12:謎の転校生(2)
予冷を聞いた一年一組以外の生徒らは思い思いに言いたい事を捨て吐きながら、蜘蛛の子を散らす様に各教室へと帰って行った。
どれだけ大きなイベントがあろうとも、学校のルールを破ってまで悪ふざけに興じる意味はない、という事を彼らは解っているのだろう。
彼らの流れに便乗し、冬真も自分のクラスへと戻る事にした。
元々冬真は翠子に謝りに行くつもりだったのだが、その場の成り行き上、当の本人とは話さず仕舞い。
いくら彼女の為とは言え、酷い事をしたのも事実――故に彼なりにケジメを付けなければならなかった。
「学校じゃ無理だな……JP’sで話すか」
自席に着いて机から倫理の教科書を取り出しては、思わず深々とした溜息を吐き出す。
先の件も原因の一つではあるが、憂鬱の一番の原因は退院早々の一限目が「森山の憂鬱な倫理」であるからだ。
「退院早々、溜息? まァ、敷宮君からすれば入院生活の方が天国だったかもね。ずぅっと寝ていられたワケだし」
「別に」
待ち構えていたかのように、冬真の後ろから祐紀が声を掛ける。
とは言え入院中はずっと――尤言えば昨日の昼まで意識不明だったのだから、彼からしてみれば少なくとも天国ではなかった。
熟睡出来たという実感も無ければ、文字通り「惰眠を貪った」だけで授業をサボった実感も無い。
冬真としても思う所は色々あるが、それを逐一祐紀に伝えるつもりも無いから、彼はいつも通りの短い言葉で会話を断った。
「また言ったなぁ!?」
途端に祐紀は吠えたが、担当教員である森山が入室すると同時に口を固く閉ざす。
以前、物理の担当教員・河嶋にも注意を受けているし、学級委員長と言う立場もある。
だから自らを律し、クラスの模範となる様な行動を選択し、実行したのだ。
壇上に立った森山は、出席簿を教卓に叩きつけて皆の注目を引き付ける。
既視感を覚えた冬真は、すぐさま物理の河嶋の顔を想起していた。
教師の中で「出席簿叩き」が流行っているのだろうか?
そうこうしている内に始業の鐘が鳴る。
森山は日直に号令を促し、憂鬱な五十分が開始した。
「――そこまで。ではその次を……手越!」
「はーい」
森山の指名を受けた男子生徒が気怠そうに立ち上がると、先程まで教科書を読んでいた生徒が着席する。
さながらそれは、教科書音読リレーのバトンタッチである。
――あぁ、今日は何頁いくのやら……。
冬真の憂鬱の理由は単に森山の性格が苦手、という単純なモノでは無い。
彼の授業スタイルが冬真にとっては、根本的に反りの合わないモノだからだ。
授業の大半を延々と教科書の音読で済ませてしまっていては、身に着く科目も台無しになってしまう。
必修科目でありながらそんな無為な授業だからこそ一層に冬真は憂鬱、果ては憤りさえ覚えるのだ。
そもそも選択科目ならば冬真は、諸手を挙げて倫理を選ばなかっただろう。
時折、黒板に用語を書いて口頭で説明をすればまだ救いがある。
けれどもそれは最早、能動的に勉強する学生の為の「大学の講義」である。
一般に学生と呼ばれる人種は高等機関である大学以上の学校に通う人を指す為、高等学校以下の冬真達は生徒なのだ。
一介の高等学校がそれを目指すならば、志としては高く評価されるのだろうが――現状は「ただの手抜き」に過ぎない。
そもそも延々と教科書を音読するなど「どうぞ寝て下さい」と言っている様なものであるし、冬真にとっては既に子守歌にしか聞こえない。
これで眠くならない奴の方がどうかしている。
音読の大半を聞き流しつつ、とうとう冬真はゆっくりと船を漕ぎ出した。
ゆらりゆらりと上体を前後させる冬真の姿は、教壇から丸見えである。
森山自身一度でも目を付けた獲物に対して気を掛けない程馬鹿ではない。
自分が近づく事さえ気付いていない冬真の席に近付くと、眉をヒクつかせながら彼は問うた。
「貴様、何している?」
森山が冬真に訊いてから、五秒が経ち、十秒が経つ。
十五秒程が経った頃、反応の無い冬真に対して森山の頭に血が上っていく。
中には笑って教科書(の角)で頭を軽く小突く教諭も居るが――相手と状況が冬真にとっては如何せん悪かった。
「……、……すぅ」
大人しい寝息を立てた事が、森山の怒りに拍車を掛ける。
――あ、あっちゃー。先生わっぜ怒っちょんなぁ。
現状を肌で理解した祐紀は触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、そっと教科書で顔を隠した。
その祐紀の行動を真似てか、他の生徒もちらほらと顔を隠す。
当然ながら皆、とばっちりは御免なのだ。
「――立て」
とうとう堪忍袋の緒が切れた森山は、冬真の右耳を抓り上げ、強制的にその場に立たせた。
ぎりぎりと音が聞こえる冬真の耳は、正に引き千切られる十秒前といったところか。
周囲の反応は痛そうを通り越し、既に見ない様に努めていた。
「あだだだだっ!? ……あ?」
思いっきり耳を抓られた冬真は、恨めしそうに森山に対して鋭い睨みを突きつける。
「なんだ、その反抗的な目は。まったく、近頃の生徒は敬意が足りんな……ン? 貴様、入学早々に問題を起こした奴だな? 廊下に立っていろ」
入学早々云々について、たった今気付いたような口ぶりを発している森山であったが内心では気付いていた。
気付いていなければ教師からの生徒への体罰や淫行問題、延いては自殺事件などと騒がれる昨今――この様な制裁は出来ないからだ。
それでも決行したのは、冬真が親や他の教職員に泣きつくような人種では無い事を理解していた事と……もう一つ大きな理由がある。
そもそも“そういった”類の噂は、何年も前から森山教諭の周りを取り巻いていた。
その噂の一つにこんなものがある。
――「近頃の教職員は世間体を気にし過ぎて、「悪い事は悪い」と言えず有耶無耶な教育しか出来ない者が多い。
そんな中でも世間体と戦える教員は珍しい」と、森山は「校長」からの高評価を受けた――という噂だ。
仮にこれが本当ならば、校長公認の体罰体制が暗に完成している事になる。
体罰体制とは言いつつも、校長にも懲戒免職に対する恐怖はある。
――故に、行き過ぎた体罰は看過出来ない筈。
それでも生徒間同士の噂によると、直近二カ月の彼の教育もとい体罰は日々エスカレートしているらしい。
つまり最近の教育は巧妙に隠蔽されている――校長の耳に届く前に抹消されている――のだろう。
聞いた話の全てが噂で、冬真にとっては曖昧なものであったが――火のない所に煙は立たぬ、だ。
森山の噂と実状が繋がった今、冬真の考えは変わった。
――今日の放課後は森山の情報をもう一度、情報検索で洗い出してやるか。
とは言え、どういった経緯であろうと嫌いな授業に参加しなくて良くなった事は素直に喜ぶべきである。
そう思うだけで眠気が掻き消えた。
冬真は森山の脇をすり抜けると、軽い足取りで教室出口へと向かう。
騒然とする席の間を縫って歩けば、クラスの勝手な会話が聞こえてきた。
「うわ、いいなぁ。俺も便乗しようかな」
「やめとけよ。目を付けられるだけだ。あと耳痛そうだったな」
「あーあ、可哀想。森山の餌食になっちゃってー」
「私も危うく寝る所だったァ」
「敷宮、運ねぇな」
「普段寝すぎている冬真が悪いんだから!」
聞き耳など立てずとも聞き取れる会話の殆どが、哀れむ声や自戒の声で満ちていた。
このクラスで授業態度が一番悪い冬真が「良い見せしめになった」もとい、良い刺激(=危険意識の向上)になったのだろう。
当の本人は苦行から解放された勢いで、周囲に刺激を与えた事に関しては全く意に介してはいない様子だが。