06:不和(3)
何が起こったのかも分からない冬真と恭平の二人は、完全に不意を突かれた形で満足に受け身も取れず、無様に床に突っ伏してしまう。
衝撃を受けた瞬間、二人は一瞬だけ記憶が飛んだ気がした。
二人の視界には斜めに傾いた教室と女生徒の足元のみ。
「てめっ、何すん――って、華?」
すぐさま顔を上げて視線を向けると、目の前には胸の前で腕を組み、仁王立ちをする華がいた。
一方の恭平は華を挟んだ対面で、冬真と同様に無様にうつ伏せの状態で倒れ込んでいる。
けれども恭平の視線は、明らかに方向が可笑しい。
彼の場合は吹き飛ばされ方が冬真よりも雑だったのか、思いの外華に近く、計算されたかのような背面の位置取り――故に、その位置なら見えるのだろう。
恭平の夢の国である、華のスカートの中身が。
彼の頬が既に変色――いや、あからさまに桃色に色づいているのは、きっと念願の園を拝む事が出来たからだろうか。
「さっきから後ろで見ていれば、アンタら馬鹿じゃない? てか馬鹿でしょ?」
そんな恭平の心情が分かる筈も無い華はそう言うと、不機嫌そうにむすっとした表情のまま、冬真と恭平の両方に手を差し伸べた。
けれど冬真は、彼女の手には応じずに自力で立ち上がる。
自らで招いた結果である為に、これ以上醜態を晒すワケにはいかなかったからだ。
一方の恭平はこことぞとばかりに、華に手を引いて貰っていた。
冬真が裾の埃を手で払っていると、再び恭平の視線を感じる。
その瞳には先程までの刺々しさはなく、彼はただひたすらに無言であった。
ただひたすらに、自分自身を振り返ってみろと、そう訴えかけられた気がする。
気が付けば、冬真はふと「とある事」を思い返していた。
それはそう古い記憶ではない――今日だ。
病院を退院して登校する途中、携帯電話を開いて冬真は戦慄していた。
【タナトスは現代に蘇った悪神。存在こそが罪である――】
とあるニュースアプリの見出しがこれだ。
タナトス――耳にしない日など無い程に、数多くのマスメディアに取り上げられる日々だったらしい。
無論、冬真が院内で昏睡状態に陥っていた時であっても、それは問答無用に変わらない。
執拗に凶悪性と醜悪性を強調された報道――そういう手の込んだ、下劣に編集された情報が毎日拡散した結果、特殊任務上の冬真の別名である「タナトス」は彼の意図しない方向へと独り歩きし、図らずも世界を敵に回していた。
これは最早、タナトスである冬真を悪に仕立て上げる為のプロパガンダではないか。
そのニュースを見て以来、流石の冬真も余り生きた心地はしなかった。
故の――祐紀と恭平への態度だった。
思い返せば、恭平の言う通りかもしれない。
どれだけ不安が募ろうと、苛立ちが湧き起ころうと――八つ当たりは良くないのだ。
恭平にそのような意図があったとは考えにくいが……結果として救われた事に変わりはない。
だからこの時ばかりの冬真の口からは、素直な言葉が零れる。
「――……悪かったよ」
バツが悪そうに首筋に手を添えながら、冬真はぼそりと呟く様にそう言った。
しんと静まり返った教室での謝罪は、手を止めたクラス中の生徒の注視を集める事になる。
「……、……」
より一層に静寂に包まれてしまった現状こそ、彼にとっては生きた心地がしなかった。
穴があったら入りたい、とはよく言ったものである。
「と、冬真が謝ったぁああ!?」
「うっさい。クララが立ったみたいな言い方するな」
某映画の少女の台詞に似せた華が余りにも騒がしかったので、すかさず冬真は突っ込みを入れる。
「と、冬真がぶったぁああ!?」
「ぶってねぇし。似てねぇし」
すると調子に乗った華が更に暴走し始めた。
叩いてもいないのに叩いたとか言うの、本当に止めて欲しいと切実に思う冬真である。
ただでさえ既に周囲の奇異な視線が集まっているのに……火に油を注いだとは正にこの事だ。
冬真としては、下手なリアクションで周囲から更なる注視を浴びるのも忍びない。
故に必要最低限の反論に留めた。
「ぷっ、あはははは」
今度は祐紀が壊れた……のだろうか。
急に笑い声を上げ、腹を抱えていた。
「はぁ~あ。やーっと、いつもの敷宮君だ。昼に登校してからずっと、捌いたけど“お頭”だけは一週間放置したカンパチの目をしていたから」
そう言った祐紀はゆっくりと蹴伸びをしては、間の抜けた声を吐き出す。
「それ、今の季節だったら蛆湧いてンじゃ……?」
一方の華は、不快そうな表情を浮かべて、心底嫌そうに「うへぇ」と零しながら、祐紀の発言を指摘した。
そして続け様に、恐る恐る冬真の目を一瞥する。
「一々突っ込むな。てか、こっち見るな」
「いやいや、突っ込まないなんて……ボケ殺しは止めようよ。ちゃんと突っ込んでこそのボケだよ? 冬真ってば、お笑いの基礎分かっている?」
「そもそも敷宮君。さっきのはボケでもなんでもないし! ……ただの揶揄表現だよ?」
「揶揄って、ただの悪口じゃねーか」
コトの成り行きを静かに聞いていれば良いものを、少し口を挟むだけで「あーでもないこうでもない」と二人から倍返しを食らう始末。
こんな平穏な世界なら――。
「あーも、うるさいなぁ。二人とも、そろそろ行っがよー! 祐紀ちゃん、ばいばい!」
「うん、ばいばい!」
間延びした華のいつもの掛け声に、冬真の口元も自然と緩む。
こんな平穏な世界なら――地球上の日本の九州の……こんなド田舎に住む高校生が世界を震撼させたタナトスだなんて、一体誰が信じようか。
手を振って教室を後にする華を、男子二人は足早に追うのだった。
廊下へと出た三人はいつもの場所である、実習棟一階の家庭科室前の廊下へと歩き出す。
「ンじゃ、今日も張り切ってJP’sに行こォ!」
そう言って拳を掲げる華は、いつになく楽しそうだ。
――声、でけぇな。
けれど、人目もある為に固有名詞を大声で口にするのはあまり感心しない所である。
「あー、ちょっとタンマ。忘れていた! 俺、寄るトコあるンだけど、二人とも付き合ってくンね?」
冬真が彼女を注意すべきかどうかを考えていると、一般棟玄関前を通り過ぎる手前で、恭平が二人に待ったを掛けた。
恭平が待ったを掛けるなど、今までで初めての事でもある為、冬真と華は二人揃って小首を傾げる。
「? 別に良かけど、どけ行っと?」
「そりゃ着いてからのお楽しみだ。けど、二人とも行った事はある筈だぜ?」
「あン? 行った事がある場所?」
「まぁまぁ、今は深く考えるなよ。あわよくば、なんか奢って貰えるかもだし」
恭平はそう言うと、悪い事でも考えている様な笑みを浮かべた。
そうして三人は恭平を先頭に、とある場所へと向かいだしたのだった――。