14:氷の力(2)
――くそ、熱過ぎなんだよ!
そう思ったのも束の間で、名護の怪訝な表情に冬真は首を傾げた。
「おい! お前、それ……」
「は? 何だよ……って、ンッ!?」
最初、冬真には名護の言っている意味が解らなかった。
しかし、ふと自分の手元へと視線を落とした瞬間、その理由を理解する事になる。
それと同時に思わず動揺してしまった冬真は、コーヒーカップをテーブルに置きそびれてしまった。
するりと冬真の指から離れたそれは静かに床に落ち、スローモーションが掛かった様にゆっくりと荒く砕け散ってしまった。
その中身でさえ「同様」に……。
「凍った、のか? コーヒーが……」
見とれてしまう冬真の口から、驚愕の声がそっと零れる。
黒い固形物となったコーヒーの破片は徐々に溶け出し、元の液体に戻ろうとしていた。
――そう。事実は、彼らの目の当たりにした光景と通りだった。
冬真の握ったコーヒーカップとその中身は、一瞬にして凍りついたのだ。
呆気に取られる二人は暫くじっとその光景に、身動ぎも出来ない。
一体、何が起きたのか?
いや、「何」が起きたかは、目の前の状態を見れば明らかだ。
二人が知りたいのはその起因である。
現実世界で幻影を使うなど、異常事態の何者でもなかった。
「まさかこんな事が起きるなんて……全く、世も末だ。こりゃ、早急に原因を調べてみる必要があるな。おい、フレイア! 情報検索だ」
「はぁい! だーりん。情報検索を開始するわぁ」
名護の後方――デスク後ろの窓ガラスで待機していた自身の幻影であるフレイアに、つい先ほどの出来事を洗いざらい調べるよう指令を出す。
命を受けた一方のフレイアは、相変わらずに空気を読む事は苦手なのか至って通常運行だ。
艶めかしい声調で許諾すると、彼女は瞳を閉じて集中を始めた。
髪と瞳、衣服に至る全てが赤色で統一され、整った面構えと白い肌の彼女。
何をせずとも動作一つ一つが目を惹くコケティッシュな印象の女性だが、先程とは打って変わり凛とした佇まいを見せる。
その様子を横目で確認していた名護は、一つ安心して冬真の方へと視線を向けた。
「とにかくまぁ、これは冬真の手柄だ! 情報検索の結果次第では、滅日と関係があるかも知れん。なんせ、現実世界で力を使うなど……人類未踏の地だからな!」
やや興奮気味の名護――冬真は彼のこんな姿を見るのは実に初めてである。
傍から見れば少年が嬉々としている姿にしか見えない為、年齢相応の反応に捉えられてしまいがちだ。
だからだろう……冬真は事情を知っている稀人の目線と、事情を知らない一般人目線の両方から名護を同時に見てしまった為、ついクスリと笑みを零してしまった。
「ふっ……名護さんも、そういう風に喜ぶんスね」
冬真は冬真で珍しく穏やかな表情を浮かべ、そんな名護の様子を見ていたのだが――。
「誰が喜ぶって?」
「って、真琴? ……んー」
唐突に執務室の扉が開き、良い「悪い顔」を浮かべた真琴が揚々と入って来た。
勤務後の疲れを微塵も見せず、すぐさま冬真の背後を取り、彼の頭頂部に組んだ腕を伸し掛ける。
ずっしりとした彼女の重みの中には(何となくのレベルで)柔らかい部位があるように感じられた。
これが最初ではない冬真は「ったく、またか……」と、内心零す。
視線を上げて確認する必要はなかった。きっとこの柔らかい部位は真琴の下乳なのだろう。
昔から回数を数えていた訳では無かったが、少なくとも冬真にしてみれば性的なサービスではなく、ただの迷惑行為である。
大体、人を肘掛けか何かと勘違いしているんじゃないか?
この頃はそう思えてならない程だ。
とにかく、じっと我慢する彼であったが、何か彼女に訴えたい不満気な表情は余りにもあからさまだった。
「なによ、その顔は。御姉様のおっぱいを服越しに感じられて嬉しく無いわけぇッ? ……とまぁ冗談だけど。それよりアンタ、また怪我したの? そういう所だけ「男の子」しなくて良いのよ?」
真琴はそう言うと、冗談交じりに冬真の左腕を軽く叩く。
勿論、怪我をしている事を知っていての事だ。
「いい゛ッ!? いきなり何すん……」
「たーく、付いて来な。治したげる、腕」
ふふっと笑みを零した真琴は、その場に立ち上がって鏡世界へ入る為に近場の窓へと近づく。
幻影(潜在能力)には主に二つの力に分類される。
幻影が武器化した際に本来とは異なる(若しくは元々潜在していた)特性を付与する「幻装」と、コードと呼ばれる呪文紛いを詠唱して発動させる「幻術」の二種類だ。
真琴が以前使用した治癒系統の幻術を思い出した冬真は、彼女の意図をすぐに汲み取った。
現実世界では使えない幻術を行使するには、幻影と稀人が同じ次元に存在出来る「鏡世界」若しくは「混鏡世界」に行かなくてはならないからだ。
言われるがままに冬真は彼女の後を追って鏡世界に入った冬真は、すぐさま真琴の治癒幻術を受ける。
「にしても冬真君、どうしてこんな大怪我したの? 筋肉繊維がズタボロじゃん。誰かにヤられたの?」
真琴の隣でじっと見ていた彼女の幻影であるヴィーヴルが、包帯を解いたばかりの冬真の腕をじっと観察しながら言う。
「いや、原因は自分だ。九十番台を無理に使ったからこうなったんだ」
「九十番台? そりゃ、習いたての大技の筈……あー、まぁ今の話で繋がったよ」
ある程度の話は既に聞いていた真琴とヴィーヴルは、当時の事情を察したのか薄っすらと苦笑いを浮かべるばかり。
治癒が終わり、腕と手の関節全ての動作を確認していた冬真は、予想通りの二人の反応に肩を竦めた。
身の丈に合っていない技を本番(戦場)で使うなど素人のする事だ、と二人はそう考えているのだろう。
そんな事は冬真自身も勿論分かってはいるのだが、如何せん生死を分ける判断がそこにはあった。
だから冬真は自分の判断が間違っていたとは、どうしても思えないのだ。
「サンキュ……ンじゃ、戻るか」
冬真と真琴は鏡世界へと侵入した窓に手を押し当て体ごと入り込み、現実世界へと戻る事にする。
「遅っせぇええー! 一体いつまで掛かっているんだ! さっさと戻って来いッ!」
幻影対策室・室長執務室へと戻って早々、名護の怒声が室内に響き渡った。
一体何事なのだろうか?
耳を抑えながら冬真は片目を細める。
普段から感情に流される事のない名護が、大声を出すのだからそれ程までに急な案件なのだろう。
とは言え、このまま部屋に留まっていて、不本意ながらに「とばっちり」を受けるなど冬真からしてみれば良い迷惑である。
「JP'sに行こうか?」
こそっと冬真に耳打ちをする真琴に背を押され、二人はJP'sに場所を移動する事にした。