃない……よな?」
そんな冬真の様子に違和感を抱いた名護は眉間にシワを寄せて訊く。
冬真は心のわだかまりが残りつつも携帯電話を取り出し、受信ボックス内のメールを確認し始めた。
送られたメールを見ていないのならば、該当するメールには未読マークが付いている筈である。
その日のメールは全部で六件。
その内訳として、既読メールは六件。
つまり全てのメールが既読なのだ。
これは一体どう言う事だろう?
「残念ながら、そのまさかだ。おっと……これ、か?」
見知らぬアドレスからのメールを二件見つけた冬真は、すぐに一件目の本文へと視線を滑らせる。
文面には、特務の内容――捕縛対象であるマモンの容姿、期限日、主な出現場所など――がざっくりと記載されていた。
こんな情報があるのならば、もっとやり方もあったろうに。
とは言え、冬真はこのメールの存在をたった今知ったのだ。
今更ながら、どうする事も出来ない。
そもそも冬真の記憶が正しいのであれば、既読になっていること自体が有り得ないからだ。
もう一つのメールは、例の赤い幻核についてだった。
本文には「出所を探し出して報告する事。
但し、出所を発見しても現場担当者のみで判断し、対処する事を禁ずる」とある。
冬真の幻影・ノートの言っていたメールは、どうやらこの一通を指していたようだ。
あの赤い幻核は、それ程までに危険な代物だったという事だろうか……?
だとしても、既に壊した後である。確認のしようもない。
「見つけたか? まァ、いいさ。とにかく、そのアドレスは電話帳に登録しとけ。ンで、俺の用事はあと一つある。これは嬉しい知らせだから、素直に喜んで良い。冬真、ちょっと耳貸せ!」
「ンだよ……?」
「実は、な――」
冬真が少しだけ興味を示すと、名護は本物の子供のように嬉々とした面持ちで話し出す。
それが次の波乱を生む片道切符だと言う事も知らずに――。
第八話:貪欲の代償「Mammon」 了