05:特務の代償(4)
いつしか冬真の目には、周囲の人間全てが仮面を付けて生活している様にしか見えなくなっていた。
腹を割った話が出来る人間も居ない……友達なんて、所詮は形でしかない。
ならば一層の事、人を避ければ済む事だ――。
それが、今の冬真の性格の九割の根源である。
残りの一割は、従姉弟の真琴との生活が起因しているに違いない。
「……ふっ、馬鹿馬鹿しい」
彼女のストレート過ぎる毎回の表現方法は頂けないのだが、今までは強く拒否し過ぎていたのかもしれないな。
アリアンロッドの前なら肩の力を抜いたって、どうって事は無い。
ならば少しは受け入れよう。
少しずつ、少しずつでも――。
冬真は寄り添ってきた彼女の肩に、無意識に優しく手を添えていた。
「……え?」
アリアンロッドは最初でこそ驚いた表情を見せた。
けれど冬真の心情を察したのだろう、嬉しそうに目を細めて頬を赤らめる。
「……んー!」
気付けはアリアンロッドに再びキスを求められたが――流石の冬真もこれは断固拒否した。
バチンッ!
という冬真史上で、一番大きなデコピンの音が教室に木霊する。
「ロッド、お前の顔がさっきの醜さに逆戻りしている事に自分で気づけ」
「ううう……酷いです、冬真」
鏡世界内の教室でのたうち回る彼女に、冬真はため息を零すのだった。
暫くして部活を切り上げてきたジャージ姿の華が顔を見せた。
髪は汗でしっとりと濡れ、開ける胸元を蒸し暑そうに手で扇いでいる。
「お待たへ、冬真。じゃあ行こっか」
そう言った華は、既に自分の荷物に手を掛けている。
今から着替える気は、どうやら無さそうだ。
それに微かに見えるブラの肩紐は――見せてるのか?
冬真だって男だ。気にならないと言えば嘘になる。
「……着替えないのか?」
「いや、むしろコッチ(ジャージ)のが動きやすいし……て、あ」
そう言い張る華だったが、突然何かに気付く。
そして慌てた様子でハート型の小さなポーチを取り出し、廊下に出ると物陰に隠れた。
その直後の「シューッ」という断続的な音。
制汗スプレーの噴射音だろうか。
教室に戻ってきた華は、さっさと身支度を済ませると冬真の鞄までをも掴んだ。
気を付ける場所が違う気がするのだが?
冬真は呆れながらも、口には出さなかった。
「さッ、気を取り直して行こー!」
「おい、何を」
直っていない華の服の乱れと、冬真の鞄とを見合わせながら、彼はそう言葉を発した。
「何って、怪我してんだから持ってあげっと!」
華はそう言うとニッコリと笑いかけ、一人でさっさと鏡世界に入ってしまった。
善意行為だという事は明白だが冬真にとっては不要な行為だ。
「……余計な事を」
華の背中を恨めしそうに睨み、渋々と自分も窓に片足を突っ込む。
「ほら、それです。好意は素直に受取りましょう?」
怪我人扱いされた事が冬真としては癇に障ったのだが、アリアンロッドに指摘されてから少し頭を冷やした。
確かにこの程度で腹を立てていては、俺の器の大きさなど高が知れている。
冬真は自嘲気味に笑った。
「ははっ、そうだな」
「…………」
目を見開いて驚くアリアンロッドを尻目に冬真は、もう片方の足を窓に突っ込んで
JP'sへと向かった。
◇ ◇ ◇
先にJP'sへと着いた華は、手際よく給湯室で淹れたお茶をお盆に乗せていつもの会議スペースに運ぶ。
すると丁度、冬真が窓から部屋に入ってきた。
――まったく、来るのが遅いな冬真は!
華は、そんな彼を目で追いながらお盆を机の上に置いた。
「珍しいな」
そう言いながら冬真は適当な椅子に座る。
特に、席の指定は無い。
「そう? はい、どーぞ」
彼と自分、それぞれの前に湯呑を置いて華も向かい側に腰を下ろす。
「……サンキュ」
湯呑を引き攣った表情で受け取る冬真。
何を隠そう、冬真は猫舌なのだ。
その情報をすっかり忘れていた華は、疑問符を頭上に浮かべながら自身のお茶を啜る。
そしてふと目に留まった机のA4サイズの茶封筒が気になった。
やはり今回の仕事も人探しなのだろうか?
だとしても、前回のような展開は避けたいものだが。
冬真も目に留まったのか気になっている様子だ。
怪我をしている冬真の代わりに、彼女が手を伸ばして茶封筒を開けてみる事にする。
中に入っていた指示書は一枚のみだった。内容を確認すると、やはり人探しの様だった。
「冬真、今回も人探しの仕事みたいだよ」
「そか。期限は?」
そこはかとなく乗り気では無い雰囲気を出していた冬真は、「ふぅん?」と言いつつも期日を華に訊く。
――ああ、そっか。なにも急いでやる必要はないのか!
冬真に言われた華は、期限の項目に視線を走らせる。
――えっと、期限は――六月四日の月曜日か……ん?
それって、今日ッ!?
期限は守らないといけないけど、怪我している冬真は頼れないな。
かといって一人では仕事に行った事ないし。
……えーい、頑張れ私ッ!
知能の足りない華は、もてる力を全て脳に注ぎ込み考えた。
煙でも出そうな勢いで考えた所為か、考えている最中に息を止めていたのか、微かに彼女の顔が赤くなっている。
「え、えっとぉ……ど、土曜日だよ」
ホントは嘘なんて吐きたくない。
けど……冬真の事を考えると、きっとこれが正しいんだ!
華は自分にそう強く言い聞かせる。
「土曜、か」
別の意味を含んだような冬真の返事に華は少しドキッとした。
何か、考える素振りを見せる冬真に、嘘がバレてしまったのではないかと不安を抱いてしまう。
一方の冬真は、丁度名護から言われていた特務の日だったから困ったものだ。
少なくとも金曜日中にこの案件を終わらせなければならなかった。
「うん。てか、まだ日にちもあるし場所も近いみたいだし、今日中に急いで探さなくても良いよね? ね?」
冬真の眼前にずいと迫り、同意を求める華。それは「絶対に今日は行かせないぞ!」という彼女の意志の表れだった。
それに華としては冬真を早く家に帰して、捜索の時間を少しでも長く確保したかったのだ。
「……わーったよ」
冬真は華の行動に少々戸惑いながらも、これから帰る事に同意する。
彼女の説得が功を奏したらしい。
――良かった!
そもそも、こんな怪我をしているのに、仕事に行くかどうかで迷うなんて冬真どうかしているよ。
そこは即答で「行かない」と言って欲しかった。
華は冬真に対して内心不満気ではあったが、同時に心配もしていた。
だから尚更、歯痒かったのだ。
怪我をしてまで続ける活動ではないと。
「じゃ、私は洗物を済ませてから戻るから、先に帰っていて?」
華は洗物を口実として使い、先に冬真を帰らせようとする。
これで冬真が予定通り帰れば、さっそく仕事に取り掛かろうと心に決めていた。
「お前、自分から誘っといて「先帰れ」は無いだろ。待ってやるから、さっさと済ませろよ」
そう、予定通りの動きをしてくれないのが、彼である。
その上、華の考えの斜め上の反応をされてしまっては、彼女自身が戸惑ってしまう。
否、戸惑った。
――ええ! う、嬉しい!
冬真からそげん優しか言葉が聞けるなんて思ってもみよらんかった。
……って、ちがーう! ばかばかあたし!
今はその優しさが邪魔なのに……。
なんか、複雑だな。
でも、そんな事なんて言ってられんもん!
ここは強引にでも帰らせなきゃ!
そう思い立った華は、思い切って冬真の腰辺りに腕を回して抱き付き、瞬発的に腕に力を込める。
「ふんむぅうッ!」
そして力ずくで鏡世界へと押し込もうとしたのだけれど……無理!
無理無理無理っ!
男子はやっぱり重かった。
華は一瞬だが酸素欠乏となって、その場にへたり込んでしまう。
「? お前何がしたいんだ?」
その直後の冬真の目!
そんな目で見ないで欲しい。
なんか、虚しくなるから。
自分の不甲斐無さに、思わず溜め息が零れる華。
ちらりと冬真の顔を覗くと、彼の口からも溜め息が零れた気がする。
どこかしら元気が無いようにも思えた。
「……ンなに帰って欲しいんなら、先に帰る」
冬真が脱力した声で言う。
あぁ、この声は見切りをつけた時の声だ――。
華は自身の体が格段に重くなっている事に気付く。
バッサリと切り捨てられたような感覚が纏わり付き、物凄く居心地が悪い。
「……あ」
もしかしなくても怒らしちゃったのかな?
絶対にそうだ。
JP'sに誘ったのも、力ずくで追い出そうとしたのも、あたし。
怒って当然だよ。
でも、あたし――。
「そんなつもりじゃ……」
華には弁解の余地も無い。
冬真はすぐに帰ると思いきや、目の前の湯呑を掴むと一気に喉に流し込んだ。
そして全てを飲み終わった冬真は無言で自分の鞄を引っ掴み、ひょいと窓を飛び越えて出て行った。
――なんであたし、いつもこうなのかな。
胸の蟠りは暫く晴れそうにないけど、これから一人で仕事をするんだ!
気持ちを切り替えなきゃッ!
ここでこうしていても、進展なんかしないもん。
いつも皆の為に無理する冬真の為にも、絶対に成功させてやるんだから!
華は決意を新たにし、鏡世界へと足を踏み入れるのだった――。