28:腕試し(5)
周囲の空気がやや軽くなるのを、その場に居た全員が感じ取った。
身体に掛かる応力――尤言えば重力と大気圧――が減少した様に思える。
変化はそれだけには留まらない。
突如として夜の空気が一変したのだ。
「ん? これは一体?」
けたたましいクラクションの重低音がドップラー効果により大きくなる。
一体何事かと視線を音源に向けると、車道の真ん中で模擬戦を行っていた彼らを轢かんと、十五トンクラスの貨物車輌が三台連なって迫っていた。
「――って、危な!」
危機を察知し、全員が咄嗟に歩道に滑り込んだ。
しかし、そこでも街行く大勢の一般人と接触しそうになる。
普段見慣れた人ごみと様々な車輌の長蛇の列。
話声やクラクションなどの様々な雑音が飛び交う――突如出現した日常。
事情を知っている稀人達が考えるまでも無かった。
間違いなく、混鏡世界が展開したのだ。
それも、ここに居る大衆の中の誰かの手によって。
普段は現実世界から混鏡世界に進入する事が多いのだが、今回は鏡世界から入る事になった。
体への負担は鏡世界、混鏡世界、現実世界の順で軽減されるので、今回は相対的に体が軽く感じる。
「たく、どこのどいつがこんな事しやがる……?」
名護がぶつくさと呟く中、全員の背中を撫でる様な悪寒が走る。
その後から来る重く、暗く、息苦しい何かがまるで背中に伸し掛かって来た。
一体この重圧はどこから? そう思い名護達は辺りを見渡す。
「あれは、もしかして……」
すると華が、高層ビルの間から怪しい人影を垣間見た。
人影と言っても、サイズは尋常では無く、巨大だ。
あんなモノと戦わなければならないなんて、無理に決まっている!
一人「存在」に気付いてしまった華は身震いする肩を両手で擦りながら、不安を落ち着かせようとしていた。
「華、どうした?」
夏希が華を気遣う。
とは言え、彼女自身も急激に変わる空気を前にして、不安を隠せない状態だ。
恭平と煉に至っては負傷中と言う事もあり、信号機のポールに背を預けて俯いている。
よくもまぁ、ここまでボロボロになったものだと呆れてしまう程だ。
翠子も不安なのか、恭平達の近くでしゃがみ込み、フルフルと体を震わせている。
黒く長い髪が体中を覆い込む様は、人外の生物だと言っても誰も疑わないだろう。
全体に不穏な空気が流れる中、冬真はふと気付く。
さっきまで居た名護の姿が消えたのだ。
こんな非常事態に、一体どこに行ったのだろうか?
とは言え、幻核を破壊しない限りこの状況から脱出は出来ない。
「ロッド、情報検索で幻核を探してくれ」
自身の幻影であるアリアンロッドを武器化させながら、冬真は情報検索を進めさせた。
幻核を使用したと言う事は、少なくとも幻影の存在に気付いている人物――稀人の可能性が高いのだ。
と言う事は、いつ襲って来ても可笑しくない。
辺りを見渡して、怪しそうな場所を探す中、ふと誰かが冬真のシャツの袖を引っ張った。
「――来いッ!」
誰であるかと確認する暇もなく、冬真はもの凄い勢いで近くの裏路地に連れて行かれる。
ぐいぐいと引っ張る人影は小さいものだ。子供だろうか?
華達JP'sメンバーの死角――裏路地の最奥――に入って引っ張る事を止めた子供は、無言で冬真に黒い布を渡してきた。
真っ赤なロングコートに身を包んだ子供は、フードを外しながら得意気な表情を浮かべる。
「これは……コート?」
そして裏路地に連れ込んだ子供――名護は短く息を吐き、ただ一言冬真に伝える。
「急で悪いが、特務だ。手短にブリーフィングするぞ」
「有無を言わせない訳ね、まぁ別に良いけど」
名護から受け取った黒のロングコートに袖を通しながら、冬真は彼の声に耳を傾けた。
「今回の特務で最重要項目は二つ。一つは混鏡化の原因――幻核を破壊する事。もう一つは、どこから湧いて来たかは知らンが、以前報告に上がっていた巨大な|複合幻影(CP)――通称、プラティス。あれの討伐、若しくは撃退だ」
「へぇ? やる事は分かったけど、これ必要か?」
纏ったばかりのコートを指差して、冬真は呟くように訊いた。
「当たり前だ。今現在、混鏡世界が展開している状況に気付いている一般人が何人いると思う? この状況で下手に武器を振り回して通報なんかされても、他の(警察の)部署の仕事を増やすだけだ」
「おいおい、あんな化物と戦うなら、嫌でも通報されるだろ」
「くっくっ、お前が知っているかはこの際どうでも良いが、お前の幻影で、フードの中身は絶対に見えない仕様になっているみたいだ。……顔を出しているか否か、それだけで結果が違ってくるのは、頭の良いお前なら分るよな?」
名護は楽しそうに冬真を諭す。
先の十の検証を見る限りでは、記憶の差替えが発生するのは対象者が死亡する時のみ。
ただの観客としている一般人はこの状況をしっかりと見ている――証拠写真だって撮られかねない状況なのだ。
そんな現状で顔を出して戦ってしまっては、お尋ね者確定ではないか。
名護の言いたい事は、どうやらそういう事らしい。
「それは……分かったけど、華達はどうする?」
今までの彼らの行動パターンを見てきた冬真としては、見ず知らずの人間が巨大複合幻影と対峙しているのにも関わらず、華達が見て見ぬふりをするなど、どうしても考えられなかった。
きっと姿を伏せた冬真と共同戦線を張るに違いない。
そんな奴らなのだ。
今、冬真と行動を共にしている仲間は。
名護は赤のロングコートを脱ぐと、ジャケットの内ポケットから取り出した煙草に火を付ける。
「そりゃお前の勝手だ。……ケド、あいつらのためを思うのなら戦わせるな。それだけだ」
煙草をくゆらせながら言う彼の言葉を聞いた瞬間、冬真は静かに口元を緩めた。
きっと、少しだけ安心したのかも知れない。
名護の性格を考えれば、JP'sメンバーで総力戦を命じてもおかしくは無かったからだ。
どうやら、冬真は名護の事を誤解していたらしい。
「……了解」
後は俺が何とかする。
そういった意味を込めて冬真が浅く頷くと、名護も意図を理解したのかいつもの様にくっくと低く笑い声を上げた。
「ンじゃ、仕事の時間だ……行くぞ、ロッド」
「えぇ、そうですね!」
冬真は素早く武器化させた銀杖を硬く握り締め、再び表通りへと急ぐのだった。