23:世界の仮説(3)
「――とまぁ、こんな所か。これを見て気付く事は?」
以上、十の実証をさらりとホワイトボードに板書し終えて名護が皆に振り向く。
一方の夏希と翠子は目の前の十項目見た瞬間に戦慄する。
人が殺された後の死亡を認識出来るかどうかのシステムが、まさかこんなにも複雑だったとは思いもしなかったのだ。
じっと板書を見つめていた冬真は組んでいた腕を解く。
「第三者の視点からして基本的に稀人は記憶を無くす事は無いし、一般人の記憶が消滅してすり替わる時は決まって混鏡世界か鏡世界で事が起こる時だ。詰まる所――共通点は殺害に幻影が関わっているかどうか、って所?」
「ふふっ、鋭いな、冬真。そう、これらの実証における共通点は、今冬真が言った通りだ。そして更に言えば、最初に出した話題である一家惨殺事件――こいつはその例に漏れず、事実上最新の「幻影による殺人」だ。そこまで言えば勘の良い奴なら、そろそろ解るんじゃないか? 俺の言いたい事が」
冬真の回答を受けた名護は、満足そうにそう言って不敵な笑みを見せた。
この数十分の間に未知の情報が出回り、大分情報が交錯してしまった。
それも取捨選択する余地の無い、全てが必要で重要な情報だ。
名護の返答を受け、冬真なりに情報を整理し始める。
まず、真琴の「魔の領域ノート」に記載されていた事件は、六年前。
当時の事件が完全に消えたのは一カ月後だった。
確かノートの最後の方に書いてあったか。
次に名護のキーワードにあった、藤木家一家惨殺事件。
数日前に発生したソレは、少なくとも今日の夕方に完全に消滅している。
そうなると名護の言う通り幻影から殺された事になる上、二つの事件を照査すると、遷移的に記憶の保有時間が短くなっている。
それに――昨日の事もある。
そもそも稀人とは言え、現実世界で幻影の力を扱える筈が無い。
コーヒーカップが凍った……いや、無意識下で冬真が凍らせたなんて、冬真自身、今でも信じる事が出来ないでいた。
モノを凍らすなど、明らかに冬真の幻影であるアリアンロッドの力の一部である。
きっと│蒼氷大監獄の下位互換技なのだろうか?
その上、名護が気付いていたかは分からないが本の一瞬だけ、冬真の左腕がアリアンロッドの義手に変化した。
赤い、まるで生きているようなあの義手だ。
変化の過程に対して、特段腕に違和感はなかった。
だからこそ冬真は動揺し、コーヒーカップを落としてしまったのだが。
しかしながら、これではまるで現実世界と鏡世界、混鏡世界――全ての世界が「稀人」だけを存在させようとしている、生かそうと結託しているみたいではないか。
そんな事は有り得ないし、考えるだけ馬鹿々々しい限りである。
そんな常軌を逸した空想論。
でも、今なら有り得るのかも知れない。
冬真はそう思える程の域に達していた。
華や夏希、翠子からしてみれば「何と素っ頓狂な答えだろう」と思われるかもしれないが――名護の聞きたかった答えは、きっとコレなのだろう。
「世界の……融合――?」
しばらく考え込んでいた冬真の口から不意に零れた一言。
結論が出た瞬間、考えと同時に言葉にしてしまったのだろう。
幻影と関わり、未知の世界に足を踏み入れ、殺人事件に首を突っ込んだ挙句――これまでの話を大きく飛躍させて、世界と来た。
自分が今、何を言っているのかは重々に自覚しているつもり。
けれど冬真にはどうしても、そう思えてならなかった。
「融合って、冬真。現実世界と鏡世界が、か? そんな、有り得無いだろう?」
夏希と華が「何を冗談な」とでも言いた気に、冬真の意見を笑って否定する。
それが普通の反応――常識的な反応なのだろうが、冬真の答えは彼からしてみれば大真面目だ。
事実、大きな根拠がある。
きっと最初から答えは出ていたのかも知れない、大きな根拠が。
「絶対に有り得無いワケでも無いだろ? 現に混鏡世界があるくらいだ」
そう言った冬真は続け様に、夏希と華に事実を突きつけた。
六年前の真琴の事件では深夜零時ばかりであったのに対して、ここ最近になってからは時間の制約すらなくなってきている、と言う事を。
「……あ」
夏希と華はハッとして、開いた口を手で抑えた。
漸く点と点が結ばれて繋がったのだろう。
「ふはは、結構結構。良い答えだ。補足すると、融合している人物を俺達はもう一人知っている」
「あ? もう一人?」
三人の討論を静観していた名護は、煙草に火を付けながら勿体ぶった言い方をした。
三人は小首を傾げて彼の次の言葉を待つ。
「エンヴィーネだ。原因は解析中だが、冬真とは違って彼女は意識が融合していた。「憑依」ともとれるが、どちらにしろ、強制的なモノだ。まァ、そんな事が起きてしまったから、後天的な拒絶反応が起こっても不思議では無いわな」
その言葉を聞いた瞬間、夏希の顔から生気が消えた。
妹にそんな事が起きていたなど、知らなかったからだ。
自分だけが殺伐とした王室から解き放たれ、のうのうと一般家庭で暮らしていた事を、きっと自分の責任だと感じているに違いない。
華が夏希の肩にそっと手を添えて、気持ちを落ち着かせようとしている。
名護の話を聞いて冬真も更に繋がった事があった。
自動翻訳についてだ。
五月の連休に出会ったミハエルは混鏡世界では言葉が通じていたのだが、幻核のスイッチを切った瞬間――現実世界に戻った瞬間――言葉が通じなくなったのだ。
それに対してエンヴィーネとは現実世界でも言葉が通じていた。
今思えば、口の動きは全然日本語では無かった様に思える。
「とは言え、まだ仮説の段階だ。原因が分からない上に、そうなる意図も見えないんだからな」
煙草をくゆらせながら名護は話を締めようとするが、不敵な笑みは消えてなどいなかった。
おそらく「その先の仮説」も立てているのだろうか?
とは言え「それ」までを口にしないと言う事は、根拠がまだ無いのだろう。
名護の思考を冬真なりに推測しながら、彼は根本的な疑問を名護に打ち明ける。
「なぁ、名護さん。何でそんな重要な事を今言うんだ?」
その言葉に全員がハッとした。
これ程までに重要な事を全員揃っていない時に打ち明けるなど、無意味なのではないか?
「ばーか。藤木は家族が殺されてンだ。その上、殺された事実を知るのはごく一部の人間である稀人のみときた。傷に塩塗るなんて野暮な事するかよ。俺ぁこう見えても結構、皆に気ぃ使ってンだぜ?」
と言う事は、先程の一喝も(煉を野外に出させる為の)計算の内だったってワケか?
中々に食えない男のようだ。
得意気に名護はそう言い、煙草を灰皿に押し付けて鎮火させた。
「さぁてと、そろそろ模擬戦も大詰めって所じゃないか? 見に行くぞ?」
そして重い腰を上げて窓の桟に手を添え、一番乗りで鏡世界に入って行く。
華と翠子も名護の後を追って窓へと身を乗り入れた。
残ったのは冬真と未だに呆然と立ち竦む夏希の二人だけ。
放心状態の夏希の頭上に、冬真が掌をそっと置いて言う。
「いつまでそうしてンだ。行くぞ?」
「あ……あぁ。そうだな」
夏希の意識が戻った事を確認し、冬真と夏希も鏡世界へと身を投じるのだった。