15:劣悪な指導(2)
◇ ◇ ◇
課題に取り掛かってから、どれだけの時間が流れたのだろうか。
済ませた課題は積み上げられて別の山を形成するが、それでもようやく全体の半分ほどだ。
進捗としては、あまり芳しくない状況だろう。
その上、ふと視線を外へと向けると既に辺りは暗く、街灯の明かりが窓をおぼろげに照らしていた。
運動部員の暑苦しい声が聞こえなくなった事と、今の時期でこの暗さならば、現在の時刻は二十時を過ぎているのだろう。
であるならば三時間ほどは机――ではなく古びた床――に向かった事になる。
結局あの後、森山は一度も生活指導室に現れてはいない。
――さては俺を放置して自分だけ帰ったな?
大量に準備した未履習の課題を解き切る事など出来はしないと、彼は最初から分かっていたに違いない。
本当にそうであるならば、実に腹立たしい事である。
そうでなくとも、これは正当な指導とは程遠い行為だ。
そう考えたが最後。
他の悪い考えが次々と浮かんでは脳の領域を圧迫し、せめぎ合い――やる気を阻害していく。
「ダーッそ! やってられっか! ンな下らない課題なんかッ!」
今の今までは生真面目に課題に取り組んでいた冬真は、流石に我慢の限界であった。
とうとう冬真は、手に持つ匙――では無くシャーペンを放り投げてしまう。
当初の意気込みは何処へやら……課題に手を掛けたは良いものの、流石の冬真も物量で押されては相応の時間と根気が必要らしい。
自身を嘲笑うかのように短く鼻を鳴らしては、冬真は床に仰向けに倒れ込んだ。
「ちょっと、冬真。大丈夫です?」
「お前の目には、これが大丈夫そうに映るのか?」
室内で唯一の窓に映り込むアリアンロッドが、いつもの緩い表情で冬真に訊く。
見方を変えれば彼女は心配しているようにも見えるのだろうが、冬真の意見としては「彼女は何も考えてなどいない」の一点に尽きた。
無論、大丈夫な筈がない。
彼の集中力はとうの昔に切れているのだ。
本音を言えば二時間を超えた辺りから、やる気スイッチは切れていたのだが。
「ふふっ。ならば、妾が手伝ってやろうかの?」
鏡世界側に居るアリアンロッドの隣で長机に腰掛け、じっと事の成り行きを見ていたノートが助け舟を出す。
助けてくれる事は冬真としても素直にありがたい事ではある。
あるのだが大量にあった課題も折り返しに差し掛かり、気力の切れた頃合いでは余りにも遅すぎなのだ。
これ以上、贅沢を言うつもりではないのだが、出来ればもう少し早く言って欲しかったと願う冬真であった。
「……、それをこのタイミングで言うのか? やってくれンなら、もっと早めに――って!?」
いつの間にか近づいていた人の気配と足音を感じ取った冬真は、すぐさま言葉を切る。
そして、次の瞬間には生活指導室の引き戸が開け放たれた。
反射でその方向に振り向けば、帰宅したと思っていた森山が仁王立ちしているではないか。
流石の森山も、どうやら冬真を放置して帰ってはいなかったらしい。
「おい、貴様はいったい誰と話して――って、起きろクソガキ。何を寝ている?」
床に寝転がった冬真をすぐに見つけた森山は、爪先を彼の腹部に食い込ませるように蹴りを放った。
「うぐ……」
森山の突然の蹴りには、流石の冬真も身構える事が出来ない。
そもそも直接的な体罰を受けるとは思ってなどいなかっただけに、殆ど無防備な状態で蹴りを受けてしまった。
そもそも声を出して反抗しようと、力の暴力で対抗しようと、きっと森山の思うツボである。
だから冬真はその場にゆらりと立ち上がり、眼力のある細目に更に目力を篭めた。
そもそも今は森山の言う事を聞いているが、だからと言って彼に対して従順を誓った訳ではない。
これは、その意思表示である。
「なんだ、その反抗的な目は? それより今、何を話していた? まさか電話で誰かに教えを乞いていたんじゃないだろうな?」
「してない」
「嘘を吐くな。貴様の携帯電話も没収だ。貸せ!!」
そう言って森山は彼に手を差し出してきた。
どうやら冬真と幻影の会話が聞かれていたらしいのだが、森山は稀人ではないただの一般人である。
そもそも一般人に幻影の声は届かない。
だから森山には冬真達の会話が独り言のように聞こえ、それが電話で会話していると錯覚させたのだ。
――まったく、森山の勘違いにも甚だしい。
彼の、あまりの横暴さには反吐が出る。
冬真は煮え切らない感情を無理矢理に抑えつけながら、渋々と自身の携帯電話を森山に差し出した。
すると森山は素っ気なく電話を受け取ると、すぐさま画面を開いて中身を見始める。
きっと着信・発信履歴を見たのだろうが――……表情が少しだけ揺らいだのを冬真は見逃さなかった。
少し焦ったように端末を操作する森山は、実に滑稽である。
それもそうだ。
課題に取り組んでいる時間帯は携帯電話を触りもしなかったのだから、通話履歴が無くて当然なのだ。
しかしながら、森山はさも何事も無かったかのように、それを自身のジャケットの内ポケットに仕舞い込む。
自分の勘違いで没収した携帯電話を今更返せる訳が無いし、それこそ教諭としての威厳を損ないかねないからだ。
一瞬だけ発言の機を失った森山は、自らが課した課題の山と冬真が解き伏せた課題の山に視線を走らせる。
何か言わなければ!
そう焦る気持ちが露呈していた。
「なんだ、まだこれだけか。明日までには終わらせろ。いいな?」
その焦りを誤魔化す為に森山が取った次の行動は、重箱の隅を楊枝でほじくるような発言である。
そんな判り切った事、言われなくとも見ればすぐに分かると言うのに。