07:通り魔(2)
「え……!?」
突然の短い炸裂音。
一瞬にして受け取って間もないメモ帳が粉々に破け散ってしまった。
呆気に取られた華であったが、すぐにこの場の異変に気付く。
立ち込める紫の霧と、重苦しくて冷ややかな空気。
何よりも朱雀が肩に止まっている。
ーーこれって、どう考えても混鏡世界……だよね。
その上、例により華の体調は急降下を始める。
まずいな、こんな時に。
これじゃ今日の仕事――人探し――が終わらないよ。
華は肩で羽を休める朱雀に、幻核の位置を情報検索「レファレンス」するように頼んだ。
「な……、一体何が起きたん――」
動揺を隠せない男は狼狽え、焦りの声を上げる。
パァンッ!
再び炸裂する乾いた音。
そして男のか細い悲鳴。
男の左脛からどろりとした血が垂れてくる。
目を凝らすと穴が開いている。
米粒にも満たない程に小さいが、紛れもないそれは風穴だ。
その様子を目の当たりにし、華も連鎖的に顔を引きつらせる。
なんで?
一体誰が、何の為にこんな事をするの?
稀人である華でさえも、現状の把握がままならない。
あまりにも突然の事に、気が動転してしまいそうだ。
とにかく急いで朱雀!
そう願ったのも束の間――華の感情を嘲笑うかのように、またしても乾いた音が響く。
今度は右脹脛が抉れて、多量の血飛沫を上げた。
これには堪らず、男は声にならない声を上げて地面をのた打ち回る。
「だ、大丈夫ですか!?」
そんな状況で大丈夫な筈が無い事は百も承知だが、それでも彼女は居ても立っても居られない。
華はその場でしゃがみ込んで男の傷を診ようとする。
男は必死に傷口を抑えて痛みと格闘していた。
痛みを痛みで紛らわせるために、無意識に抑える手に力が籠る。
「ち、畜生っ! こんな事になるなら――」
「え……!?」
華は今日何度目かの、間の抜けた声を漏らす。余りにも早過ぎる展開に、彼女の頭では処理できないらしい。
そんな華にでも理解出来る事と言えば、現状では一つだけあった。
次の瞬間に待っているのが――痛みだという事だ。
あぁ、やっぱりこの人が噂の不審者さんだったのかな。簡単に他人を信じちゃダメだね。今更だけど……やっぱり冬真の言う通りだった。
た、たす……助け、てぇ。
絶望の淵に立つ少女は恐怖で目を強く瞑り、そして叶う筈の無い希望を願う――。
「助けてぇえ! 冬真ッ!!」
キィンッ!
甲高い金属音が、夕闇に包まれた住宅街に反響した。
きっとあたしは刺されたのだろう。そう認識していた彼女だったが、不思議と痛みは感じない。
恐怖で目を瞑っていた事もあり、この時の華は全身の神経が研ぎ澄まされていた。
にも拘らず、痛覚は皆無だった。
強いて言うならば、腰が引けて尻餅をついたくらいだろうか。
恐る恐る華が目を開けてみると――足元には刃渡り十五センチメートル程の果物ナイフが落ちていた。
守ってくれた時の後ろ姿が凄く格好良かった、と言うのが華の本音だった。
身の危険が無くなり、安心して頬が緩むのが華自身も分かった。
今のあたし、上手く笑えているかな?
はにかむ華の顔を見て、恭平は仄かに赤面させる。
――あ、照れてる、照れてる。
それを見て華は悪戯に微笑んだ。
恭平は気を取り直して、不審者である男を観察した。
華も恭平同様に男から距離を取り、男の傷口を見る。
男の流血はまだ続いており、呻き声を上げながら両足と手の甲を抑えていた。
足の傷は分かるが、何故手も抑えているのだろうか?
疑問に思った華は、隣で麒麟を肩に担ぐように構える恭平を見る。
そうか、不審者である男のナイフを突剣状態の麒麟で叩き落としたのか。
だから、手の甲をあんなにも必死に抑えているのだろう。
「にしても、なんで足にこんな傷を負ってんだ、こいつ」
男の傷具合を鑑みて判断したのだろう恭平は、麒麟の武器化を解きながら呟く。
彼の呟きに、華は思い当たる節を思い出した。
「そう言えば、どっからか銃声っぽい音が聞こえたとよね」
頭の回転が良い冬真に感化されたのだろうか?
華がそう言うと、恭平は顎に手を当てて考え始めた。
「銃声に混鏡世界……もしかして、誰かが華を狙っているんじゃないか?」
「んー、そう考えるのか。でもそれじゃあ、この人が撃たれた説明がつかないよ?」
華自身も一瞬その考えが浮かんだ訳だが、この数発の狙撃の時は、彼女も男同様に完全に無防備だった。
しっかりと確実に狙えた筈なのだ。
それに銃声が鳴るまで混鏡世界の存在に気付かなかった。
きっとそれは撃つ直前に展開したって事だ。
「そ、そりゃあ……あれだよあれ。誤射だよ!」
「そんなワケないでしょ?」
清々しい程の馬鹿な解答をどうもありがとうございました。
呆れきった華は恭平を内心でそう揶揄した。
でも、それが何故かしら可笑しくてふふっと笑みが零れた。
図らずも場を和ませる事が出来たのだろうか。
恭平も釣られて得意気に笑った。
とそこへ、華の肩で羽を休ませていた朱雀が鳴く。
そう言えば情報検索を頼んでいたんだっけ?
「それで、どこから?」
「あの方角だ」
華がそう尋ねると、答えながら朱雀は片翼でビシッと指し示す。
この方角にはこの町に唯一の神社である、守浜神社くらいしかない。
その先は深い雑木林となっていた。
「くらいしかない」とは言え、現在地から神社までは結構距離がある。
直線距離にして少なくとも二キロメートル以上はあるだろうか。
それをあの精度で撃ってくるなんて――狙撃のプロでもない限り、不可能に近い技術だ。
そもそもプロを相手に対峙するなど、最早自殺行為と変わらない。
その事実が徐々に実感に変わったからか、かつて無い程に二人の脈は早く強く、呼吸は浅くなっていた。
それでも、とにかく神社に行ってみなくてはこの一連の流れの真相が掴めない。
こんな状況だろうと、きっと冬真だったら行く筈だ。
それに、仲間である恭平が来て二人になった事で、心強くなった自分に気付く。
やはり夜の遅い時間帯に一人では心細い面もあるだろう。
いくら勝気な性格の彼女であろうと、寂しいものは寂しいのだ。
華とて一人の女性なのだから。
「ありがと、恭平」
「へ? 急にどうした?」
「ううん、何でもなかー! |はよ行っが(早くいこう)!」
そう言った二人は、足早に守浜神社を目指す。