16:特務(3)
◇06月02日 (土)◇
迎えた土曜日の朝は、空気がじめじめしていた。
六月に入った途端に湿度が急激に高くなった気がする。
今日も生憎の雨雲が天を覆い、いつ降ってもおかしく無い状態だ。
しかしこんな蒸し暑い状態にも関わらず、冬真はJP'sから支給されたフード付きのコートで身を包んでいる。
「……暑い、死ぬ」
彼がそう零すのも無理はない。
丈も馬鹿みたいに長く全てが漆黒なソレは、微かに差す太陽の熱さえも吸収し、全身の温度を今もなお上昇させているのだから。
その上、やたらと分厚い。
少なくとも夏用の生地では無かった。
いくら人物を特定されない為とはいえ、流石にこれは暑すぎる。
既にコートの中のTシャツとパンツは汗と水蒸気でじっとりと湿っていた。
すぐにでも着替えたい彼の心境としては、はっきり言って気持ちが悪かった。
「……溶ける」
あまりの暑さで溶けて死なない為にも、早急に荷物の確認を済ませて鏡世界へと足を踏み入れた。
鏡世界に入ると、ひんやりと冷たい空気が体を包み込む。
アリアンロッドによると、ここでは四季による気温変化が殆ど無いとの事。
その代りと言えば、自身の幻影の特性に合わせた体感温度になるらしい。
冬真が涼んでいる間にアリアンロッドには、レファレンスで例の工業都市に繋がる場所の検索を任せた。
場所も特定しているし、検索時間はそれほど掛からなかったようで、検索完了と同時に現地へと向かった。
――現地はしっとりとした雨が降り続き、朝靄が視界を狭める。
日本ほどの蒸し暑さは無く温暖な気候で、ゆっくりと汗が引いていくのを感じる。
「――さて、仕事を始めるか」
誰に言うわけでもない。
冬真自身に言い聞かせるように言葉を吐き、ゆっくりと周囲を見渡す。
しかし、そこはまるで地獄絵図だった。
一年ほど前に起きた東日本大震災並みに酷いあり様で、原形を留めているものは何一つ無い。
取りあえず対象である少年を探すべく、彼は歩き出した。
人生で初めて目の当たりにする廃墟同然の街は、どこを歩いても静けさに満ちている。
しばらく捜索を続けていると、前方から男性の話声が聞こえた。
よく目を凝らして見ると、続々と米兵が一か所に集結しているではないか。
被災者の捜索も兵士がしているのだろうか?
そう疑問に思ったのだが、冬真はすぐにその考えを棄却する。
――いや、それは無いな。
純粋に救助だけなら、肩から下げているライフルは必要ない。
そもそもライフルだけではなく、兵装毎に対陣を組んでいるところを見ると、応戦の準備だろうか?
「自衛」が目的か、それとも「殲滅」が目的か……。
どちらにしろ標的は冬真と同じく、あの少年の様だ。
とは言え、今回はあくまで隠密での捜査を義務付けられている。
まだ十分に米兵と距離はあるが、見つかってしまっては意味が無い。
先の制約さえなければ共同捜査も視野に入れる事が出来るのだが、まぁ破る訳にはいかない。
それは冬真自身の保身も意味する。
言ってしまえば、現在地は無法地帯と言っても良い訳で、「何を」されても不思議ではないからだ。
別な場所を探そうと身を屈めて米兵に背を向けると、今まで聞いたことも無いような奇妙な音が聞こえる。
何かこう、高硬度の金属がすり潰されるような――そんな怪奇な音だ。
何事かと思い、神経を研ぎ澄ませて音源に接近を試みる。
ソレは、どうやら大きな瓦礫の物陰から聞こえるみたいだった。
物陰の脇から首だけ出して確認する。
「もしかして、コイツか?」
そこには配布資料の項目を全て満たした少年が屈んで、何かを口に運んでいた。
少年は食べる事に夢中らしく、背後で様子を見ている冬真の存在に気付いていない。
今なら特務を遂行するには好都合だ。
冬真は少年の背後を取り、息を殺して近づくと懐からJP'sからの支給品である手錠を取り出す。
このまま拘束して連れて帰れば、任務は完了だ。
案外簡単な任務だったと感じつつ、手早く手錠を少年の手首にかけた。
「誰!?」
そこで漸く冬真の存在に気付いたのか、少年は肩をビクつかせて驚く。
その拍子に、食べていた小さな乾パンを落とした。
少年はパッと振り返ると、神妙な面持ちで質問を投げてくる。
何故少年と自分との間に自動翻訳が?
冬真はハッとして後ろを振り返ると、珍しく表情の硬いアリアンロッドが少年を凝視していた。
彼女と同じ空間に冬真が居るという事は、やはり混鏡世界化しているらしい。
「ったく、毎度唐突だな。これも誰かの仕業か?」
少年の質問には応じず、アリアンロッドに問う。
すると表情はそのままに、彼女も分からないと首を横に振る。
そして再び少年をじっと見るアリアンロッド。
「ええ。誰かが故意に混鏡化させたみたいですね」
「まぁいいや。これ以上面倒事が増える前に、帰るぞ」
捜査の指示書には少年の身柄の確保が最優先事項とある。
ならば他国の諍いには下手に首を突っ込まず、米兵に任せれば良いのだ。
元より隠密行動厳守である為、目的を達成した今となっては、長居は無用。
けれど冬真の思惑に反し、アリアンロッドは表情を更に渋らせた。
「それは出来ません。テスカポリカとは一種の隔離空間。展開範囲にいる限り外部との連絡は完全に断たれるんです。だから鏡世界には行けません」
結局、テスカポリカを解除する為にはコアを探して破壊しないといけないらしい。
言われてみれば確かにそうだ。
「混鏡」なのだから、現実世界と鏡世界が入り混じっている――半分は既に入っている――事になる。
詰まるところ展開範囲外に出るか、コアを破壊しない限り、日本に帰る事は出来ないのだ。
「ロッド、情報検索を頼む」
「あーい、分かりました」
アリアンロッドは気のない言葉で返し、瞳を閉じる。
どうも彼女らしくない。
流石の冬真も、いつもと様子が違う事に薄らと気付いていた。
とは言え気付いた所で、冬真から事情を訊く事はまず無い。
どうせ黙っていれば痺れを切らせて、自分から言ってくるに違いないのだ。