36:複合幻影VSタナトス(8)
初見の幻術と言う事もあり、どれくらいの強度があるかは冬真にも分からない――故に全力だ。
鈍い音と共に、一筋の小さな亀裂が奔る。
それを皮切りに幾筋もの微細な亀裂が生れ、それぞれが分岐・迷走を繰り返しながら、音並みの速さで複合幻影へと押し迫る。
長い道のり――とは言え、音速である為に所要時間は二秒にも満たない――を一気に駆け上り、複合幻影の左股関節へ悠々と到達。
ガシャ……ン。
直後、幻術は形を保てなくなり、凛と澄んだ音を残して一瞬で崩れ去る。
何十メートルもの高い場所から、パラパラと氷の微細な破片が落ちてきた。
実に壮麗で幻想的な光景である――人工的ではあるが、これが俗に言うダイヤモンドダストという物なのだろう。
「ガァアアぁ……ぇ……」
複合幻影はだらしなく涎を垂らし、低い呻き声を上げている――ダメージの反応速度は遅いものの攻撃は通っていると見ていい。
そもそも、手足へと直接的に攻撃した時の反応は過剰なまでのものであったが「手応えはまるで」無く、接合部へ直接攻撃した時の反応は鈍いものの「確かな手応え」があった。
一体、この“差”はなんだ?
徐々にダイヤモンドダストが晴れていき、冬真が攻撃した部位がはっきりと見える。
「へぇ、孔は空いているんだ」
先程攻撃した接合部――左股関節――は見るも無残に砕け散り、歪な形の孔が空いている――最早残り少ない細胞で、辛うじて繋がっているような状態だ。
この幻術はきっと、液体窒素に浸して凍結させた植物に少しの衝撃を与えて粉々にする実験……あれと同じ原理なのだろう。
極低温で生物に対して「脆性破壊」を引き起こすなど、ましてや冬真の強力な攻撃があれほど通らなかった巨大複合幻影にいとも容易く孔を空けるなど、今の今まで冬真には想像も出来なかった。
とは言え蒼氷大監獄と違い、様々な場面での汎用性も厳しい条件での応用性もある「この術」は相当に使い勝手が良いのだろう。
その証拠に、仏頂面の“あの冬真”の口元が悪戯っぽい笑みを含んでいる――きっと、良からぬ事を考えているに違いない。
「オ゛ゴオォォオオ……て……」
複合幻影が長々と悲痛な咆哮を上げ、接合部の痛みを紛らわそうと大きな握り拳を天高く振り上げた。
きっとまた蟻を全力で潰さんと、過剰なまでの力で地を殴りつけるのだろうか?
この馬鹿力、厄介だな……。
勿論一般人から十分に距離を開けているから人的被害は考慮していないのだが、これ以上に足場を荒らされてはたまったモノではない。
だったら奴の拳が完全に振り下ろされる前に、今度は右の股関節を破壊する――この一択に尽きる。
それに戦況の流れがこちら側に傾いている今の内に複合幻影を立てなくする事が出来れば、無謀なこの戦いにも十二分に勝ち目がある筈だ。
「もう一回蒼月大氷河だ、ロッド」
そう言った冬真は、再び銀杖を構えて長い詠唱を始めようとする。
「え? 何を言っているんです? もう一回なんて無理です」
けれど対する彼女の返答は、冬真の期待をあっさりと裏切るものであった。
きょとんとした表情を浮かべる彼女は、きっと嘘など吐いてはいない。
正真正銘、蒼月大氷河を再度発現する事は出来ないのだろう。
では何故?
幻術の“蒼月大氷河”の方が、銀杖による物理攻撃よりも効果的なのは明白であるのに。
「もう一回が無理? どういう事だ?」
「どうもこうも無いですよ。冬真自身、解っているのでしょう? 梅雨の時期は“湿度が高い”って事くらい」
「それとどういう関係が……あぁ(成程)ね」
「ふふっ、気付きました? ざっと計測して、現在地周辺の湿度は十パーセント以下。勿論、先程の幻術による影響です。そして蒼月大氷河の推奨される発動条件は湿度九十パーセント以上、若しくは河川等の水辺付近です。全く発動しないとは言いませんが、現状では本来の半分の威力も出ません」
つまり初撃の蒼月大氷河で大気中の水分を殆ど氷へと変換してしまったから、氷の世界と化した現在は外観とは裏腹に乾燥しているのだろう。
だから連続で二度目の蒼月大氷河は撃てない――どうやら、そういう事らしい。
「それじゃ、最後は結局これ……ってワケだ」
幻術による遠距離攻撃を諦めた冬真は、自身の上腕筋を叩いて言う。
いつも通りの近接戦闘――これしかない。
「そうせざるを得ないですね。でも、私では力不足……」
「ア? 今更なにしょげてンだ。力不足なんて最初っから判り切っていただろ」
「えぇ、勿論そうなんですけど。やっぱり……トさんを頼るしか……」
「ごちゃごちゃ煩ぇ。俺にはお前しかいないンだ!」
「ぅええッ! そ、それは告白って事です? 冬真、こんな状況で何を考えているんです?」
冬真が真面目な表情でそう言うと、一瞬にして銀杖の色が桜色へと変色した。
全く、こんな戦闘の最中に何を考えているのだろうか、この女は。
俺の幻影はアリアンロッドしかいないだろ――そんな判り切った事、わざわざ再確認するまでもない。
「そりゃお前の方だ、ド阿呆。今更、逃げンなよ?」
「逃げませんけど、夜にはやっぱり夜でないと……。夜で……night……ぷふ」
何を思ったのか突如ツボに入ったように、アリアンロッドは笑いを吹き出した。